第四師団司令部、二階執務室。
鋳物のストーブの中で、爆ぜた薪の灰が静かに舞い落ちていた。
窓の下、公設質屋の軒下には、灰色の木綿綿を纏った民衆がすり寄るように列をなしている。
その寒々しい沈黙を、卓上の「五万分一池田」作戦図を叩く乾いた音が破った。
コン、コン、コン。
「……学校の配置を申せ」
庄内訛りの低い声。
部屋の隅で直立不動をとっていた少尉の背筋が、跳ねるように強張った。
「はっ。
駅前に町立『池田尋常高等小学校』。
山手の城山に『大阪府池田師範学校』附属がございます」
「距離は」
「駅前は、白梅館から平地を歩いて十分足らず。山手は倍以上の距離があり、勾配もきつく……」
「質は」
石原の冷たい声が少尉の言葉を途切らせた。
赤鉛筆の太い芯が、作戦図の二点を交互に指している。
「……師範附属には、府職員や将校、上位層の児童が集まります。教員の質も高く、環境としては……」
「温室か」
赤鉛筆が、駅前の「池田尋常高等小学校」の上で猛烈な円を描いた。
――バキッ。
芯が砕け、黒い地図の上に赤い粉が散る。
「は……」
「『は』ではない」
石原は立ち上がると、安背広の胸ポケットから使い古された小冊子を引き抜いた。
指先で頁を強く弾く。
パシッと、硬質紙の乾いた音が室内に響いた。
「『譬へば泥沼の中に蓮華の生ずるが如し』だ。
如蓮華在水――泥を食い、泥に根を張り、なお泥に染まらぬ白蓮華(びゃくれんげ)でなければ、次の時代は生き残れん。
温室の薔薔(ばら)など一昼夜で腐ちる」
石原の顔が、少尉の鼻先数センチまで迫った。
硝子玉のような瞳に、一切の情の動きはない。
冷えた息が少尉の頬を撫でる。
「我が家の第一号補給線だ。
遅延も途絶も許されん。
……文句があるか」
「……ありませんッ!」
少尉の喉から引きつった悲鳴が漏れた。敬礼の拳を固めたまま、脱兎のごとく廊下へ逃げ出していく。
一人残された室内に、懐紙で鉛筆の赤い粉を拭い去るサッサッという音だけが残った。
昭和六年四月。
池田の春。
「白梅館」の玄関には、新しい牛革の匂いと、甘い樟脳の匂いが満ちていた。
懐中時計の蓋をパチンと閉めると、石原は奥へ向けて声を張った。
「時子、おぐれっぞ」
タタタ、と三和土(たたき)を叩く軽い足音。
現れたのは、阪急百貨店から届けられた紺ウールのワンピースに身を包んだ時子だった。
背中には、まだ硬い黒革のランドセル。
真っ赤な頬をぷっくりと膨らませ、玄関に並んだ小ぶりの黒革靴と石原の顔を交互に見上げる。
「とーちゃ、靴履かせて」
「……む」
石原の膝が、迷いなく動いた。
安背広の膝を三和土の土埃の上に容赦なく突き、片膝を下ろす。時子の小さな足首を、指の関節が太い手のひらで包み込んだ。
阪急の職人がこしらえた小さな真鍮バックル。
コンマ一ミリの噛み合わせを、石原の固い指先が手探りで探てる。時子の柔らかい踵を傷つけぬよう、息を殺して金具を滑らせた。
パチン。
硬質な噛み合わせの音が、三和土に響いた。
「莞爾さん」
衣擦れの音がした。
薄桃色の訪問着を纏ったテイ子が、立ち姿のままふたりを見下ろしている。
帯の結び目ひとつ狂いのない佇まいから、静かな冷ややかさが漂う。
「そんなお召し物で地べたに膝をついたら、すぐにお汚れになりますよ」
「初歩的な装備の装着だ。
甘やかしではない」
石原は片膝をついたまま振り返り、テイ子をキッと見据えた。
「よし、時子。完了だ」
「うん! いこ!」
時子は三和土の上でトントンと靴底を鳴らすと、石原の太い人差し指を両手でぎゅっと握りしめた。
門をくぐると、室町住宅地の生垣から溢れ出た桜吹雪が二人を包んだ。
「とーちゃ、桜!」
「うむ。足を止めるな。
前方に気を配れ」
時子は無邪気に笑い、石原の手を引いて歩き出す。
小さな足音が、春の平地へ澄んで響いていった。
同じ刻。
東京。
三宅坂。
陸軍省の地下控室。
湿った安煙草の煙と、泥の匂いが充満していた。
卓上に置かれた青森からの手紙。
藁の粉を捏ねた飯の匂いと、欠食児童の汗の匂いが、カビの生えた便箋から匂い立っている。
破れた軍衣を着た中尉の指先が、その紙片を握りつぶした。
メリ、と角が折れ、爪の間にこびりついた黒い煤が紙を汚す。
「……三宅坂の上が何をしている。仙台の兵が泥を喰っている時に、大阪の師団は電車屋と高飛びごっこかッ!」
ドスンッ、と重い拳が卓を叩いた。
桜の舞う池田の遠い青空の下とは違う、底なしの暗闇の中で、青年将校たちの荒い息遣いだけが渦巻いていた。