白鶴物語   作:石原時子

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第十一章 『主権の城壁』(1929年 5月)

大連の春は、泥濘(でいねい)と黄砂の海である。

 南満洲鉄道株式会社本社ビル最上階、総裁室。

 二重窓の隙間から滑り込む黄砂が、重厚な絨毯をうっすらと黄色く染め、舌の裏でジャリと不快な音を立てていた。

 山本条太郎は、極太のハバナ葉巻の灰を青銅の灰皿へ叩き落とした。

「小林君。

宝塚の女給の踊りや、阪急の線路ごっこで気取ろうと、ここは満洲だ。

国家の血肉で購われた最前線に、大阪の私鉄屋が小銭を拾いに来るとはな」

 小林一三は、絹のハンカチで鼻腔に刺さる黄砂と重油の匂いを拭った。

「山本さん。

その『国策』という重石のせいで、満鉄の船底に大穴が空いてるんと違いますか。

……関東軍が勝手に戦線を張り出すたび、ロンドンで外債の利回りが跳ね上がっております」

 山本の指が止まる。

 小林はポケットから畳んだ和紙を一折、テーブルへ滑らせた。

『満洲中央興業株式会社 全額阪急出資』

「満鉄は付属地の土地を現物出資するだけでええ。

表の帳簿に乗せられん『大豆金(ドル)』は、この皿で洗います。

東京の監査官の目には、ただの駅前開発にしか見えません」

 山本は小林の傍らに立つ安背広の男――偽名旅券で入国した石原莞爾に目を向けた。

安背広の肩には、大連港の重油と潮の臭いがしみついていた。

「……裏で何を仕込む」

 石原が一歩、前に出た。

眼鏡の奥の眼光が、濁った室内で鋭く光る。

「工作機械と、航空燃料です。

満鉄の帳簿には一滴の油臭さも残しません」

 遠く大連港から、深く重い船の汽笛が響いた。

山本は葉巻の火を灰皿へゆっくりと揉み消した。

「……付属地内、五万坪だ。

それ以上は一坪も渡さん」

「おおきに、山本さん」

 東京。

三宅坂。

 陸軍省軍務局整備課長室。

 窓の外では五月の冷たい雨が桜花を散らし、黒ずんだ濡れ軍服のウール臭と濡れた革靴の匂いが室内に立ち込めていた。

 永田鉄山大佐は、山下奉文から届いた「関東軍、異状なし」の極秘電報を火鉢の炭火へ落とした。黒い灰がふっと舞い上がり、消える。

「山下までが、沈黙を選んだか」

 傍らの憲兵隊特務分隊長が息を詰める。

「課長、直ちに関東軍へ憲兵査察を――」

「無駄だ。

海軍の『赤城』が動いている。

……阪急の資金繰りはどうなっている」

「梅田の百貨店建設のため、大阪の地場組合からの短期借入に依存しています」

 永田は万年筆のキャップをカチリと閉めた。

「大蔵省銀行局を動かせ。

昭和二年銀行法に基づく特別臨検を行使させ、大阪の全行に対し、阪急への新規融資を明日午前十時をもって『全額一時凍結』させろ」

「……阪急が焦げ付きます」

「小林一三に、国家の圧力を教えてやれ。

石原を送り返すまで血流を止めろ」

 翌日。

 大阪。

池田の白梅館。

 書斎の黒い電話機五台が、狂ったようにベルを鳴らし続けていた。

「西田部長!

大蔵省の指導で、住友も野村も正午の資金を出しません!」

「東京から連絡です!

今期社債の募集が全面取り消されました!」

 絶叫と悲鳴が飛び交う受話器の脇で、四歳の時子が畳の上にぺったりと座り込んでいた。

 手には、阪急大食堂の真鍮製天突き器。

 小さな手で鉄のピストンを押し込み、カチャ、カチャと無機質な金属音を繰り返している。

黒蜜の甘い匂いと酢の匂いが、受話器の汗臭さを突いていた。

 カチャ、

カチャ。

 押し出された透明な寒天が、一本の狂いもなく皿の上で重なり合っていく。

 西田は金庫に飛びつき、小林が残した一通の密封封筒を引き裂いた。

 便箋には、墨で叩きつけるようにただ一行。

『銀行に殺される前に、大阪の鍵を締めろ』

「……住友の本店へ繋げ」

 西田の声から動揺が消えていた。

「小林の直書を回す。

野村、山口、三十四の頭取を今すぐ集めろ」

 一時間後。

 住友本館の密室。

重いカーテンが下ろされ、煙草の不快な煙が充満していた。

 西田は、重厚なマホガニーのテーブルの中央へ、朱肉の匂いも生々しい二枚の連帯手形と、黒い革手帳を静かに置いた。

 手形の脇に添えられた手帳の表紙には、住友が大連の満洲中央興業を経由して回している「大豆ドル還流」の裏口座番号が刻まれていた。

「小林からの言付けでございます」

 西田は低く、淡々と言い放った。

船場育ちの冷ややかな目だ。

「大蔵省の臨検を受け入れて阪急の融資を止めるならご自由に。

……だが、阪急が焦げ付いて管財人が入れば、この帳簿がすべて三宅坂の永田大佐へ引き渡されます」

 頭取たちの息が止まった。

 住友の幹部が口を開きかけ、だが言葉にならず、卓上の黒い手帳と西田の顔を往復した。

指先がかすかに震え、煙草の煙が静止する。

 阪急の倒産などどうでもいい。だが、この帳簿が割れれば、住友自身が大連で回している巨額の裏資金洗浄が丸裸になり、財閥そのものが陸軍に解体される――。

 山口銀行の頭取が、野村の頭取と静かに視線を交わした。

どちらの顔からも血の気が失せていた。

 西田は黒い手帳に指を添えたまま、静かに身を乗り出した。

「三宅坂に怯えて阪急の息を止め、住友の首を永田大佐に差し出すか。

……融資を実行して、東京の鼻をあかすか。

決めるのはあんたらです」

 同日。

午後二時。

 東京。

大蔵省。

 蔵相室のドアが不躾に開き、銀行局長が飛び込んできた。

握りしめた日銀大阪支店からの電報が、汗で濡れてしわくちゃになっている。

「蔵相!

大阪が聞き入れません!

住友、野村、全行が阪急への融資を断行しました!」

 卓上の直通電話から、途切れた悲鳴のような高音が漏れ出していた。

局長は受話器を指差し、唇を戦慄させた。

「大阪の手形交換所です!

『臨検を強行して阪急の帳簿を押さえるなら、大阪全行が本日の決済を全面停止し、東京への還流資金を遮断する』と……!

大阪が止まれば、東京の金融市場まで共倒れです!」

 東西の金融網が切り離され、国家の体温が急降下していく冷たい静寂が部屋を満たす。

 蔵相は血の引いた顔で受話器をひったくると、三宅坂へダイヤルを回した。

「永田大佐か!

今すぐ阪急の凍結を解除させろ! 大阪の連中が中央の命令を蹴飛ばした!

陸軍の意地で日本の金融を割る気か!」

 受話器の向こうで、カチャリと静かに回線が切れた。

 三宅坂。

整備課長室。

 雨の匂いと濡れたウール地の臭気が立ち込めていた。

 永田は受話器を置くと、眼鏡を外し、体温で曇ったレンズを静かに拭った。

「……小林一三。

地方資本の連破で、中央統制の壁を殴り返してきたか」

 再び眼鏡をかけると、視線は机上の満洲地図の、冷たい黒い線へと戻っていた。

 大連。

ヤマトホテル。

 石原莞爾は窓辺に立ち、大阪から届いた「決済完了」の暗号電報を暖炉の火へ投げ入れた。

 紙片が黒く丸まり、灰となって煙突へ吸い込まれていく。

 石原は手垢で汚れた軍用眼鏡を外し、懐紙でゆっくりと拭った。

 薄暗い部屋に、暖炉の薪が爆ぜる音だけが残された。

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