六月の朝の光は硬く、障子を透かすと輪郭を曖昧にする。
「今日は静かにしておくのよ」
テイ子が時子の短い髪を梳きながら、低い声で言った。
「お父様のお仕事とは違う、難しいお話の集まりですからね。
無理を言わないように」
「……ん」
時子は小さく頷いた。
手の中には、昨夜大石和三郎から貰った緑の布切れがある。
観測気球のレンズ拭きから切り出された、小さな五角の星だ。
石原莞爾の軍帽にある金色の星とは違う。
けれど、角の数は同じだった。
時子はそれを親指の腹でじっと擦りながら、テイ子の膝の間でおとなしくしていた。
阪急電車は、梅雨特有のねっとりとした湿気を孕んで走る。
大石の大きな手に引かれ、大阪市内の小さな講堂の門をくぐったのは、正午を過ぎた頃だった。
堂内は床油の匂いと、濡れた服の埃っぽさが混ざり合い、重く淀んでいる。
出入口の暗がりでは、黒い蝙蝠傘を抱えた私服憲兵が二人、客の顔をじっと検分していた。
壇上では、白い麻服の男が、滑らかな無機質さで奇妙な音節を響かせていた。
「……ミ・アマス・ライ・パトローノン……」
聞いたこともない音だった。
だが、時子は不思議な心地よさでそれを見ていた。
男がひとつの節を終えると、客席の大人たちが一斉に、寸分の狂いもなく同じタイミングで頷き、笑う。
(……おんなじや)
知らない大人たちが、みんな同じ音を口にし、同じところで顔を綻ばせる。
壁には、手の中にあるのと同じ緑の星の旗が下がっていた。
「……へんやった」
帰り道、大石の袂を引っ張りながら時子が言った。
梅雨の晴れ間の西日が、路面電車の濡れた線路にぎらぎらと反射している。
「へん?
どがん思うた?」
「しらん人らやのに、みんなおんなじお顔して、わらう。
……きちんとしてた」
大石は麦わら帽子を少し上げて、苦笑した。
「あれはな、世界中の人間が同じ言葉ば話せるようにって、偉い先生が作った言葉たい。
言葉が一つになれば、喧嘩も戦争もなくなる。
みんなが仲間になれるってな」
時子はよく分からず、「ふうん」とだけ言って、道端の瀬戸物屋の犬を眺めた。
戦争と言われてもピンとこない。
ただ、あの講堂の中の、全員が隙間なく「揃って」いる空気の感触だけが、皮膚に残っていた。
湿気で肌がじっとりと濡れる。
大石は時子の小さな手を引き、路地裏の薄暗い甘味処の暖簾をくぐった。
店内はひんやりと冷え、削り氷のシャリシャリという音が響いている。
「トコロテン、食うか?」
その瞬間、時子の黒い瞳がカッと見開かれた。
真っ赤なホッペを膨らませ、椅子の上で身を乗り出す。
「ちゅるちゅる!
くろみつ!
たべる!」
主人が硝子の器を並べ、白く冷えた寒天の塊を取り出した。
真鍮の網目がついた木枠――「天突き」へはめ込む。
ぐっと、主人の太い腕が棒を押し込んだ。
――ちゅるり。
涼しい音を立て、頑固な四角い塊が一瞬で寸分たがわぬ細い線になり、器へと滑り落ちる。
時子は息を呑み、天突きの真鍮刃を食い入るように見つめた。
とろりとした濃い黒蜜が、透明な線の上にたっぷりと回しかけられる。
甘く香ばしい匂いが鼻腔を刺した。
時子は竹箸を握りしめ、透明な線を引っかけると、一気に口へ滑り込ませた。
ちゅるっ、ちゅるるっ!
冷たさと濃厚な甘みが喉を駆け下りる。
無心で箸を動かすたび、口のまわりが黒く汚れ、頬に蜜が跳ねた。狂ったように器の底を突く。
「お転婆さん、口のまわりが泥棒みたいになっとるばい」
大石が手拭いで口元を拭こうとすると、時子は「いたぁい」と下唇を尖らせて嫌がりながら、それでも天突きの真鍮刃を盥(たらい)の水で洗う店主の手元から目を離さなかった。
真鍮の網目が、水底で鈍く冷たく光っている。
「わさじい」
時子は黒蜜で真っ黒になった唇のまま、ぽつりと言った。
「あの箱、すごいな」
「箱? 天突きのことか」
「ん。
……どんなトコロテンも、あの箱に入れたら、みんなおんなじ形になる。
……お揃いになるな」
時子は手拭いをすり抜け、黒蜜で濡れた竹箸を天突きに向けた。
「さっきの、緑の星の人たちも、あの箱に入ったみたいやった。
……みんな、あの箱に入れたらええのに」
大石の手が、ピタリと止まった。
「お揃いになったら、崩れへん。
……バラバラにならへん」
時子は肩を小さく揺らし、残ったトコロテンをちゅるりとすすった。
大石は答えなかった。
店主が盥の中で天突きを洗う、ジャバッという水の音だけが重く響く。
真鍮の格子刃が、黒い水底で鈍く光っていた。
大石の指先が、膝の上でかすかに震えた。
「……お揃い、か」
時子はもう聞いていなかった。
竹箸を器の底へ突っ込む。 黒蜜の中から、透明なトコロテンが一本、するりと持ち上がった。
「ちゅるっ」
時子は嬉しそうに、それをすすった。