日宮冥は、出所当日の朝を迎えた。
椅子に座り、自分の手を見下ろす。紺色のジャージから伸びる白い手の甲には、骨が飛び出した傷跡が残っている。
娼鬼を殺すための手で、母を殴ったのだ。
薄暗い寝室。母の肥大化した欲望が、自分と同年代の昴の肉体を圧迫していた。自分に体罰を加える手が昴を辱め、叱責する口が昴を汚しているのが見えた。
気付いた時には手が出ていた。絶対的に思えた母の顔面は変形し、自分はソレに跨っていた。
その日のことを後悔しているかと言えば…していない。
もしあの頃に戻っても、仮に何度でも人生をやり直せるとしても、冥は暴力に頼るだろう。
なんなら、もっと早い段階で事件を起こした可能性すらある。
事件のお陰で昴が一人暮らしを始め、自分は彼と2人で暮らせることになったから。
手紙でやり取りしている。
その中に『2人で暮らそうか』と書いてあった。
昴くんは、私の男になることを選んでくれた。
神様は私たちを結びつけるために、私に暴力を振るわせたんだ。
冥の頭の中では、そうなっている。
(早く会いたいなぁ…)
冥にとって昴は10人に1人の──単なる男女比で計算できる相手ではない。世界に1人の運命の人。
夢に描いた生活を間近にして、冥は強く拳を握った。
がしかし、興奮や期待と同時に、不安と心配も抱えていた。
当時と今とでは、事情が少し異なるから。
昴が褒めてくれた長髪は規則で刈り取られてしまった。昴が似合うと言ってくれたセーラー服も、もう着ることができない。
そのせいで昴の気持ちが変わってはいないだろうか。
もし怒っていたら?
面倒くさいと思われていたら?
嫌われていたら…?
会わないままの方が、幸せな気すらしていた。
もちろん、会うのを止める気は微塵も無いが。
捕まっている間、解放される瞬間を待ちながら、冥が考えるのはそんなこと。
後悔でも反省でもない。
ただひたすら、昴のこと。
「日宮、時間だよ」
刑務官が冥を呼んだ。
冥は紙袋1つ分の手紙と多少の現金を持って足早に外に出る。
外の世界は、輝いていた。
瞳孔が痛みを伴って収縮するほど。
物理的に眩い日射しと照り返し。
そこに「大丈夫?」と、昴の声。
「うん。ちょっと眩しかっただけ」
手で目元に日陰を作る。地色の唇を舌で湿らせ、口角を上げて、声のした方を見る。
メイクをしていない。
というより、洗い落としてきたような違和感。
そして血の匂い。
「昴くんこそ、大丈夫?」
「あぁ、娼鬼が出ただけ」
「そうだったんだ…」
袖を捲った腕が引き締まっている。腕だけではない。
男の弱さを補ういじらしい筋肉が増えていることが、冥には服の上からでもわかる。
「荷物、持つよ」
手を差し出された。血管の走る手。
その手にそっと触れてみる。
娼鬼の変身ではない。
実物だが、やっぱり少し違和感があるような。
「どうかした?」
「あ、うん。肌、あんまり出さない方がいいよ」
冥は、昴の袖を伸ばして肌を隠した。
そして昴に自分の手を握らせた。
昴は少し困ったような顔をしたが、拒絶はしない。
掌の肌触りは以前ほど滑らかではない。けれど、のぼせるような温かさがあり、心地良い。
間違いなく昴の手であると、甘い疼きが冥に教えた。
「荷物は重くない?」
「うん。私、昴くんより力強いもん。リハビリ頑張ったし」
荷物を肘にかけ、手を動かして見せる。
「そうなんだ。すごいね」
昴は優しく微笑んだ。
だが、冥が待っていた言葉以上の反応はなかった。
(頭、撫でてくれないんだ…)
仕方ない。
あの時の髪は、もう無いのだから。
「私さ、変わっちゃったでしょ」
短い髪に指を入れる。
かつては腰まで届き、昴が愛おしそうに指を通したこともある黒髪は、耳が露わになるほど無惨に刈り取られていた。
梳くほどの長さはなく、直射日光の熱が伝わる。
ほんの数秒の沈黙、重苦しい間が落ちる。
「久し振りだからね。変わるよ。お互い」
差し出された返答は、あまりにも無難で、残酷なほど常温だった。
聞きたかったのは、そんな温い慰めなんかじゃない。
胸の奥で形をなした歪な棘が、言葉になって口から溢れる。
「昴くんが褒めてくれた髪…もう、無くなっちゃったんだよ」
「あぁ…」
昴は短くなった髪を改めて見上げて、視線はすぐに泳いで逃げた。
「でも、その髪型も似合ってるよ」
昴くんは、嘘をついている。
前の長い髪の方が良かったと思っているに違いない。だって、本当に良いと思っているなら、前みたいに頭を撫でるはずだから。
気を遣って、優しくしてくれているだけなんだ。
嫌われていないことはわかったが、昔ほど愛し合えてもいないのだ。
と、冥は思った。
「髪といえばさ、シャンプーとか買いに行く?」
「昴くんと同じの使う」
「じゃあ服は? それだけじゃ足りないでしょ?」
昴が紙袋に目をやる。
そこに入っているのは束ねた手紙が主で、着替えは無い。服は今着ているジャージだけ。
ようやく気付いた。
支給されたジャージは昴くんの横に立つのに相応しくない。
会う前に、最低限は着飾らなければならなかったんだ。
この服が悪いんだ。
引き裂いてしまいたい。しかし外を歩くのに、裸はもっと不適切だということくらい理解している。
ジャージの裾を握る手に、無意味な力がこもる。
「どこに買いに行こうか」
「え?」
「服、買わない?」
手持ちの現金──刑務作業の報奨金は、大した額じゃない。マトモな服を買うのには足りない。
食いしばって固い口を、なんとか開ける。
「お金無いから…」
服と共に、適当に用立てる必要がある。
夜までにはなんとかする。
昴の家に泊まる、夜までには。
「あー」
どこか恥ずかしそうに、昴は顎を撫でる。
「"お義父さん"がプレゼントするよ。あんまり高いのは無理だけど」
"お義父さん"
冥に向かって言う時、昴の一人称はそれになる。
事実、戸籍上は冥の実母の夫。
つまり義理の父親である。
「お母さんはもう、関係ないじゃん…」