白鶴物語   作:石原時子

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第十章『会敵』(1929年 4月)

旅順の春は、乾いた黄砂の風と共にやってくる。

 二百三高地の禿山を背負う「旅順ヤマトホテル」二階、特別客室。

壁際のラジエーターがカン、カンと異音を立て、蒸気の乾いた熱気が澱んでいた。

 重厚なオークのドアが荒々しく開いた。

 関東軍参謀、山下奉文大佐が足を踏み入れるなり、軍帽をテーブルへ叩きつけた。

ドカリと革椅子を沈ませ、腰の長剣が重苦しい金属音を立てて床に触れる。

「小林さん。

無駄話はいらんがぜ」

 地鳴りのような太い土佐訛り。

山下は出された茶に一切目もくれず、小林一三を射抜くように睨みつけた。

「阪急の総帥が極秘で満洲を踏むなんぞ、三宅坂も大蔵省も知らんことじゃ。

軍に金の無心なら他を当たられい。

我らは三宅坂の命により戦力を温存し、ソ連に備える。

貴様ら商人の切り売りする利権など、掃き溜めにもならんき」

 小林はフロックコートの袖口を正し、寝室の扉へ視線を投げた。

「お入りなさい」

 扉が静かに開く。

仕立ての悪い安背広を着た男。

軍服の金ボタンも、肩の星も削ぎ落とされた身なり。

だが、その澄み切った眼光と直立不動の姿勢を見た瞬間、山下の巨体が硬直した。

「お久しぶりであります、山下先輩」

 正確無比な軍隊式の敬礼。

山下の右手が反射的に、鞘に収まった軍刀の柄を掴む。

「——石原ッ!」

 革椅子が床を削る激しい音。

「おんしゃ……

何故ここに居るがじゃ!

大阪におるはずの貴様が、何故旅順におるが!」

 怒号とともに、部屋の湿度が跳ね上がる。

「無断離任、密航……

憲兵を呼ぶぞ!」

「どうぞ」

 石原は微動だにせず、山下の鋭い視線を受け止めた。

「ですが先輩。

私を縛り上げて送還することが、三宅坂の永田先輩の意に沿うとお思いですか」

「なに……?」

「私が乗ってきたのは海軍の空母『赤城』、山本五十六大佐の艦です。

私を縛れば陸海の全面衝突になる。

三宅坂の永田先輩が密かに描いた工作も、すべて泡と消える」

 山下の顔が苦痛に歪んだ。

「ハッタリを……!」

「山下大佐」

 小林が磁器のカップを置く。

カチャン、と鋭い音が静寂を割った。

「農村では娘が売られています。

あなたの連隊におる兵卒たちの、親兄弟の首が絞まっている」

 山下の握りしめた拳が、小刻みに震える。

「軍の金など一分もいらない。

満洲の大豆で外貨を稼ぎ、国内へ米とカネを流す。

兵の故郷へ仕送りを届ける。

……うちらがやるのは、それだけです」

 石原が一歩、前へ出た。

「張学良の三十万が崩れれば、関東軍の背後は一瞬で火の海です。三宅坂の紙切れ一枚でその足元が守れますか。

銃ではなく資本で張学良の胃袋を掴み、満洲の裏を完全に固める。

……軍服を着た男にはできん芸当です」

「ぬ……っ!」

「旅順で『番犬』の目を瞑っていただきたい。

毒は、私が抜く」

 重苦しい沈黙。

部屋を支配するのは、山下の荒い息遣いと、食い込んだ爪から滲む脂汗の匂いだけだ。

山下は血走った目でふたりを交互に睨みつけ、地獄の底から絞り出すような声を放った。

「……ワシは今日、ここへは来んかった」

 山下は軍帽を鷲掴みにし、頭へ深く叩きつけた。

深々と息を吐き出し、出口へ向けた足がピタリと止まる。

「……だがな!」

 鞘が、絨毯をドツンと打ち鳴らす。

「もし己の私利私欲で兵の血を流してみぃ。

その時は永田課長に頼るまでもなく、ワシ自身の手でおんしゃを叩き斬っちゃるき!」

 山下は背を向け、荒々しい軍靴の音を響かせて部屋を去った。

 小林はカーテンをわずかに引き開け、夕暮れの旅順港を見下ろした。

暗い沖合には、二人を運んできた空母『赤城』の艦影が影絵のように浮かんでいる。

「……身を削る男ですね」

 石原は軍服のない自分の掌をじっと見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。

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