白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第十五章『泥中白蓮』(1931年 2月)

第四師団司令部、二階執務室。

 鋳物のストーブの中で、爆ぜた薪の灰が静かに舞い落ちていた。

 窓の下、公設質屋の軒下には、灰色の木綿綿を纏った民衆がすり寄るように列をなしている。

その寒々しい沈黙を、卓上の「五万分一池田」作戦図を叩く乾いた音が破った。

 コン、コン、コン。

「……学校の配置を申せ」

 庄内訛りの低い声。

 部屋の隅で直立不動をとっていた少尉の背筋が、跳ねるように強張った。

「はっ。

駅前に町立『池田尋常高等小学校』。

山手の城山に『大阪府池田師範学校』附属がございます」

「距離は」

「駅前は、白梅館から平地を歩いて十分足らず。山手は倍以上の距離があり、勾配もきつく……」

「質は」

 石原の冷たい声が少尉の言葉を途切らせた。

赤鉛筆の太い芯が、作戦図の二点を交互に指している。

「……師範附属には、府職員や将校、上位層の児童が集まります。教員の質も高く、環境としては……」

「温室か」

 赤鉛筆が、駅前の「池田尋常高等小学校」の上で猛烈な円を描いた。

 ――バキッ。

 芯が砕け、黒い地図の上に赤い粉が散る。

「は……」

「『は』ではない」

 石原は立ち上がると、安背広の胸ポケットから使い古された小冊子を引き抜いた。

指先で頁を強く弾く。

パシッと、硬質紙の乾いた音が室内に響いた。

「『譬へば泥沼の中に蓮華の生ずるが如し』だ。

如蓮華在水――泥を食い、泥に根を張り、なお泥に染まらぬ白蓮華(びゃくれんげ)でなければ、次の時代は生き残れん。

温室の薔薔(ばら)など一昼夜で腐ちる」

 石原の顔が、少尉の鼻先数センチまで迫った。

硝子玉のような瞳に、一切の情の動きはない。

冷えた息が少尉の頬を撫でる。

「我が家の第一号補給線だ。

遅延も途絶も許されん。

……文句があるか」

「……ありませんッ!」

 少尉の喉から引きつった悲鳴が漏れた。敬礼の拳を固めたまま、脱兎のごとく廊下へ逃げ出していく。

 一人残された室内に、懐紙で鉛筆の赤い粉を拭い去るサッサッという音だけが残った。

 

 昭和六年四月。

池田の春。

「白梅館」の玄関には、新しい牛革の匂いと、甘い樟脳の匂いが満ちていた。

 懐中時計の蓋をパチンと閉めると、石原は奥へ向けて声を張った。

「時子、おぐれっぞ」

 タタタ、と三和土(たたき)を叩く軽い足音。

 現れたのは、阪急百貨店から届けられた紺ウールのワンピースに身を包んだ時子だった。

背中には、まだ硬い黒革のランドセル。

真っ赤な頬をぷっくりと膨らませ、玄関に並んだ小ぶりの黒革靴と石原の顔を交互に見上げる。

「とーちゃ、靴履かせて」

「……む」

 石原の膝が、迷いなく動いた。

 安背広の膝を三和土の土埃の上に容赦なく突き、片膝を下ろす。時子の小さな足首を、指の関節が太い手のひらで包み込んだ。

 阪急の職人がこしらえた小さな真鍮バックル。

コンマ一ミリの噛み合わせを、石原の固い指先が手探りで探てる。時子の柔らかい踵を傷つけぬよう、息を殺して金具を滑らせた。

 パチン。

 硬質な噛み合わせの音が、三和土に響いた。

「莞爾さん」

 衣擦れの音がした。

 薄桃色の訪問着を纏ったテイ子が、立ち姿のままふたりを見下ろしている。

帯の結び目ひとつ狂いのない佇まいから、静かな冷ややかさが漂う。

「そんなお召し物で地べたに膝をついたら、すぐにお汚れになりますよ」

「初歩的な装備の装着だ。

甘やかしではない」

 石原は片膝をついたまま振り返り、テイ子をキッと見据えた。

「よし、時子。完了だ」

「うん! いこ!」

 時子は三和土の上でトントンと靴底を鳴らすと、石原の太い人差し指を両手でぎゅっと握りしめた。

 門をくぐると、室町住宅地の生垣から溢れ出た桜吹雪が二人を包んだ。

「とーちゃ、桜!」

「うむ。足を止めるな。

前方に気を配れ」

 時子は無邪気に笑い、石原の手を引いて歩き出す。

小さな足音が、春の平地へ澄んで響いていった。

 同じ刻。

 東京。

三宅坂。

陸軍省の地下控室。

 湿った安煙草の煙と、泥の匂いが充満していた。

 卓上に置かれた青森からの手紙。

藁の粉を捏ねた飯の匂いと、欠食児童の汗の匂いが、カビの生えた便箋から匂い立っている。

 破れた軍衣を着た中尉の指先が、その紙片を握りつぶした。

メリ、と角が折れ、爪の間にこびりついた黒い煤が紙を汚す。

「……三宅坂の上が何をしている。仙台の兵が泥を喰っている時に、大阪の師団は電車屋と高飛びごっこかッ!」

 ドスンッ、と重い拳が卓を叩いた。

 桜の舞う池田の遠い青空の下とは違う、底なしの暗闇の中で、青年将校たちの荒い息遣いだけが渦巻いていた。

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