続きが書けないので短編。供養です

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第1話

 日宮冥は、出所当日の朝を迎えた。

 

 椅子に座り、自分の手を見下ろす。紺色のジャージから伸びる白い手の甲には、骨が飛び出した傷跡が残っている。

 

 娼鬼を殺すための手で、母を殴ったのだ。

 

 薄暗い寝室。母の肥大化した欲望が、自分と同年代の昴の肉体を圧迫していた。自分に体罰を加える手が昴を辱め、叱責する口が昴を汚しているのが見えた。

 気付いた時には手が出ていた。絶対的に思えた母の顔面は変形し、自分はソレに跨っていた。

 

 その日のことを後悔しているかと言えば…していない。

 もしあの頃に戻っても、仮に何度でも人生をやり直せるとしても、冥は暴力に頼るだろう。

 なんなら、もっと早い段階で事件を起こした可能性すらある。

 

 事件のお陰で昴が一人暮らしを始め、自分は彼と2人で暮らせることになったから。

 

 手紙でやり取りしている。

 その中に『2人で暮らそうか』と書いてあった。

 

 昴くんは、私の男になることを選んでくれた。

 神様は私たちを結びつけるために、私に暴力を振るわせたんだ。

 冥の頭の中では、そうなっている。

 

(早く会いたいなぁ…)

 

 冥にとって昴は10人に1人の──単なる男女比で計算できる相手ではない。世界に1人の運命の人。

 

 夢に描いた生活を間近にして、冥は強く拳を握った。

 

 がしかし、興奮や期待と同時に、不安と心配も抱えていた。

 当時と今とでは、事情が少し異なるから。

 

 昴が褒めてくれた長髪は規則で刈り取られてしまった。昴が似合うと言ってくれたセーラー服も、もう着ることができない。

 そのせいで昴の気持ちが変わってはいないだろうか。

 

 もし怒っていたら?

 面倒くさいと思われていたら?

 嫌われていたら…?

 

 会わないままの方が、幸せな気すらしていた。

 もちろん、会うのを止める気は微塵も無いが。

 

 捕まっている間、解放される瞬間を待ちながら、冥が考えるのはそんなこと。

 

 後悔でも反省でもない。

 ただひたすら、昴のこと。

 

「日宮、時間だよ」

 

 刑務官が冥を呼んだ。

 冥は紙袋1つ分の手紙と多少の現金を持って足早に外に出る。

 

 外の世界は、輝いていた。

 瞳孔が痛みを伴って収縮するほど。

 物理的に眩い日射しと照り返し。

 

 そこに「大丈夫?」と、昴の声。

 

「うん。ちょっと眩しかっただけ」

 

 手で目元に日陰を作る。地色の唇を舌で湿らせ、口角を上げて、声のした方を見る。

 

 メイクをしていない。

 というより、洗い落としてきたような違和感。

 そして血の匂い。

 

「昴くんこそ、大丈夫?」

 

「あぁ、娼鬼が出ただけ」

 

「そうだったんだ…」

 

 袖を捲った腕が引き締まっている。腕だけではない。

 男の弱さを補ういじらしい筋肉が増えていることが、冥には服の上からでもわかる。

 

「荷物、持つよ」

 

 手を差し出された。血管の走る手。

 

 その手にそっと触れてみる。

 娼鬼の変身ではない。

 実物だが、やっぱり少し違和感があるような。

 

「どうかした?」

 

「あ、うん。肌、あんまり出さない方がいいよ」

 

 冥は、昴の袖を伸ばして肌を隠した。

 そして昴に自分の手を握らせた。 

 

 昴は少し困ったような顔をしたが、拒絶はしない。

 掌の肌触りは以前ほど滑らかではない。けれど、のぼせるような温かさがあり、心地良い。

 

 間違いなく昴の手であると、甘い疼きが冥に教えた。

 

「荷物は重くない?」

 

「うん。私、昴くんより力強いもん。リハビリ頑張ったし」

 

 荷物を肘にかけ、手を動かして見せる。

 

「そうなんだ。すごいね」

 

 昴は優しく微笑んだ。

 だが、冥が待っていた言葉以上の反応はなかった。

 

(頭、撫でてくれないんだ…)

 

 仕方ない。

 あの時の髪は、もう無いのだから。

 

「私さ、変わっちゃったでしょ」

 

 短い髪に指を入れる。

 かつては腰まで届き、昴が愛おしそうに指を通したこともある黒髪は、耳が露わになるほど無惨に刈り取られていた。

 梳くほどの長さはなく、直射日光の熱が伝わる。

 

 ほんの数秒の沈黙、重苦しい間が落ちる。

 

「久し振りだからね。変わるよ。お互い」

 

 差し出された返答は、あまりにも無難で、残酷なほど常温だった。

 

 聞きたかったのは、そんな温い慰めなんかじゃない。

 胸の奥で形をなした歪な棘が、言葉になって口から溢れる。

 

「昴くんが褒めてくれた髪…もう、無くなっちゃったんだよ」

 

「あぁ…」

 

 昴は短くなった髪を改めて見上げて、視線はすぐに泳いで逃げた。

 

「でも、その髪型も似合ってるよ」

 

 昴くんは、嘘をついている。

 

 前の長い髪の方が良かったと思っているに違いない。だって、本当に良いと思っているなら、前みたいに頭を撫でるはずだから。

 気を遣って、優しくしてくれているだけなんだ。

 嫌われていないことはわかったが、昔ほど愛し合えてもいないのだ。

 と、冥は思った。

 

「髪といえばさ、シャンプーとか買いに行く?」

 

「昴くんと同じの使う」

 

「じゃあ服は? それだけじゃ足りないでしょ?」

 

 昴が紙袋に目をやる。

 そこに入っているのは束ねた手紙が主で、着替えは無い。服は今着ているジャージだけ。

 ようやく気付いた。

 

 支給されたジャージは昴くんの横に立つのに相応しくない。

 会う前に、最低限は着飾らなければならなかったんだ。

 この服が悪いんだ。

 

 引き裂いてしまいたい。しかし外を歩くのに、裸はもっと不適切だということくらい理解している。

 ジャージの裾を握る手に、無意味な力がこもる。

 

「どこに買いに行こうか」

 

「え?」

 

「服、買わない?」

 

 手持ちの現金──刑務作業の報奨金は、大した額じゃない。マトモな服を買うのには足りない。

 

 食いしばって固い口を、なんとか開ける。

 

「お金無いから…」

 

 服と共に、適当に用立てる必要がある。

 夜までにはなんとかする。

 昴の家に泊まる、夜までには。

 

「あー」

 

 どこか恥ずかしそうに、昴は顎を撫でる。

 

「"お義父さん"がプレゼントするよ。あんまり高いのは無理だけど」

 

 "お義父さん"

 

 冥に向かって言う時、昴の一人称はそれになる。

 

 事実、戸籍上は冥の実母の夫。

 つまり義理の父親である。

 

「お母さんはもう、関係ないじゃん…」

 


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