永田町。
国会議事堂の正門前では、小型トラックの荷台に縛り付けられたスピーカーから発煙筒の煙が吹き上がり、男たちの罵声が耳鳴りのように重なっていた。
押し寄せる報道陣のフラッシュが、黒塗りの外装を白く焼き切る。
車内で、二十八歳の石原時子は二歳の息子を抱いていた。
安爾(あんじ)の体は軽い。
軽すぎて、今にも外套の闇に溶けてしまいそうだった。
ずれたマフラーの隙間から、赤い鼻先が覗いている。
「寒ないか」
「うん」
「うそや。
鼻、真っ赤っかやんか」
返事は弱かったが、時子の袖を掴む小指だけが、妙にしつこく絡みついてくる。
生きているという、ただそれだけの主張だった。
車の扉が開いた。
光の束が網膜を焼く。
男たちの怒声と靴音が波となって押し寄せてきた。
本会議場へ向かう中央玄関の重い赤絨毯の上を、警備員たちが壁のように固めて進む。
最年少総理の初登院をひと目見ようと、ひしめき合う議員たちの脂ぎった熱気が肌を焼く。
衆議院本会議場、登壇。
マイクの前に立った時子は、用意された所信表明の原稿を一頁目で閉じた。
乾いた紙の音が、拡声器を通じて議場に重く響く。
「……おはようございます」
柔らかな近畿の響きが落ちた瞬間、議員席の後方が裂けた。
「石原、娘さんの子守はどうした!」
「阪急の坊っちゃんの置き土産か!」
「お父さんに作ってもらった椅子かね!」
怒鳴る男たちの声は、どれも微かに震えている。
年上の男たちが、若い女一人に怯え、顔を歪めている。
革椅子が軋み、次々と男たちが立ち上がる。
騒音は意思を持って膨れ上がっていく。
時子は動かない。
ただ、壇上で冷えた小さな掌を握りしめていた。
ひとつ、息を吸う。
「……終わりましたか」
低かった。
静かすぎて、逆に男たちの鼓膜を刺す。
「予算の組み替えを行います。
防衛分担金の増額は認めません。
……以上です」
議場が凍りついた。
あまりに短い切り捨てに、野次を飛ばしていた男たちの口が開いたまま止まる。
時子は視線を落とさない。逃げではない。
目の前の男たちを、数と予算の記号として処理した眼だ。
「……これ以上、数字を揃えるために死人を増やす気はありません」
それだけだった。
時子は二度とマイクに向かわず、一礼もせずに壇を降り始めた。
後方での激しい舌打ち。
誰も納得していない。
だが、時子の眼は議場の奥、誰もいない空白の席を凝視していた。
そこにいるはずの、この狂った構造を組み上げた男たちの温度。
掌には、まだ残っている。
車内で触れた、赤く冷えた息子の鼻先の感触が。