大連の春は、泥濘(でいねい)と黄砂の海である。
南満洲鉄道株式会社本社ビル最上階、総裁室。
二重窓の隙間から滑り込む黄砂が、重厚な絨毯をうっすらと黄色く染め、舌の裏でジャリと不快な音を立てていた。
山本条太郎は、極太のハバナ葉巻の灰を青銅の灰皿へ叩き落とした。
「小林君。
宝塚の女給の踊りや、阪急の線路ごっこで気取ろうと、ここは満洲だ。
国家の血肉で購われた最前線に、大阪の私鉄屋が小銭を拾いに来るとはな」
小林一三は、絹のハンカチで鼻腔に刺さる黄砂と重油の匂いを拭った。
「山本さん。
その『国策』という重石のせいで、満鉄の船底に大穴が空いてるんと違いますか。
……関東軍が勝手に戦線を張り出すたび、ロンドンで外債の利回りが跳ね上がっております」
山本の指が止まる。
小林はポケットから畳んだ和紙を一折、テーブルへ滑らせた。
『満洲中央興業株式会社 全額阪急出資』
「満鉄は付属地の土地を現物出資するだけでええ。
表の帳簿に乗せられん『大豆金(ドル)』は、この皿で洗います。
東京の監査官の目には、ただの駅前開発にしか見えません」
山本は小林の傍らに立つ安背広の男――偽名旅券で入国した石原莞爾に目を向けた。
安背広の肩には、大連港の重油と潮の臭いがしみついていた。
「……裏で何を仕込む」
石原が一歩、前に出た。
眼鏡の奥の眼光が、濁った室内で鋭く光る。
「工作機械と、航空燃料です。
満鉄の帳簿には一滴の油臭さも残しません」
遠く大連港から、深く重い船の汽笛が響いた。
山本は葉巻の火を灰皿へゆっくりと揉み消した。
「……付属地内、五万坪だ。
それ以上は一坪も渡さん」
「おおきに、山本さん」
東京。
三宅坂。
陸軍省軍務局整備課長室。
窓の外では五月の冷たい雨が桜花を散らし、黒ずんだ濡れ軍服のウール臭と濡れた革靴の匂いが室内に立ち込めていた。
永田鉄山大佐は、山下奉文から届いた「関東軍、異状なし」の極秘電報を火鉢の炭火へ落とした。黒い灰がふっと舞い上がり、消える。
「山下までが、沈黙を選んだか」
傍らの憲兵隊特務分隊長が息を詰める。
「課長、直ちに関東軍へ憲兵査察を――」
「無駄だ。
海軍の『赤城』が動いている。
……阪急の資金繰りはどうなっている」
「梅田の百貨店建設のため、大阪の地場組合からの短期借入に依存しています」
永田は万年筆のキャップをカチリと閉めた。
「大蔵省銀行局を動かせ。
昭和二年銀行法に基づく特別臨検を行使させ、大阪の全行に対し、阪急への新規融資を明日午前十時をもって『全額一時凍結』させろ」
「……阪急が焦げ付きます」
「小林一三に、国家の圧力を教えてやれ。
石原を送り返すまで血流を止めろ」
翌日。
大阪。
池田の白梅館。
書斎の黒い電話機五台が、狂ったようにベルを鳴らし続けていた。
「西田部長!
大蔵省の指導で、住友も野村も正午の資金を出しません!」
「東京から連絡です!
今期社債の募集が全面取り消されました!」
絶叫と悲鳴が飛び交う受話器の脇で、四歳の時子が畳の上にぺったりと座り込んでいた。
手には、阪急大食堂の真鍮製天突き器。
小さな手で鉄のピストンを押し込み、カチャ、カチャと無機質な金属音を繰り返している。
黒蜜の甘い匂いと酢の匂いが、受話器の汗臭さを突いていた。
カチャ、
カチャ。
押し出された透明な寒天が、一本の狂いもなく皿の上で重なり合っていく。
西田は金庫に飛びつき、小林が残した一通の密封封筒を引き裂いた。
便箋には、墨で叩きつけるようにただ一行。
『銀行に殺される前に、大阪の鍵を締めろ』
「……住友の本店へ繋げ」
西田の声から動揺が消えていた。
「小林の直書を回す。
野村、山口、三十四の頭取を今すぐ集めろ」
一時間後。
住友本館の密室。
重いカーテンが下ろされ、煙草の不快な煙が充満していた。
西田は、重厚なマホガニーのテーブルの中央へ、朱肉の匂いも生々しい二枚の連帯手形と、黒い革手帳を静かに置いた。
手形の脇に添えられた手帳の表紙には、住友が大連の満洲中央興業を経由して回している「大豆ドル還流」の裏口座番号が刻まれていた。
「小林からの言付けでございます」
西田は低く、淡々と言い放った。
船場育ちの冷ややかな目だ。
「大蔵省の臨検を受け入れて阪急の融資を止めるならご自由に。
……だが、阪急が焦げ付いて管財人が入れば、この帳簿がすべて三宅坂の永田大佐へ引き渡されます」
頭取たちの息が止まった。
住友の幹部が口を開きかけ、だが言葉にならず、卓上の黒い手帳と西田の顔を往復した。
指先がかすかに震え、煙草の煙が静止する。
阪急の倒産などどうでもいい。だが、この帳簿が割れれば、住友自身が大連で回している巨額の裏資金洗浄が丸裸になり、財閥そのものが陸軍に解体される――。
山口銀行の頭取が、野村の頭取と静かに視線を交わした。
どちらの顔からも血の気が失せていた。
西田は黒い手帳に指を添えたまま、静かに身を乗り出した。
「三宅坂に怯えて阪急の息を止め、住友の首を永田大佐に差し出すか。
……融資を実行して、東京の鼻をあかすか。
決めるのはあんたらです」
同日。
午後二時。
東京。
大蔵省。
蔵相室のドアが不躾に開き、銀行局長が飛び込んできた。
握りしめた日銀大阪支店からの電報が、汗で濡れてしわくちゃになっている。
「蔵相!
大阪が聞き入れません!
住友、野村、全行が阪急への融資を断行しました!」
卓上の直通電話から、途切れた悲鳴のような高音が漏れ出していた。
局長は受話器を指差し、唇を戦慄させた。
「大阪の手形交換所です!
『臨検を強行して阪急の帳簿を押さえるなら、大阪全行が本日の決済を全面停止し、東京への還流資金を遮断する』と……!
大阪が止まれば、東京の金融市場まで共倒れです!」
東西の金融網が切り離され、国家の体温が急降下していく冷たい静寂が部屋を満たす。
蔵相は血の引いた顔で受話器をひったくると、三宅坂へダイヤルを回した。
「永田大佐か!
今すぐ阪急の凍結を解除させろ! 大阪の連中が中央の命令を蹴飛ばした!
陸軍の意地で日本の金融を割る気か!」
受話器の向こうで、カチャリと静かに回線が切れた。
三宅坂。
整備課長室。
雨の匂いと濡れたウール地の臭気が立ち込めていた。
永田は受話器を置くと、眼鏡を外し、体温で曇ったレンズを静かに拭った。
「……小林一三。
地方資本の連破で、中央統制の壁を殴り返してきたか」
再び眼鏡をかけると、視線は机上の満洲地図の、冷たい黒い線へと戻っていた。
大連。
ヤマトホテル。
石原莞爾は窓辺に立ち、大阪から届いた「決済完了」の暗号電報を暖炉の火へ投げ入れた。
紙片が黒く丸まり、灰となって煙突へ吸い込まれていく。
石原は手垢で汚れた軍用眼鏡を外し、懐紙でゆっくりと拭った。
薄暗い部屋に、暖炉の薪が爆ぜる音だけが残された。