白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第十六章『幻影祝祭』(1931年 5月)

梅田。

 阪急百貨店七階。

大食堂。

 三千席の熱気と、鉄板で焼き焦げるウスターソースの酸っぱい煙が、吹き抜けの天井に重く淀んでいた。

 外套の裏に減給と失業の恐怖を隠した人々が、汗ばんだ手で十銭銀貨を握りしめ、券売機の鋳鉄の樋へ滑り込ませる。

 手垢と金属のサビ臭さが、滑車を伝って跳ね返った。

 ――チャリン、チャリン、チャリン。

 銭が鳴尾の溶接火花へ化けていく無機質な音だ。

「はい、お待たせいたしました。『はくつる就航記念ぱふぇ』でございます」

 白服の給仕が運んできたのは、人工的な青いソーダゼリーの海に、バニラアイスの不格好な塊が浮いた代物だった。

 湿気ったウエハースが二枚、無理やり突きたてられている。

 モダンガールが銀のスプーンをあてがい、無感情にアイスの翼を削り落とした。

「見て、翼が落ちたわ」

「ええい、一口で食うてしまえ」

 隣の席では、型抜きされたジャガイモが鎮座する「飛行艇カレー」の皿が、流れる作業帯のように給仕の手から手へ渡っていく。

 誰も皿の上の歪さに頓着しない。

 十銭の夢を喉奥へ流し込む作業に、ただ没頭していた。

 宝塚。

大劇場。

 暗闇を破り、大オーケストラが長調の行進曲を響かせる。

 白銀のハリボテの主翼を背負った五十人のタカラジェンヌが、床板を踏み鳴らして脚を跳ね上げた。

『♪ 東京の頭を飛び越えろ、銀の翼よ大連へ!』

 割れんばかりの拍手がシャンデリアを揺らす。

 二階の特別席。

小林一三は肘掛けに深く身体を預け、眼下の狂騒を細い目で見下ろしていた。

 その瞳に、客の熱気は一切映っていない。

冷ややかな算盤の数字だけが揺れていた。

「……恐慌で首括る前に、十銭で夢を買わせてやるんや。

客が現実を忘れる毒なら、いくらでも作ったる」

 天保山。

飛行艇仮設ターミナル。

 五月の眩しい陽光の下、潮風に混ざってドブと不完全燃焼の重油の生臭さが鼻をつく。

 岸壁を埋めた数万の群衆が、押しのけ合いながら海面を凝視していた。

 波間に揺れるのは、川西製四発遊覧飛行艇「はくつる」――社内開発コード「KX-1」。

 英国製のスマートな影などどこにもない。

 堀部安成が三菱の大江工場から力ずくで分捕ってきた試作空冷「A4」四発を主翼に押し込んだ結果、機体は太く丸く膨れ上がり、胴体脇から平らなスポンソンをべったりと海面へ突き出していた。

 だが、旧来の「固める鉄」ではない。

 正雀の変電課から持ち込まれた高圧送電線の可撓技術と、数万本の沈頭リベット。

 浪速の波とエンジンの高周波振動を逃がすため、構造全体がしなやかに応力を分散させる、巨大な「撓(たわ)むブリキの家屋」だ。

「皆さん、よぅ聞きなはれ」

 特設ステージで、小林一三が拡声器を口元へ寄せた。

 割れた金属音が海面を叩く。

だが、その声には過剰な怒号も下品な煽りもない。

大衆の自尊心を優しく撫で回す、洗練された毒が含まれていた。

「東京の偉いさん方は、条約だの軍縮だのと難しい顔をして縮こまってはります。

……けど、うちらの銭は止まりません。

この『はくつる』は、東京の役人さんの頭をすり抜けて、大阪から大連へ直結する――うちらの銭の翼です。

……偉いさんには、内緒ですねん」

 うねるような爆笑と、地鳴りのような歓声が上がった。

 岸壁の端で、重油混じりの泥飛沫を浴びながら躍るタカラジェンヌの足元へ、紙吹雪が白く舞い散る。

 狂騒から遠く離れた桟橋の陰に、石原莞爾と時子が立っていた。

「とーちゃ、……みて」

 時子が真っ赤な頬を膨らませ、海面を指差した。

「しろいつる……きれぃ……」

 その唇の輪郭に、大食堂で喰わせたソーダゼリーの、着色料の毒々しい青が斑点のように残っていた。

 石原の視線が、その青い唇の傷口のような色彩に吸い寄せられ、数秒間、微動だにせず繋ぎ止められた。

 合成顔料の安っぽい青と、水平線の彼方に渦巻く大気がもたらす死の冷たさ。

二つの毒が歪に重なり合い、石原の胸の奥を激しく抉る。

 石原は無言のまま時子の細い肩を引き寄せ、大きな手でその頭を抱え込んだ。

手のひらに伝わる幼い温もりと、肌をさす湿った風の圧力が拮抗する。

 海からの風が変わった。

粘りつくような潮の匂い。

突如として耳の奥がツンと詰まる気圧の変化。

石原の鋭い眼光が、天保山の沖合、水平線の濁った雲の境界を射抜く。

――ガストフロント。

大阪湾の局地的な突風前線だ。

どれほど正雀の可撓構造で機体のしなりを作ろうと、大気が吐き出す非線形の激流一発で、この巨大な鉄の塊はあえなく海面へ叩き落とされる。

算盤で風の骨組みを弾き、突風の通り道をあらかじめ炙り出す狂人が要る。

筑波の空にゴム気球を放ち、佐賀弁で偏西風を呟くあの気象学者の顔が、言葉になる前に石原の脳裏をかすめた。

 ――バリバリバリバリッ!

操縦席でパイロットが操縦桿を抱え込み、その背後の機関士席で、堀部安成が固着したスロットルレバーへ飛びかかった。

四発・二千八百馬力の重厚な鋼鉄リンク。

内圧を増した油圧ラインの抵抗とエンジンの狂動が、真鍮のレバーを岩のように固化させている。

堀部はその剛体へ、油と煤にまみれた右掌を力任せに叩きつけた。

――ガチリ!

皮膚が引き裂かれ、真鍮の角に手のひらの肉が削り取られる。生臭い血が油膜に混ざって滲み出た。

痛覚を激痛で上書きしながら、堀部はその血塗れの掌でレバーを底まで強引にねじ込んだ。

三菱製「A4」四発が咆哮を上げる。

不完全燃焼の黒煙と重油の臭気が吹き荒れ、プロペラ後流がドブ混じりの海水を巻き上げてターミナルの玻璃窓を強烈に叩いた。

「ハンプ超えるぞ!

操縦桿吐き出すなッ!」

血を撒き散らしながら、堀部がパイロットの背中越しに怒鳴り散らす。

艇底のステップが水膜を切り裂き、キャビテーションの白泡が爆発した。

――ダダダン! ダダン!

船底が波頭に叩かれる猛烈な打撃音。

胴体全体が「ギィ」と嫌な悲鳴を上げ、しなりながら衝撃を外へ逃がす。

千メートルの激動の果て、湿った粘り気を引き剥がした「はくつる」は、水飛沫の霧を切り裂いて青空へ躍り出た。

地響きのような歓声が天保山を揺らす。

小林一三は吸い殻を海へ投げ捨て、口元をわずかに歪めた。

 翌朝。

 大阪毎日新聞。

第一版。

紙面の上半分には、離水する「はくつる」の巨大なグラビアと、『恐慌を笑う銀翼』の躍動する活字。

だが、折り目の下の三面記事に、鉛毒の臭う黒いインクで数行が押し込められていた。

『東北地方、冷害につき未曾有の凶作。

娘の身売り、相次ぐ。

地獄の農村』

大食堂のテーブルで、モダンガールが『はくつるパフェ』の湿気ったウエハースを前歯で無関心に喰い千切り、新聞のグラビアの上にポロポロとクズを落とした。

三宅坂。

陸軍省。

地下室。

薄暗闇の中、青年将校がその紙面を親指の爪で強く擦り付けた。

紙が破れるほど強く、強く。

鉛インクが擦れて文字が潰れ、大阪の空へ躍り出た白い翼のグラビアの上に、湿った汚い手垢がベッタリと残された。

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