北摂池田。
白梅館。
二階書斎。
煎じ詰めた一番茶の苦い湯気が、昼下がりの陽光に細く揺れていた。
梅田で今頃鳴り響いているはずの、阪急百貨店開店を祝う軍楽隊の狂騒も、この山裾の静寂までは届かない。
空母『赤城』艦長、山本五十六大佐は第一種軍装の首元のホックを外し、長椅子に深く身を沈めていた。
小林が、畳の上に一冊のスケッチブックを静かに滑らせた。
クレヨンで描かれた、不揃いな丸い頬の女の子の絵。
余白に、拙い文字で『とーちゃ』とある。
仕立ての悪い三つ揃えを着た石原の視線が、そこに止まった。
喉仏が、小さく跳ねる。
「……時子」
「庭でトコロテンを喉に詰まらせそうになりながら遊んでいますよ」
小林は茶碗から立ち上る湯気を静かに吹き払った。
「奥方にも専用の医師と看護婦をつけさせました。
特高の犬どころか、憲兵の影すら一歩も踏み込ませてはおりません」
石原の膝の上の手が、ぬっと固まった。
「……永田の総力戦はすべてを呑み込む」
石原の声は掠れていた。
「防弾壁が要ります。
大連に米国の資本を噛ませた自治特区を拓く。
米ドルを挟めば、永田も手が出せません」
「甘いねぇ、石原君」
部屋の暗がりから声が落ちた。山本が煙草の灰を畳へ直に落とす。
長岡訛りのぬるりとした声だ。
「軍縮で首の回らん海軍の裏をかき、民間機名目であの双発艇を仕立てる。
……構想は結構。
だがね、俺が軍法会議覚悟で『赤城』の腹にお前たち二人を隠すんだ。
タダで済むと思うかね」
茶碗の中で、茶葉がひとつ沈んだ。
「……舞鶴の燃料庫の底。
それと、川西の試作大型飛行艇だ」
山本の太い指が、トントンと肘掛けを叩く。
「……海軍の裏予算を払えと」
石原が吐き捨てると、山本は薄い唇を歪めて短く笑った。
「嫌なら今すぐ憲兵に叩き出すまでだ」
小林が懐中時計をパチンと鳴らした。
「……乗りましょう」
小林は立ち上がり、石原の背後に立った。
「油も飛行機も、我が阪急の腹に収めて見せます。
……石原君。
大豆のドルを正金銀行から直接動かすな。
大蔵省の役人が嗅ぎつける」
「……ならば、どうします」
「香港上海銀行(HSBC)」
小林は石原の耳元で低く囁いた。
「上海のHSBCで、ブリル社への台車代金を水増しした手形を組みます。
ブリルへ払った残りのドルは上海に留め置いたまま、川西の機体代へ直接回す。
大豆の匂いなど欠片も残らない。
……大蔵省に見えるのは『阪急が電車台車を大量買い付けした帳簿』だけです」
山本が鼻で笑い、煙草を揉み消した。
「……英国系を経由して米資材に化けさせるか。
阪急の輸入手形なら、大蔵省も追えん」
「洗った金から、大連の土地と川西の機体を調達しましょう。
……身一つで艦(ふね)に乗り込みなさい」
石原は『とーちゃ』の文字を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
深夜。
対馬海峡。
潮風に混じる重油の焦げた匂いが、鼻腔を刺した。
三万トンの鋼鉄の城——空母『赤城』の最上層、四畳半足らずの艦長私室。
胸元に「臨時技師嘱託」の胸章を留めた小林と石原は、施錠された狭いソファーに身を沈めていた。
艦底の重油専焼ボイラーが吐き出す特有の甘く煤けた臭気が、鉄板の隙間から這い登り、室内の酸素を食いつぶしていく。
「……うっ」
小林が絹のハンカチを口元に強く押し当て、青ざめた顔を歪めた。
外洋の荒波を突き破るたびに、巨大な鋼鉄の隔壁がギギと鈍い鳴き声を上げる。
足底からダイレクトに脳を揺さぶってくるのは、十三万馬力の蒸気タービンが叩き出す重低音の振動だ。
煤けた鉄、湿った塗料、気密された部屋の熱気。
小林の額から大粒の冷や汗が落ちた。
「……山本め…
こんな鉄の棺桶に……」
小林は固定机にしがみつき、胃から上がってくる酸っぱい汁を猛烈な力で飲み込んだ。
施錠された重い鉄扉のすぐ外には、山本が配した当番兵が一人、直立不動で見張っている。
私服の男二人が籠もる異常事態にも、兵士の瞳は微動だにせず、ただ廊下の闇を穿ち続けていた。
石原はソファーに深く身を沈め、目を閉じたまま動かない。
「……小林さん。
阪急の電車より揺れますかの」
「……黙りなさい」
小林はハンカチ越しに低く呻いた。
「……山下が小さく動いている」
暗闇の中、石原がぽつりと言った。
「永田が据えた男です。
部下を愛し、命令を寸分違わず遂行する。
あの人ほど本省の統制に適した男はいない」
「落とせますか」
「落としません。
あの人の生真面目さこそ、我が兵站を回す最も強固な軸になる」
暗闇の中で、小林の懐中時計の蓋がパチンと開閉する音だけが響いた。
翌々日の未明。
旅順外港。
要塞の灯火が遠くかすむ沖合で『赤城』の重低音が止まった。
三段の飛行甲板の影から降ろされた艦長専用の内火艇が、波を切りながら要港部避病港の桟橋へ滑り込む。
当番兵に導かれ、タラップを降りた小林と石原は、待機していた黒塗りのハドソンへ滑り込んだ。
車は静まり返る市街地を抜け、旅順ヤマトホテルの裏手へと回る。
給仕服を着た老支配人が無言で勝手口の鍵を開けた。
赤絨毯の敷かれた階段を上がる。
二階、特別客室。
重厚なオークのドアが開くと、壁際の鋳鉄ラジエーターからカン、カンと甲高い金属音が響き、蒸気の乾いた熱気が二人を包み込んだ。