雨だった。
六月の雨は細かく、重く、「白梅館」の屋根を休みなく叩いていた。
時子は廊下に座り、ひざを抱えてその音を聞いていた。
奥の書斎からは、静かに紙をめくる音。
満州の惨劇をすべて「事金」として処理し終えたこの家は、ひどく静かだった。
溢れた兵隊は大阪の阪急技術専門学校へと流れ、軍服を脱いで技術者の服に着替えつつある。
静かすぎて、自分の息の音だけが浮いていた。
コンコン、と玄関の格子戸が鳴った。
冷たい風とともに、濡れた外套と、ゴムと硫黄の混ざった強い臭いが滑り込んでくる。
「お邪魔しとります」
太い声だった。
帽子を脱いだ男の指先は、爪の間に筑波の黒い赤土がびっしりと詰まっていた。
空を睨みすぎて落ち窪んだ眼窩の奥で、異様な光が濡れている。
男は時子を見つけると、ギィと床を鳴らして膝を折った。
湿ったウールから、雨の匂いが立つ。
「君が、時子さんね。
……わしは大石和三郎。
長か名まえやけん、“わさじい”でよか」
風のように抜ける、柔らかい佐賀弁だった。
時子は少し迷って、下唇を尖らせた。
「……わさ、じぃ?」
「うん、よか」
大石は無骨な手で内ポケットを探り、緑色のフェルト生地のきれ端を取り出した。
観測気球の光度計に使う、深い緑の星型レンズ拭きだ。
「ほれ」
「これ、なに」
「星たい。
……落としたら、風に拐われるばい」
時子は両手でそれを受け取った。ゴムと酸気の混ざった、じわりと温かい匂いがした。
障子が開く。
第四師団参謀、石原莞爾が立っていた。
「……大石先生」
「相変わらず、尖った顔しとりますな」
「子守ですか」
「似合わんですか?」
「ええ」
即答する石原に、大石はガハハと喉を鳴らして笑った。
だが、その目は一切笑っていない。
「そがん尖っとると、足元の泥しか見えなくなりますばい」
雨が上がったのは、夕刻が近くなってからだった。
泥除けのスパッツを外しながら、小林一三が客間へ現れた。
小林は大広間の畳の上へ、「日本海」と「黄海」が描かれた白地図を豪快に広げた。
「大石先生、筑波の山から呼び出して堪忍です。
ですが大連へ飛ばす『白鶴』を無事故で回すには、先生の気象データがどうしても要るんですわ」
小林の太い指先が、天保山と大連を結ぶ赤い線をバンと叩いた。
「遊覧機やない。
本番の定期航路や。
一機でも海に落ちたら、阪急の信用はゼロになる」
「濃霧と低気圧のデータです」
石原が冷徹な眼を地図に落としたまま引き継ぐ。
「視界ゼロの海上で嵐を迂回し、住友の電波標識へ誘導する。
先生の弾き出す気圧配置図がなければ、白鶴は飛べない」
大石は二人の顔を交互に見つめ、鼻でフンと笑った。
爪の間の赤土をガリガリと削り落とす。
「小林さん、石原さん。
あんたらが威張って語る『空』は、たかだか数百メートルの泥風たい。
商人の金儲けや、兵隊の理屈で測れるほど、大気は安かない」
「落ちない空の道を敷かねば、兵站になりません」
石原の澄んだ瞳が、静かに光る。
大石は黙って石原を見つめ返した。
大石の手が、胸のポケットへ伸びた。
そこには、筑波の高度一万メートルへ上げたゴム気球が弾き出した、恐ろしい数字が眠っている。時速二百キロを超える、猛烈な西風の帯――「ジェット気流」。
大石はポケットの手帳を、さらに深く、奥底へねじ込んだ。
(この怪物どもに、この風を教えてなるものか……)
大石は分厚い口唇を歪め、冷たい笑いを浮かべた。
「……まあよか。
墜ちる命ば救うためなら、わしの風の地図、その浅い回廊とやらに貸してやってもよか」
大石は懐からもう一枚の緑のフェルトを放り投げ、地図の上へ落とした。
夜。
雨の上がった庭の縁側に、大石がどっかりと腰を下ろした。
洗われた夜空に、数え切れない光の粒がまたたいている。
「いっぱい……」
隣に座っていた時子が、見上げたまま呟いた。
「お空には道があるったい」
大石の大きな指が、湿った夜空の闇を静かとなぞった。
爪の赤土が、星明かりに黒く浮かぶ。
「あの星たちのずっと下、上空一万メートルのてっぺんをな、川みたいにものすごか速さで流れる風の帯がある。
わしが誰にも言わんでずっと追いかけとる、とっておきの道たい」
「とっておき?」
「そうたい。
今の『はくつる』はな、低いお空を這うように飛ぶ。
ばってん、いつか人間が風の入らん部屋を作って、あのてっぺんまで登れるようになったら……
あの風の川に乗って、アジアも、西洋も、ひとっ飛びたい」
「どこでも、いけるん?」
「行ける。……必ずな」
大石の落ち窪んだ目が、筑波の漆黒の空を思い描くように静かに輝いた。
時子はしばらく、線も壁もない、どこまでも透明な黒い空を見つめていた。
両手の中の緑のフェルトを、ぎゅっと握りしめる。
「……すっご」
時子の手の中で、観測気球の古いゴムの匂いが、じっとりと温かかった。