白鶴物語   作:石原時子

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第九章 『鉄航』(1929年 4月)

北摂池田。

白梅館。

 二階書斎。

煎じ詰めた一番茶の苦い湯気が、昼下がりの陽光に細く揺れていた。

 梅田で今頃鳴り響いているはずの、阪急百貨店開店を祝う軍楽隊の狂騒も、この山裾の静寂までは届かない。

 空母『赤城』艦長、山本五十六大佐は第一種軍装の首元のホックを外し、長椅子に深く身を沈めていた。

 小林が、畳の上に一冊のスケッチブックを静かに滑らせた。

 クレヨンで描かれた、不揃いな丸い頬の女の子の絵。

余白に、拙い文字で『とーちゃ』とある。

 仕立ての悪い三つ揃えを着た石原の視線が、そこに止まった。

喉仏が、小さく跳ねる。

「……時子」

「庭でトコロテンを喉に詰まらせそうになりながら遊んでいますよ」

 小林は茶碗から立ち上る湯気を静かに吹き払った。

「奥方にも専用の医師と看護婦をつけさせました。

特高の犬どころか、憲兵の影すら一歩も踏み込ませてはおりません」

 石原の膝の上の手が、ぬっと固まった。

「……永田の総力戦はすべてを呑み込む」

 石原の声は掠れていた。

「防弾壁が要ります。

大連に米国の資本を噛ませた自治特区を拓く。

米ドルを挟めば、永田も手が出せません」

「甘いねぇ、石原君」

 部屋の暗がりから声が落ちた。山本が煙草の灰を畳へ直に落とす。

長岡訛りのぬるりとした声だ。

「軍縮で首の回らん海軍の裏をかき、民間機名目であの双発艇を仕立てる。

……構想は結構。

だがね、俺が軍法会議覚悟で『赤城』の腹にお前たち二人を隠すんだ。

タダで済むと思うかね」

 茶碗の中で、茶葉がひとつ沈んだ。

「……舞鶴の燃料庫の底。

それと、川西の試作大型飛行艇だ」

 山本の太い指が、トントンと肘掛けを叩く。

「……海軍の裏予算を払えと」

 石原が吐き捨てると、山本は薄い唇を歪めて短く笑った。

「嫌なら今すぐ憲兵に叩き出すまでだ」

 小林が懐中時計をパチンと鳴らした。

「……乗りましょう」

 小林は立ち上がり、石原の背後に立った。

「油も飛行機も、我が阪急の腹に収めて見せます。

……石原君。

大豆のドルを正金銀行から直接動かすな。

大蔵省の役人が嗅ぎつける」

「……ならば、どうします」

「香港上海銀行(HSBC)」

小林は石原の耳元で低く囁いた。

「上海のHSBCで、ブリル社への台車代金を水増しした手形を組みます。

ブリルへ払った残りのドルは上海に留め置いたまま、川西の機体代へ直接回す。

大豆の匂いなど欠片も残らない。

……大蔵省に見えるのは『阪急が電車台車を大量買い付けした帳簿』だけです」

山本が鼻で笑い、煙草を揉み消した。

「……英国系を経由して米資材に化けさせるか。

阪急の輸入手形なら、大蔵省も追えん」

 

「洗った金から、大連の土地と川西の機体を調達しましょう。

……身一つで艦(ふね)に乗り込みなさい」

 石原は『とーちゃ』の文字を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 深夜。

対馬海峡。

潮風に混じる重油の焦げた匂いが、鼻腔を刺した。

 三万トンの鋼鉄の城——空母『赤城』の最上層、四畳半足らずの艦長私室。

 胸元に「臨時技師嘱託」の胸章を留めた小林と石原は、施錠された狭いソファーに身を沈めていた。

 艦底の重油専焼ボイラーが吐き出す特有の甘く煤けた臭気が、鉄板の隙間から這い登り、室内の酸素を食いつぶしていく。

「……うっ」

 小林が絹のハンカチを口元に強く押し当て、青ざめた顔を歪めた。

 外洋の荒波を突き破るたびに、巨大な鋼鉄の隔壁がギギと鈍い鳴き声を上げる。

足底からダイレクトに脳を揺さぶってくるのは、十三万馬力の蒸気タービンが叩き出す重低音の振動だ。

 煤けた鉄、湿った塗料、気密された部屋の熱気。

小林の額から大粒の冷や汗が落ちた。

「……山本め…

こんな鉄の棺桶に……」

 小林は固定机にしがみつき、胃から上がってくる酸っぱい汁を猛烈な力で飲み込んだ。

 施錠された重い鉄扉のすぐ外には、山本が配した当番兵が一人、直立不動で見張っている。

私服の男二人が籠もる異常事態にも、兵士の瞳は微動だにせず、ただ廊下の闇を穿ち続けていた。

 石原はソファーに深く身を沈め、目を閉じたまま動かない。

「……小林さん。

阪急の電車より揺れますかの」

「……黙りなさい」

 小林はハンカチ越しに低く呻いた。

「……山下が小さく動いている」

 暗闇の中、石原がぽつりと言った。

「永田が据えた男です。

部下を愛し、命令を寸分違わず遂行する。

あの人ほど本省の統制に適した男はいない」

「落とせますか」

「落としません。

あの人の生真面目さこそ、我が兵站を回す最も強固な軸になる」

 暗闇の中で、小林の懐中時計の蓋がパチンと開閉する音だけが響いた。

 翌々日の未明。

旅順外港。

 要塞の灯火が遠くかすむ沖合で『赤城』の重低音が止まった。

 三段の飛行甲板の影から降ろされた艦長専用の内火艇が、波を切りながら要港部避病港の桟橋へ滑り込む。

 当番兵に導かれ、タラップを降りた小林と石原は、待機していた黒塗りのハドソンへ滑り込んだ。

 車は静まり返る市街地を抜け、旅順ヤマトホテルの裏手へと回る。

 給仕服を着た老支配人が無言で勝手口の鍵を開けた。

赤絨毯の敷かれた階段を上がる。

 二階、特別客室。

 重厚なオークのドアが開くと、壁際の鋳鉄ラジエーターからカン、カンと甲高い金属音が響き、蒸気の乾いた熱気が二人を包み込んだ。

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