東京、新橋の料亭「金田中」。最奥の洗面所には、梅雨特有のねっとりとした湿気が澱んでいた。
鎮海要港部司令官、米内光政少将は、軍衣の袖を濡らさぬよう手首まで丹念に捲り上げ、静かに指先を洗っていた。
対馬海峡の潮風と湿気が、いまだ分厚い羊毛に重く染み付いている。
背後の杉戸が、擦れる音もなく開いた。
滑り込んできた陸軍歩兵中佐の額には、油染みのような脂汗がびっしりと浮いている。
その男——石原莞爾は、下腹部を締め付ける猛烈な激痛を一切表情に出さず、鏡越しの米内に向けて寸分違わぬ鋭さで敬礼を送った。
指先一つ、震えていない。
「これは米内閣下。
不調法、失礼いたしました」
米内は湿った手拭いで指の股を丁寧に拭いながら、鏡の中に映る蒼白な石原の顔面を射抜いた。
「……その湿気は、骨まで腐らせるか」
石原の薄い口元が、かすかに吊り上がった。
声は出さない。
微かに揺れる瞳孔と、軍服の奥で軋む浅い呼吸音だけが、肉体の限界を物語っている。
米内は手拭いをゆっくりと畳み、低く掠れた声を落とした。
「うちの航空隊にいる村神中尉がな。
横須賀で酒を飲んでは、泣いておるよ」
石原の足が、ピタリと止まった。
洗面所の狭い空間に、不自然な固さが落ちる。
「『陸校で野砲の爆死を遂げた兄の死に様が、どうにも合点がいかない』とな」
米内は鏡の中の石原の背中に、粘りつくような視線を這わせた。
「陸軍の事故処理は、血の拭い方が雑だ。
身内にまで臭うぞ」
石原は振り返らない。
ただ、首筋の青筋が一筋、ピクリと跳ねた。
「……野砲の薬室圧力異常による、事故死であります。
それ以上でも、以下でもありません」
「そうか」
米内は乾いた鼻鳴らしを一つ漏らし、濡れた手拭いを竹籠へ放り投げた。
「……ならいい。
海軍の若造が陸軍の便所に首を突っ込んで、余計な病をもらっても困るからな」
すれ違いざま、二人の視線が真横で交差した。
米内の背筋に、冷たいものが走る。
眼前の男は、暗闇など見ていない。
海軍の軍服のさらに先、ユーラシア大陸を立体の盤面として俯瞰する、狂気じみた計算の眼。
「……失礼いたします」
闇へ消える石原の背を見送り、米内は鏡の中の己を見据えた。
湿った風とともに、あの硝子玉のように乾いた眼が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
◇
陸軍大学校、教官室。
夜気の満ちた暗がりに、樟脳と古い紙の臭いが澱んでいた。
石原は亡き村神大尉のデスクの前に立ち、引き出しの奥へ無機質に指を滑り込ませた。
「中佐殿、回収いたしますか」
背後に控える曹長が、革綴じの書類へおずおずと手を伸ばす。
「本省動員課の極秘事項だ。
海軍が事故の臭いを嗅ぎ回っている。
これ以上踏み込めば査察が入るぞ。
……お前も巻き込まれたくはあるまい」
「は……ハッ!
直ちに焼却処分いたします!」
曹長は蒼白な顔で一礼し、足音を殺して去った。
重い木枠の扉が閉まる。
静寂が落ちると同時に、石原は革綴じの背表紙の隙間から、折りたたまれた一束の紙片を抜き取った。
朱筆の殴り書き。
密密たる数式。
『水上機。
滑走路は要らん。
水面がある』
揚力、滑走距離、燃料消費比率。
陸軍の誰も理解し得なかった、異端の航空兵站の設計図。
その最終頁から、ぽろりと小振りの紙片が滑り落ちた。
孤児院への毎月の送金票。
『時子 四歳』
裏面に捺された、憲兵隊の漆黒の極秘朱印。
——『母、三・一五事件にて検挙、獄死。
並びに露国(コミンテルン)諜報網への軍事機密漏洩疑義』
石原の呼吸が、ぴたりと止まった。
下腹部に、刺すような激痛が走る。
朱印の文字を見つめたまま、石原はゆっくりと左手で下腹の軍服を鷲掴みにした。
爪が生地を突き破らんばかりに食い込む。
冷や汗が一筋、頬を伝って顎から落ちた。
米内の掠れ声。
野砲の破裂音。
漆黒の朱印。
そして、暗闇に投げ出された四歳の肉体。
石原の瞳孔が、極限まで収縮した。
万年筆を握る右手の指先が、白く変色する。
先端から、黒いインクが一滴、ボタリと送金票へ落ちた。
黒い液滴が紙の繊維を吸い上げ、じわじわと円を広げていく。
カリ、と鋭い金属音が静寂を割った。
石原は万年筆の先を紙面に叩きつけ、そのまま歪んだ円を描いた。
紙片が破れるほどの強烈な筆圧。
『時子 四歳』の文字が、そして村神の名が、黒いインクの塊の下へ完全に没していく。
紙片を黒く塗り潰し終えると、石原はペンを置いた。
痛みを忘れたかのように背筋を伸ばし、歪んだ黒い染みを見つめる。
窓の外、夜の東京に湿った風が吹き抜け、教官室の木枠をカタカタと揺らした。
石原の胸の奥で、冷たく乾いた息がひとつ、静かに吐き出された。