白鶴物語   作:石原時子

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第一章 『火種』(1928年 6月)

東京、新橋の料亭「金田中」。最奥の洗面所には、梅雨特有のねっとりとした湿気が澱んでいた。

 鎮海要港部司令官、米内光政少将は、軍衣の袖を濡らさぬよう手首まで丹念に捲り上げ、静かに指先を洗っていた。

対馬海峡の潮風と湿気が、いまだ分厚い羊毛に重く染み付いている。

 背後の杉戸が、擦れる音もなく開いた。

 滑り込んできた陸軍歩兵中佐の額には、油染みのような脂汗がびっしりと浮いている。

 その男——石原莞爾は、下腹部を締め付ける猛烈な激痛を一切表情に出さず、鏡越しの米内に向けて寸分違わぬ鋭さで敬礼を送った。

指先一つ、震えていない。

「これは米内閣下。

不調法、失礼いたしました」

 米内は湿った手拭いで指の股を丁寧に拭いながら、鏡の中に映る蒼白な石原の顔面を射抜いた。

「……その湿気は、骨まで腐らせるか」

 石原の薄い口元が、かすかに吊り上がった。

声は出さない。

微かに揺れる瞳孔と、軍服の奥で軋む浅い呼吸音だけが、肉体の限界を物語っている。

 米内は手拭いをゆっくりと畳み、低く掠れた声を落とした。

「うちの航空隊にいる村神中尉がな。

横須賀で酒を飲んでは、泣いておるよ」

 石原の足が、ピタリと止まった。

 洗面所の狭い空間に、不自然な固さが落ちる。

「『陸校で野砲の爆死を遂げた兄の死に様が、どうにも合点がいかない』とな」

 米内は鏡の中の石原の背中に、粘りつくような視線を這わせた。

「陸軍の事故処理は、血の拭い方が雑だ。

身内にまで臭うぞ」

 石原は振り返らない。

ただ、首筋の青筋が一筋、ピクリと跳ねた。

「……野砲の薬室圧力異常による、事故死であります。

それ以上でも、以下でもありません」

「そうか」

 米内は乾いた鼻鳴らしを一つ漏らし、濡れた手拭いを竹籠へ放り投げた。

「……ならいい。

海軍の若造が陸軍の便所に首を突っ込んで、余計な病をもらっても困るからな」

 すれ違いざま、二人の視線が真横で交差した。

 米内の背筋に、冷たいものが走る。

 眼前の男は、暗闇など見ていない。

海軍の軍服のさらに先、ユーラシア大陸を立体の盤面として俯瞰する、狂気じみた計算の眼。

「……失礼いたします」

 闇へ消える石原の背を見送り、米内は鏡の中の己を見据えた。

湿った風とともに、あの硝子玉のように乾いた眼が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

 ◇

 

 陸軍大学校、教官室。

 夜気の満ちた暗がりに、樟脳と古い紙の臭いが澱んでいた。

 石原は亡き村神大尉のデスクの前に立ち、引き出しの奥へ無機質に指を滑り込ませた。

「中佐殿、回収いたしますか」

 背後に控える曹長が、革綴じの書類へおずおずと手を伸ばす。

「本省動員課の極秘事項だ。

海軍が事故の臭いを嗅ぎ回っている。

これ以上踏み込めば査察が入るぞ。

……お前も巻き込まれたくはあるまい」

「は……ハッ!

直ちに焼却処分いたします!」

 曹長は蒼白な顔で一礼し、足音を殺して去った。

 重い木枠の扉が閉まる。

 静寂が落ちると同時に、石原は革綴じの背表紙の隙間から、折りたたまれた一束の紙片を抜き取った。

 朱筆の殴り書き。

密密たる数式。

『水上機。

滑走路は要らん。

水面がある』

 揚力、滑走距離、燃料消費比率。

陸軍の誰も理解し得なかった、異端の航空兵站の設計図。

 その最終頁から、ぽろりと小振りの紙片が滑り落ちた。

 孤児院への毎月の送金票。

『時子 四歳』

 裏面に捺された、憲兵隊の漆黒の極秘朱印。

——『母、三・一五事件にて検挙、獄死。

並びに露国(コミンテルン)諜報網への軍事機密漏洩疑義』

 石原の呼吸が、ぴたりと止まった。

 下腹部に、刺すような激痛が走る。

 朱印の文字を見つめたまま、石原はゆっくりと左手で下腹の軍服を鷲掴みにした。

爪が生地を突き破らんばかりに食い込む。

 冷や汗が一筋、頬を伝って顎から落ちた。

 米内の掠れ声。

 野砲の破裂音。

漆黒の朱印。

 そして、暗闇に投げ出された四歳の肉体。

 石原の瞳孔が、極限まで収縮した。

 万年筆を握る右手の指先が、白く変色する。

先端から、黒いインクが一滴、ボタリと送金票へ落ちた。

 黒い液滴が紙の繊維を吸い上げ、じわじわと円を広げていく。

 カリ、と鋭い金属音が静寂を割った。

 石原は万年筆の先を紙面に叩きつけ、そのまま歪んだ円を描いた。

紙片が破れるほどの強烈な筆圧。

『時子 四歳』の文字が、そして村神の名が、黒いインクの塊の下へ完全に没していく。

 紙片を黒く塗り潰し終えると、石原はペンを置いた。

 痛みを忘れたかのように背筋を伸ばし、歪んだ黒い染みを見つめる。

 窓の外、夜の東京に湿った風が吹き抜け、教官室の木枠をカタカタと揺らした。

 石原の胸の奥で、冷たく乾いた息がひとつ、静かに吐き出された。

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