天保山岸壁。
海風は潮の匂いではない。
ドブ川の腐敗臭、死んだ工場の黒い重油、湿った硫黄の悪臭だった。
鉛色の泥海を前に、小林一三はマッチを擦った。
二度目で冷えた煙草に火が点く。
傍らで夏用の私服に身を包んだ石原莞爾は、帽子を深くかぶり直し、足元の青図を凝視していた。重石の真鍮が波音に合わせてカチャ、カチャと乾いた音を立てる。
「小林さん……。
船主が首を括り、満鉄の株すら怪しくなっておるこのドブ底で、何に銭を投じる気だば」
石原の口元から、不意に故郷の庄内訛りが滑り落ちた。
小林は細い煙を吐き出し、ステッキの先で泥塗れの青図を鋭く突いた。
描かれていたのは、天保山沖の荒波を遮断する「鉄の壁」と、その内側に切り取られた巨大な矩形の静水面だった。
「潰れた船会社から買い叩いた老朽貨物船の腹に、コンクリートとヘドロを叩き込んで沖へ一列に沈めるんです。
鉄の棺桶で大阪湾の波を物理的に殺し、鏡のような静水面を作る」
「……波を殺して、どうなさる」
小林はニヤリと口角を上げ、図面の中心――白紙の破線を強く叩いた。
「数年後、ここに海軍のデカい死体が浮きます。
沈めやせん。
大砲を全部叩き抜かせて重油を並々注ぎ込み、この静かな海のど真ん中に固定する。
外洋の波を殺した水面と、洋上で燃料を吐き出せる母艦。
うちが仕込んでるのは『空の兵站』そのものですわ。
この天保山が無敵の滑走路になります」
遠くで錆びついた起重機が悲鳴のような金属音を立てて倒れ込んだ。
石原は手垢で汚れた軍用眼鏡を外し、懐紙でゆっくり拭った。
かけ直した瞳には、冷酷な計算が宿っていた。
「……海軍の大艦を給油台船に叩き落とすおつもりか。
ですが小林さん、日本海や黄海の海面には予測不能な気流の牙があります。
高層の風の数理を読める異端の腕利きが現れん限り、あなたの飛行艇は離陸直後に海へ叩きつけられますよ」
「だから、気象の気狂いも、海軍の腕利きも、今から銭と名誉で囲い込むんです」
小林は短く笑い、青図を丸めた。
ドブ川の臭気と重油の匂いが満ちる海面。
そこに、最初の老朽貨物船がコンクリートを流し込まれ、自重でゆっくりと底へ沈んでいく重く鈍い音が響いた。
水しぶきが上がり、波が死ぬ。人工の静寂のなかで、小林一三の足元の影だけが、黒く伸びていた。
夜。
大川(旧淀川)。
天保山の暗闇が嘘のような熱気に沸騰していた。
川面を埋め尽くす天神祭の船渡御。
阪急が仕立てた巨大な御迎船には何百個もの赤い提灯が吊るされ、川風に揺れるたびに菜種油の臭いを撒き散らしている。
すれ違う船同士が、高らかに手を打ち合う。
『打ちましょ!
パンパン!
もひとつおせ!
パンパン!
祝うて三度!
パパン、パン!』
船の引き幕で区切られた座敷の畳の上を、五歳の時子がトトトと裸足で走り回っていた。
「う、うちまちょ!
パン、パン!」
手に握りしめた安飴の黄色いベタつきを自分の浴衣の裾になすりつけ、テイ子の周りを回ってはしゃぎ倒す。
汗ばんだ首筋から、酸っぱい汗の匂いと安飴の甘い匂いが立ち込めていた。
座敷の角に端然と座る男――住友本店の重役、木村は、畳の上をかすめる時子のベタついた足跡を、冷ややかな目で見つめていた。
三つ揃えの脇に畳んだ白いハンカチを置き、低い声を放つ。
「……陸軍の過激派が、密航してまで何を企むかと思えば」
木村の声は、極冷の氷だった。
「家族連れで奉納見物とは。
三宅坂の目を眩ますには上出来ですが……
住友の家法に『浮利を追わず』とあります。
軍の暴走に付き合う気はありません」
石原は無言で手を伸ばすと、目の前をトトトと横切ろうとした時子の胴体を、太い腕でひい掴んだ。
「おとなしゅうせい」
「……んぁっ」
ひょいと抱え上げられ、石原の膝の上にドンと乗せられた時子は、下唇をこれでもかと突き出し、不満そうに足をバタバタと揺らした。
石原の私服の夏衣の胸元に、飴のついたベタベタの手を擦りつける。
石原はその小さな体を片手でがっちりと固定したまま、手ぬぐいで時子の汗ばんだ額を無造作に拭った。
木村の鋭い視線が、石原の胸元で動く幼子の丸い頭と、夏衣に染み出していくヨダレのシミに落ちる。
「木村さん。
皇国のためとか、国家の危機とか、そんな空虚な話をしに来たのではありません」
石原は木村の眼光を真っ向から受け止め、口を開いた。
出てくるのは、静かな、だが狂いようのない数値だけだ。
「住友伸銅、第二工場。
圧延幅、四尺五寸。
月産三百トン。
……鍛造用の千五百トン油圧プレス」
木村の眉が、わずかに跳ねた。
「川西の試製大型飛行艇に必要な主翼桁材、ジュラルミン三百貫。陸軍の予算でも、三宅坂の利権でもない。
満洲の大豆ドルで買い叩く」
木村の細い目が、さらに深く、冷たく研ぎ澄まされた。
陸軍中央の三宅坂を完全に跳び越し、張学良の懐にあるドルの金脈を裏で握り潰している――その事実を、住友の番頭は一瞬で看破した。
三つ揃えの膝の上で握られた木村の白い指先に、かすかな力が籠もる。
「ふぇ……とぉちゃ」
膝の上で暴れようとする時子の背中を、石原の手のひらがトントン、と一定の拍子で叩き始めた。
トスッ、トスッ。
あやしではない。
一定の拍子で打ち下ろされる打は、跳ね上がる幼子の脈動と荒い呼吸を、力ずくで己の拍子へ巻き込んでいく作業だった。
「接収などという脅しは使わん。お宅の伸銅所の稼働率を上げ、職人の飯の種を保証する。
……住友の足を洗うための、ただの取引だ」
トントン、トントン。
一定の背骨の打撃と石原の体温の中で、時子の足のバタつきが止まった。
丸い頬を石原の夏衣へぐっと押し付け、小さな鼻をフスフスと鳴らし始める。
ベタついた指先が、石原の擦り切れた袖口をぎゅっと握りしめたまま、泥のような眠りへと落ちていった。
木村は沈黙した。
背筋を微動だにさせず、端然とした姿勢のまま石原を見据える。
木村はゆっくりと息を吐き、白いハンカチで指先を軽く拭った。
「……二トンは出せません」
そのまま、石原の膝で「フヒュー」と無防備な寝息を立てる時子の寝顔へ、冷たい視線を落とす。
「……その子、何歳です」
「五つです」
「そうですか」
木村は三つ揃えの胸ポケットから万年筆を抜き、己の名刺を裏返した。
細い墨字で『三百貫』と短く書き走らせる。
「なら、三百貫でいいでしょう。伸銅所の『加工屑』として帳簿から消します」
石原のミリタリズムに満ちた目が、わずかに動いた。
「……理由は」
「五歳の子供が眠れる国なら、住友も潰す理由がありません。
……浮利ではない。
廃物の処理です」
名刺が畳の上を滑り、石原の手元へ届いた。
小林一三が炭酸水のグラスを静かに傾け、氷をカランと鳴らした。
木村は懐から小さな紙包みを取り出し、隙のない所作で畳の上にそっと置いた。
「その子に。
……住友の飴は本当にうまい。
起きたら舐めさせなさい」
ドカン!
夜空を切り裂く巨大な爆音。
奉納花火が破裂し、赤い閃光が引き幕を透かして座敷を真っ赤に染めた。
遅れて硫黄の匂いが川風に乗って飛び込んでくる。
「うわぁ……!」
甲板でテイ子が歓声を上げる。
川面では、すれ違う奉納船の太鼓が狂ったように打ち鳴らされていた。
『打ちましょ!
パンパン!
もひとつおせ!
パンパン!』
石原の膝の上で熟睡する時子が、夢の中でかすかに「……パンパン」と小さな手をぴくつかせた。
石原はその小さな手を不器用に包み直し、小林、そして端然と座す木村と静かに視線を交わした。
花火の爆音と、大川を揺らす手打ちの拍手。
その狂騒の影で、阪急、住友、そして石原の兵站を結ぶ、冷酷で強固な「裏の手打ち」が静かに完了した。