旅順の春は、乾いた黄砂の風と共にやってくる。
二百三高地の禿山を背負う「旅順ヤマトホテル」二階、特別客室。
壁際のラジエーターがカン、カンと異音を立て、蒸気の乾いた熱気が澱んでいた。
重厚なオークのドアが荒々しく開いた。
関東軍参謀、山下奉文大佐が足を踏み入れるなり、軍帽をテーブルへ叩きつけた。
ドカリと革椅子を沈ませ、腰の長剣が重苦しい金属音を立てて床に触れる。
「小林さん。
無駄話はいらんがぜ」
地鳴りのような太い土佐訛り。
山下は出された茶に一切目もくれず、小林一三を射抜くように睨みつけた。
「阪急の総帥が極秘で満洲を踏むなんぞ、三宅坂も大蔵省も知らんことじゃ。
軍に金の無心なら他を当たられい。
我らは三宅坂の命により戦力を温存し、ソ連に備える。
貴様ら商人の切り売りする利権など、掃き溜めにもならんき」
小林はフロックコートの袖口を正し、寝室の扉へ視線を投げた。
「お入りなさい」
扉が静かに開く。
仕立ての悪い安背広を着た男。
軍服の金ボタンも、肩の星も削ぎ落とされた身なり。
だが、その澄み切った眼光と直立不動の姿勢を見た瞬間、山下の巨体が硬直した。
「お久しぶりであります、山下先輩」
正確無比な軍隊式の敬礼。
山下の右手が反射的に、鞘に収まった軍刀の柄を掴む。
「——石原ッ!」
革椅子が床を削る激しい音。
「おんしゃ……
何故ここに居るがじゃ!
大阪におるはずの貴様が、何故旅順におるが!」
怒号とともに、部屋の湿度が跳ね上がる。
「無断離任、密航……
憲兵を呼ぶぞ!」
「どうぞ」
石原は微動だにせず、山下の鋭い視線を受け止めた。
「ですが先輩。
私を縛り上げて送還することが、三宅坂の永田先輩の意に沿うとお思いですか」
「なに……?」
「私が乗ってきたのは海軍の空母『赤城』、山本五十六大佐の艦です。
私を縛れば陸海の全面衝突になる。
三宅坂の永田先輩が密かに描いた工作も、すべて泡と消える」
山下の顔が苦痛に歪んだ。
「ハッタリを……!」
「山下大佐」
小林が磁器のカップを置く。
カチャン、と鋭い音が静寂を割った。
「農村では娘が売られています。
あなたの連隊におる兵卒たちの、親兄弟の首が絞まっている」
山下の握りしめた拳が、小刻みに震える。
「軍の金など一分もいらない。
満洲の大豆で外貨を稼ぎ、国内へ米とカネを流す。
兵の故郷へ仕送りを届ける。
……うちらがやるのは、それだけです」
石原が一歩、前へ出た。
「張学良の三十万が崩れれば、関東軍の背後は一瞬で火の海です。三宅坂の紙切れ一枚でその足元が守れますか。
銃ではなく資本で張学良の胃袋を掴み、満洲の裏を完全に固める。
……軍服を着た男にはできん芸当です」
「ぬ……っ!」
「旅順で『番犬』の目を瞑っていただきたい。
毒は、私が抜く」
重苦しい沈黙。
部屋を支配するのは、山下の荒い息遣いと、食い込んだ爪から滲む脂汗の匂いだけだ。
山下は血走った目でふたりを交互に睨みつけ、地獄の底から絞り出すような声を放った。
「……ワシは今日、ここへは来んかった」
山下は軍帽を鷲掴みにし、頭へ深く叩きつけた。
深々と息を吐き出し、出口へ向けた足がピタリと止まる。
「……だがな!」
鞘が、絨毯をドツンと打ち鳴らす。
「もし己の私利私欲で兵の血を流してみぃ。
その時は永田課長に頼るまでもなく、ワシ自身の手でおんしゃを叩き斬っちゃるき!」
山下は背を向け、荒々しい軍靴の音を響かせて部屋を去った。
小林はカーテンをわずかに引き開け、夕暮れの旅順港を見下ろした。
暗い沖合には、二人を運んできた空母『赤城』の艦影が影絵のように浮かんでいる。
「……身を削る男ですね」
石原は軍服のない自分の掌をじっと見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。