白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

15 / 15
第十四章『胎動』(1930年 10月)

兵庫県。

川西航空機鳴尾工場。

 海へ向け開かれた巨大な格納庫の吹き抜けから、潮混じりの凍てつく風が吹き込んでいた。

コンクリートの床は足の裏から骨まで冷やし尽くす。

 薄暗がりの中央に横たわるのは、海軍がイギリスのショート社から買い叩いた試作飛行艇の無残な姿だ。

 羽織の衿を固くかき寄せたテイ子は、その異形に息を呑み、足が竦んだ。

 巨大な鯨の死骸のように横たわる黒い鉄塊。

露わになった肋骨のようなフレームと、不気味に蠢く無数のボルト穴。

主翼に鎮座する黒塗りの発動機は、今にも人を噛み殺しそうな鉄の顎に見えた。

 テイ子の着物から漂うほのかな樟脳の香りは、生臭い重油と錆びた鉄の匂いに一瞬で殺された。

こんな禍々しい鉄の籠に乗って空へ上るなど、正気の沙汰ではない。

人間の領域を侵す悪魔の機構――テイ子は皮膚が泡立つような猛烈な恐怖に襲われ、思わず時子の肩を抱き寄せた。

「……また漏れよった」

 煤と重油で顔の皺を黒く汚した整備職長、堀部安成が低く吐き捨てた。

 水冷発動機の隙間から、錆色の冷却水がぽたり、ぽたりと濁った水溜まりへ落ちていく。

まるで鉄の怪物が血を流しているかのようだ。

 堀部はスパナをコンクリートへ叩きつけた。

 ――カンッ!

 甲高い金属音が天井へ抜け、時子が肩を跳ね上げてテイ子の懐へ顔をうずめた。

堀部は油まみれの太い軍手を、小林一三と石原莞爾へ突きつけた。

「小林さん。

石原のセンセも、よう見なはれ。これがご貴族様の温室で育った舶来の無様ですわ。

高度二千で放熱器が干上がってみぃ。

全員、海の藻屑や」

 小林は無言で懐から、横浜正金銀行ニューヨーク支店振り出しの米ドル小切手を叩き出した。

満州の大豆決済で手に入れた本物のドル札の束だ。

青図の上に叩きつけられた紙切れから、小林が煙草に火をつけ紫煙を吐き出す。隣の石原が冷ややかな目でその煙を払った。

「水冷は下ろす。

アームストロングの空冷『ジャガー』の製造権を買う」

「アホ言いなはれ。

こんな潮風とドロ水が混ざる大阪湾で国産の腐れ燃料ぶち込んでみぃ。

一発で焼き付いて終わりや」

「ならどうする」

「三菱や。

大江で冷や飯食わされてる『A4』空冷。

あれ一択や。

そのドルでライン丸ごと買い占めて鳴尾へ持ってこさせぃ!」

 主任技師が青図の胴体下部を激しく指で叩いた。

「発動機だけやない!

翼端のフロートを外して、胴体横にこんな不格好な張出浮体(スポンソン)を突っ張らせる気か!

巨大な張り出し翼が着水の瞬間にドロ海の水圧を正面から喰らうんだぞ!

胴体ごと根元から引きちぎれる!」

「……テイ子さん。

時ちゃん。

あそこのタラップ、登ってみなはれ」

 不意に、小林が紫煙の向こうから低い声で言った。

 技師たちの怒号がぴたりと止まる。

 テイ子は喉を鳴らし、震える手で時子の手を握りしめた。

こんな化け物に近づくことすら恐ろしい。

だが、小林の射抜くような視線に押され、引き摺られるように木製のタラップ試作模型へ歩み寄った。

 揺れる梯子。

テイ子が着物の裾を抑え、白い足袋で一段目を踏み締めた瞬間――ぐらりと足元が傾いた。

「……あっ」

 視界が大きく揺れ、テイ子の顔から血の気が引く。

裾から覗く足首があらわになり、咄嗟に庇おうとした袖口が、手すりにべっとりと付着した黒い重油を擦った。

 その横で、時子が小さな足を伸ばして二段目を跨ごうとしたが、高すぎる段差に足が届かず、濡れた木板でつるりと靴底を滑らせた。

「ふぎゃっ!」

 石原の腕が素早く伸び、時子の身体を抱き起こす。

時子は鼻を赤くし、恐怖に小刻みに震えながら父親の首に抱きついた。

テイ子は膝をガクガクと震わせ、重油で汚れた袖口と、飛沫で黒く点々と汚れた白足袋を見つめたまま固まった。

空を飛ぶ機械の生々しい威圧感に、全身の毛穴が収縮していた。

 小林はニヤリと口の端を上げた。

「見たか、主任。

……これが、うちの阪急に乗る客の姿や」

 小林の目が、冷酷な商人の光を帯びて技師たちを射抜く。

「一等切符を買うてくれる富裕層のお内儀さんが、股を開いて着物の裾を端折り、足袋をドロ水で濡らし、袖を重油で汚しながら乗る飛行艇?

そんなもんに誰が五十円も払いますかいな」

 小林は歩み寄り、抱きかかえられた時子の頭をポンと叩くと、スポンソンの青図を指で叩いた。

「ハル底部でドスンと着水して、この平らなスポンソンを水面に浮かべるんや。

天保山の桟橋にピタッと横付けすれば、お内儀さんも子供も、畳の上を歩くみたいに靴一つ汚さんとサロンへ入れる。

阪急はな、客の靴を汚して商売はせんのや」

「し、しかし莫大な曲げ荷重が結合部に集中して、瞬時に金属疲労を起こすんだ!」

「疲労する前に、丸ごとドブに捨てて新品に換えるんや」

 堀部が低く吐き捨てた。

 若い技師、菊原静男が青ざめた顔で青図の結合部を凝視する。

「結合部にテーパーブッシュ……!?

予荷重をかけてガタを完全に殺す気ですか……!」

「ガタなんか一ミクロンも出さへんわ」

 堀部は脚半の巻かれた己の太い脚を叩いた。

「正雀の電車工場で削らせたブッシュを叩き込んで、突っ張らせる。

衝撃で疲労が溜まる前に、ピンを叩き抜いてブッシュごとドブに捨てる。

正雀で作らせた新品を叩き込んで、また締め上げるだけや。

全ボルト締めの丸ごと取り換えや。

飛行機をお宝と思うから頭がおかしくなる。

これは正雀の電車と同じ、空飛ぶ消耗品や」

 菊原静男は息を呑み、計算尺を握りしめたまま立ち尽くした。

 構造剛性を極限まで高め、疲労限界が来る前にパーツを未然に丸ごと廃棄・交換する――電車屋の泥臭くも完璧な現場の力学。

 小林一三が肩を揺らし、格納庫の鉄骨を震わせる声で笑い出した。

「……ハハハ!

三菱の大江を叩き起こせ。

ラインごと買い叩く。

テーパーブッシュなら正雀に作らせる。

……テイ子さん、服を汚させてすまんかったな。

正雀の絹で新しく仕立て直させます」

 石原莞爾は震える時子の背中を静かに撫でながら、手帳を取り出し、冷えた指先で鉛筆を走らせた。

『ハル底部着水ならびにスポンソン構造。

テーパーブッシュによるガタゼロ締結。

定格時間での部位丸ごと定期交換。

構造疲労の完全初期化』

 石原の口元に、暗い笑みが浮かぶ。

(このブサイクな翼が……

満州の空を繋ぐ)

 同じ刻。

 東京。

三宅坂。

陸軍省。

 軍務局整備課長、永田鉄山大佐は、暖房の効いた執務室で、机の上の「はくつる仕様書」に目を通していた。

石油混じりの暖房の匂いが、室内の重苦しい沈黙に満ちている。

「時速百三十キロ。

複葉四発、ハル底部着水……」

 永田は万年筆のキャップを外すと、目の前の二枚の人事異動書に、ねっとりとした朱肉を擦り付けた。

 一枚は、海軍工廠を追われた失職職人たちを「阪急技術専門学校」へ無償で払い下げる許可証。

 もう一枚は、三宅坂に従わない過激派――板垣征四郎、河本大作らの同調将校どもを、満州の辺境「満州石油探査警備隊」へ叩き落とす追放令だ。

 ――ズシッ。

 重い官印が紙を押し潰す。

鮮血のような朱の印影が、濡れたように光った。

「板垣も河本も、満州の野山で泥を食っていろ。

……小林の飛行艇の護衛なら、丁度いい役目だ」

 永田は冷たい目で印影の乾くのを眺め、万年筆を置いた。

 窓の外、三宅坂の寒空を、黒塗りの公用車が音もなく通り過ぎて行った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。