白鶴物語   作:石原時子

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第一部 プロローグ 『石原時子』(1953年 3月)

永田町。

 国会議事堂の正門前では、小型トラックの荷台に縛り付けられたスピーカーから発煙筒の煙が吹き上がり、男たちの罵声が耳鳴りのように重なっていた。

 押し寄せる報道陣のフラッシュが、黒塗りの外装を白く焼き切る。

 車内で、二十八歳の石原時子は二歳の息子を抱いていた。

 安爾(あんじ)の体は軽い。

 軽すぎて、今にも外套の闇に溶けてしまいそうだった。

 ずれたマフラーの隙間から、赤い鼻先が覗いている。

「寒ないか」

「うん」

「うそや。

鼻、真っ赤っかやんか」

 返事は弱かったが、時子の袖を掴む小指だけが、妙にしつこく絡みついてくる。

生きているという、ただそれだけの主張だった。

 車の扉が開いた。

 光の束が網膜を焼く。

男たちの怒声と靴音が波となって押し寄せてきた。

 本会議場へ向かう中央玄関の重い赤絨毯の上を、警備員たちが壁のように固めて進む。

最年少総理の初登院をひと目見ようと、ひしめき合う議員たちの脂ぎった熱気が肌を焼く。

 衆議院本会議場、登壇。

 マイクの前に立った時子は、用意された所信表明の原稿を一頁目で閉じた。

 乾いた紙の音が、拡声器を通じて議場に重く響く。

「……おはようございます」

 柔らかな近畿の響きが落ちた瞬間、議員席の後方が裂けた。

「石原、娘さんの子守はどうした!」

「阪急の坊っちゃんの置き土産か!」

「お父さんに作ってもらった椅子かね!」

 怒鳴る男たちの声は、どれも微かに震えている。

 年上の男たちが、若い女一人に怯え、顔を歪めている。

革椅子が軋み、次々と男たちが立ち上がる。

騒音は意思を持って膨れ上がっていく。

 時子は動かない。

 ただ、壇上で冷えた小さな掌を握りしめていた。

 ひとつ、息を吸う。

「……終わりましたか」

 低かった。

静かすぎて、逆に男たちの鼓膜を刺す。

「予算の組み替えを行います。

防衛分担金の増額は認めません。

……以上です」

 議場が凍りついた。

 あまりに短い切り捨てに、野次を飛ばしていた男たちの口が開いたまま止まる。

 時子は視線を落とさない。逃げではない。

目の前の男たちを、数と予算の記号として処理した眼だ。

「……これ以上、数字を揃えるために死人を増やす気はありません」

 それだけだった。

 時子は二度とマイクに向かわず、一礼もせずに壇を降り始めた。

後方での激しい舌打ち。

 誰も納得していない。

 だが、時子の眼は議場の奥、誰もいない空白の席を凝視していた。

 そこにいるはずの、この狂った構造を組み上げた男たちの温度。

 掌には、まだ残っている。

車内で触れた、赤く冷えた息子の鼻先の感触が。

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