五月十九日。
横浜港大桟橋。
米国経由で帰国した「浅間丸」の巨躯が、黒い重油の浮く海面に太いもやいロープを叩きつけた。
「山本少将!」
「軍縮条約の言い訳を聞かせろ!」
フラッシュの白光と、群がる報道陣の怒号。
その背後、濡れた黒コウモリ傘を差した男たちが佇んでいる。
憲兵隊の私服と、軍令部強硬派が放った刺客の不快な視線が、山本の首筋を舐めるように交錯していた。
山本五十六は少将の軍帽の庇を深めにかぶり、短くなった吸い殻を靴底で踏み潰した。
海軍省の用意したハドソンには乗らない。
人込みを縫い、桟橋構内の薄暗い木造電話室へ滑り込んだ。
漆喰の剥げかけた狭い室内。
湿気としみついた煙草の匂い。
山本は受話器を上げ、太い指先で和紙の小切手控えを軽く弾いた。
端に押された、朱色の『住友』の二重井桁印。
井上準之助の大蔵省と横浜正金銀行の目を欺き、上海から大阪へ還流される大豆ドルの血路。
真鍮の十銭硬貨を投入口へ叩き込む。
「……交換手か。
大阪の東、四八〇〇番へ繋げ。
……急ぎだ」
雑音の渦の向こうで、カチリと回線が噛み合った。
受話器から吐き出されたのは、小林一三の高めで不敵な声だった。
『……生きて戻られましたな、山本さん』
「査察官どもは横浜で、五十ドルの茶碗を抱いて寝ておりますよ。
……東京の官舎へ入れば、今夜にも背中を刺されます」
『梅田へいらっしゃい。
七階で、ウスターソースの利いた温かいものを用意しております』
山本は無言で受話器をフックに戻した。
構外に待たせた阪急荷役の無標識な暗緑色のトラックへ身を躍らせ、横浜駅の裏手から東海道本線の下り夜行へ滑り込んだ。
関門海峡の潮風は、死んだ魚の匂いがした。
関釜連絡船の二等客室。
鎮海要塞司令官の米内光政中将は、使い古された大島紬の着流しに身を包み、船底近くの機関員控室から足音もなく現れた。
阪急が裏で買い叩いた関釜航路の三等給仕の手引きだ。
下関で乗り換えた山陽本線の二等客車。
緑色の絨毯が敷かれた車内には、上等な葉巻の残り香と、冷や汗の酸っぱい臭いが漂っている。
向かいの座席では、仕立てのいい絹の対丈を着た老人が、デフレで暴落した株式相場表を震える指で追っていた。
横の男は、金融恐慌で不渡りを出したか、額にびっしりと脂汗を浮かべ、何度も懐中時計の蓋を開閉させている。
没落していく名士たちの、死体のような沈黙。
「……大砲のインチ数で首を吊ろうとしとる東京のバカどもに見せてやりたいわ」
米内は膝の上の文庫本に目を落としたまま、低い鼻鳴らしを吐いた。
潰れていくのは農村だけではない。
この国の背骨たる中産階級が、足元から音を立てて崩れ落ちている。
大砲に払う金など、この国のどこを探しても一銭も残っていないのだ。
ガラガラガラ……。
終電の去った梅田駅のコンクリートホームに、雨上がりの冷たい風が吹き抜けていた。
側線に、客を乗せない阪急の回送電車が静かに滑り込む。
暗がりから、庇を深くかぶったソフト帽の山本が降り立った。
反対側の陰から、大島紬の米内が合流する。
「……無事か、山本」
「私のような長岡の訛りが抜けん男が変装しても、一発で見破られますからね。
米内さん」
二人は視線を交わすこともなく、並んで阪急梅田ビルの漆黒の影へと歩を進めた。
第一期工事を終えたばかりの百貨店ビルの搬入口。
真新しい制服を着た阪急の若い給仕が、鉄扉を数センチだけ開けて二人を招き入れた。
油と木粉の匂いが漂う暗い貨物用エレベーター。
重いモーター音が低く唸り、ワイヤーが悲鳴を上げながら、二人を最上階へと引き揚げていく。
カチリ、とエレベーターが七階で止まった。
蛇腹の鉄扉が開くと、鼻腔を突いたのは――昼間、数千人の客が五銭のカレーとソーライスを貪り食った、強烈なウスターソースと消毒液の残り香だった。
椅子がすべてテーブルの上に逆さまに担ぎ上げられた、無人の巨大な阪急大食堂。
その一番奥、夜景の落ちるガラス窓の前に、白麻の三つ揃えを着た小林一三が座っていた。
デスクの上では、氷の溶けた炭酸水のグラスが小さな結露の輪を作っている。
小林は無言のまま、厚い名簿に目を通していた。
「阪急技術専門学校」と「川西航空機」の顧問一覧。
そこには、軍令部で軍縮反対を叫び、行き場を失った強硬派の技師や将校らの名がずらりと並んでいる。
ポン。……ポン。
小林の手元で、朱肉の重い音が規則正しく響く。
北摂の邸宅契約書。
海軍の倍の俸給を示す数字の上に、血のような赤印が次々と叩きつけられていく。
「……小林さん。
北摂へ囲い込んだ強硬派の技師どもだが、大人しくしておるのか」
米内の問いに、小林は赤インクの染みた万年筆を置き、声もなくクスリと笑った。
その目はまったく笑っていない。
ガラス細工のように冷たく、透き通っている。
「東京の官僚組織いうのはね、山本さん。
ボルト一本の予算を通すのに、半年かけて十何人のハンコを回しますやろ。
うちはここで、五百万円の即決小切手を握らせて『明日からお前の好きなようにエンジンを組め』と言いましたんや」
「……即決、だと」
「男いうのはね、金で買われると面子を立てて怒りますが、無限の予算と『自分だけの設計図』を渡されると、自ら首輪をはめて涙を流して躍り上がります。
大砲を取り上げられた人間に、東京以上の速さと金を見せつける……
うちが北摂で買っているのはね、あの男たちの『次の一生』ですわ」
小林は炭酸水のグラスを傾け、氷をカランと鳴らした。
山本と米内は、吐息すら飲み込んで小林の顔を見つめた。
札束で口を封じる政商など、この男の足元にも及ばない。
人間のプライドと挫折を解体し、自らのシステムを回す永久機関に組み替えてしまう。
それが小林一三という化け物の正体だった。
「だが小林さん。
井上の緊縮下だ。
上海からの大豆ドルがこれほどの規模で動けば、日銀の監査の網にかかる」
米内が着物の胸元から紙巻煙草を取り出し、静かに火を点けた。
「住友の木村さんがね、不景気で頓挫した地方私鉄の帳簿に大豆ドルを細かく刻んで叩き込んでくれました。
線路を百マイルほど延ばしておけば、日銀の警告など机に届く前に消滅しますよ」
「……で、扶桑と山城の着底要塞化だ。
法規の壁はどうする」
「永田さんのハンコが一押しあれば十分です。
『陸軍運送部』と住友の連名で『民間解体・沈設防波堤資材』と書類を一本出せば、内務省の役人は尻をまくって逃げ出す。
大連も同じです。
山下さんに『満鉄の警備燃料庫』と言わせりゃあいい」
「ボイラーを潰した後の電源や、三万トンの輸送、土木はどうする」
山本の静かな問いに、小林は手札を開くように指を軽やかに弾いた。
「昨年の秋……貴方がロンドンで条約の泥沼に入った瞬間から、芝浦の工場も、天保山の海底もすでに動かしてありますわ。
船頭には別の名前で引っ張らせます」
小林はデスクの上に住友の手形控を滑らせた。
「腹が減っては、鳥も落ちますよ。
大豆ドルは『電車部品』の名目で海軍航空本部へ流します。
海軍の戦艦を、陸軍の法律と、阪急の金で買い叩く。
……文句はございますまい、提督」
山本はフッと冷めた笑いを浮かべ、太い指先でグラスを弄んだ。
「……海軍が阪急の集金人兼用心棒か。
悪くない手当てだな」
昭和五年六月。
横須賀海軍工廠。
第一ドック。
コンクリートの深底から立ち上るアセチレンの強烈な臭気と、湿った鉄錆の粉末。
ギィィィ……と悲鳴をあげる起重機のワイヤーが緊張し、戦艦「扶桑」の三十六センチ連装砲塔が、根元からブツリと切り取られた巨木の幹のように宙へ浮き上がっていく。
甲板上では、阪急の突撃工員たちが木製のダミーデッキと巨大な平型上屋を目にも留まらぬ手際で組み上げていた。
主砲を毟り取られた戦艦のシルエットは、削り出された巨大な「港湾建設用ドックケーソン」へと無残に塗り替えられていく。
ドックの縁に立っていた英国海軍の査察官は、湿気と重油の臭いにあからさまな不快感を示し、シルクのハンカチで鼻腔を覆っていた。
現場の雑音と火花で誤魔化そうとする日本の技術将校を、冷淡な眼差しで見下ろす。
「欺瞞はよせ。
我々は図面と照合し、破壊の完了を確認する義務がある。
疑問が残る以上、本国のアドミラルティへ照会し、査察をやり直す」
査察官が万年筆を胸ポケットに戻そうとした瞬間、暗がりから進み出た山本五十六が、細長い青い電信用紙を静かに突きつけた。
「……これは何だ」
「ロンドンから、今朝届いた暗号電報の訳文です。
そちらの海軍省高官のサインが入っている」
ドックの耳を裂く金属音が、一瞬遠のいたかのような錯覚。
重苦しい静寂が、二人の間に落ちた。
査察官の視線が、青い紙片の上を往復する。
そこに刻まれていたのは、英国造船業界の膨大な不祥事債権を住友が握っている事実と、ロンドン本国でこの『廃船払い下げ』がすでに完全承認されている旨を示す、最高機密の電信コードだった。
一秒、二秒、三秒。
沈黙の中で、査察官の脳内が凄まじい速度で回転する。
「本国へ照会されるのはご自由ですが」
山本は低く掠れた声で、冷ややかに囁いた。
「問い合わせの電信がロンドンに着いた瞬間、あなたの上司は自分の首を飛ばさないために、あなたを『命令違反の無能』として処理するでしょう。
大英帝国の本国がすでに呑んだ話を、現場のあなたが壊すことになりますが」
査察官の喉が、小さくゴクリと鳴った。
額の生え際から、湿った冷や汗が噴き出し、頬を伝って滴り落ちる。
日本の公印でも、現場の脅しでもない。
自分を縛る自国の絶対的な権力構造。
大英帝国のプライドと、剥き出しの保身が胸中で激突し、万年筆を握る指先がプルプルと激しく震えた。
「……サインを」
山本が差し出した羊皮紙のファイル――陸軍省運送部と住友海洋開発の連署による『民間転用・沈設防波堤構造物譲渡証明書』。
査察官は喉を干上がらせたまま、引きつった指先で署名欄へインクを叩きつけるように滑らせた。
「……オーケーだ。
持っていけ、この鉄くずを!」
査察官が逃げ去ったあとの、暗くガタついた「扶桑」三番砲塔の下部弾薬庫。
クレーンで吊り降ろされた芝浦製の巨大な水銀整流器が、ドスンと重い音を立てて鎮座した。昨秋の特注から半年、極秘裏に組み上げられた巨躯。
ガラス管の奥で、怪しい青紫色の放電光が蠢き始め、独特のオゾン臭と熱気が空洞を満たしていく。
かつて主砲弾がギッシリと詰まっていた空間には、四千トンの重油タンクが収まり、足元には阪急の変電所から引き込む高圧送電線の太いケーブルが這い回っていた。
見上げれば、切断されたマストの頂部に、無骨な竹竿のような八木式アンテナが、夜霧を割って飛来する飛行艇を迎える触角のようにしなやかに立ち上がっている。
一ヶ月後。
大阪湾。
天保山沖。
梅田の地下を掘り抜いた阪急の土木隊と住友の港湾組が、昨秋から泥をさらい、海底に敷き詰め終えていた巨大なコンクリートケーソンと捨石基礎。
無標識の民間大型曳航船に引っ張られて着底位置へ滑り込んだ「扶桑」の二重底(ダブルボトム)へ、海水と海水耐性コンクリートが交互に流し込まれていく。
粘土質の地盤を力ずくで押さえつけ、三万トンの鉄塊がミリ単位の狂いもなく、完璧な水平を保って海底へと沈み込んでいった。
甲板の上で、米内と山本がその異形を見下ろしていた。
条約の破棄で廃艦とされるはずだった鉄の城。
それが今、海軍の手を離れ、陸軍の法理と阪急の銭、そして住友の土木を血肉にして、静かに天保山と大連の水底へ着底する「沈まない通信、給油要塞」へと姿を変えていた。