鳴尾の格納庫は、焼き付いた重油と苛性ソーダに洗われたジュラルミンの匂いに満ちていた。
天井の隙間から差し込む六月の湿った光のなか、鈍い白亜の巨躯が、打ち揚げられた巨大な鯨のように沈黙している。
「……また活塞(かっさい)が溶け落ちました」
油と煤で眼のふちまで黒く染めた技師頭の堀部が、真っ赤に錆びた連桿(れんかん)の破片をバケツの中に叩きつけた。
カラン、と乾いた重い音が響く。
「住友の特殊鋼でも後列シリンダーの熱が抜けまへん。
名古屋が持ち込んできたこの複列十四気筒、地上試験台で八百馬力を狙って過給圧を上げた瞬間に爆震を起こして筒頭(あたま)が吹き飛びました。
常用で六百、水メタノールを噴射して三分間だけ七百二十馬力……
これが今の物理の限界です」
「三分あれば十分や」
小林一三は振り返りもしない。ステッキの先でそっとハルから立ち上がる一枚の巨大な垂直尾翼を撫でた。
冷ややかなジュラルミンの感触が、掌にじわりと伝わる。
川西の技術陣が提出した双尾翼の図面を、その場で引き裂いて書かせた美しい一本の直線。
「小林さん!」
堀部が湿った計算尺を握りしめ、一枚尾翼の根元――外皮の頼りない継ぎ目を激しく突いた。
「三分間の過給で七百馬力を叩き出したら、風圧とねじれは四トンを超えます。
双尾翼にして力を左右に逃がさな、ハル後部の薄い革やったら耐えられまへんで!」
「耳を二本にして空気を引きずれば、抗力が十二%跳ね上がる」
小林はステッキを静かに下ろした。
「その十二%で、大連便の腹から一・五トンが消える。
往路の金塊も、復路のアヘンも大豆油も一樽たりとも降ろせへん。奉天の三十万に食わせる阪急の札束が紙屑になるんやぞ。
一グラムかて削れるか」
「ですが構造強度が――」
「金で時間を買っているのだ」
傍らで腕を組む石原莞爾が割り込んだ。
その瞳は機体の造形など見ていない。
ハルの内側に張り巡らされた被覆コードの束だけを見つめている。
「東が九二式でおままごとをしている間に、西日本の空路を握る。
強度が足りぬなら、操縦桿が折れるまで叩き伏せればいい」
――その「放漫」のツケは、一週間後に届いた。
梅雨晴れの大阪湾上空。
「白鶴」の腹底から、水メタノール噴射の狂暴な重低音が轟いた。
時速二百八十キロメートルを突破した瞬間。
肋材(フレーム)が一斉に悲鳴を上げた。
操縦桿が狂暴なキックバックを起こし、操縦士の右腕をへし折る。ハルの薄いジュラルミン外皮が、巨大な掌に揉み潰される紙のように波打った。
尾翼が、ありえない角度へ撓(たわ)んだ。
「舵が――」
操縦士の悲鳴を塗りつぶすように、海面からぬっと真っ白な海霧(ガス)が立ち昇った。
海水温と気圧の隙間が生み出す大阪湾の罠。
高度計の針が狂ったように踊り、視界が消えた。
機体そのものが、巨大な獣のように身を捩る。
「舵が死んだ! 尻が――」
次の瞬間――白鶴は傾いたまま、ガラスのように硬化した海面へ激突した。
叩き折れたハル後部が悲鳴を上げ、飛沫と重油の煙のなかで、「くの字」に折れ曲がった銀色の翼が冷たい海の底へ吸い込まれていった。
数日後。
川西航空機。
鳴尾格納庫。
テーブルの中央には、海から引き揚げられた、惨めにねじ曲がったジュラルミンの破片が転がっていた。
新聞社へ積んだ札束で事故は「不慮の単独訓練」と処理され、遺族には阪急の手当が支払われた。
警察も動かない。
だが部屋には、血と重油と海水が混じり合った匂いが充満していた。
小林は椅子に深く沈み込み、固く結んだ拳を膝の上で震わせていた。
「……うちの計算違いや。
一・五トンの欲目に目が眩み、人を殺してもうた……」
「小林さん」
石原がゆっくりと立ち上がった。
ねじ曲がった残骸へ歩み寄り、冷えた金属の肌に指先を触れる。
残骸の端から、一滴の海水が床へ落ちた。
タプン、と静寂を穿つ音。
「死人の数を数えて、この翼を沈めるつもりですか」
石原は残骸から手を離した。
しばらく何も言わなかった。
「……耳を、二本に戻す」
「石原さん!」
堀部が青ざめた顔で身を乗り出した。息が荒い。
「ハルのケツにそんな重いトラスを組んで双尾翼にしたら、重心が後ろに下がりすぎて離陸した瞬間に尻もちついて落ちてまいます!」
誰も答えなかった。
計算尺の滑る音だけがした。
堀部が紙に数字を書き、消し、また書いた。
「……無理ですわ」
パチン。
堀部の弱音を切り裂くように、硬い音が響いた。
堀部の傍らに立つ二十代半ばの細身の青年――川西からこの『白鶴一型』の全図面を託された若き主任設計者、菊原静男が黒檀の計算尺を卓上に叩きつけたのだ。
「現場の勘だけで『無理』と断じるのはやめてください」
菊原は脂汗の滲む額を拭いもせず、鋭い眼光で図面を指し直した。
「重心を前に寄せる解(こたえ)はあります。
艇首を前へ突き出させるんです。先ぐちを伸ばしてエンジンの重みを前へ引き出す」
「艇首を伸ばせ、か」
石原は不敵に唇の端を上げた。
「艇首の浸水区画を補強金庫室に改装し、往路は金塊、復路はドラム缶のアヘンと大豆油を叩き込め。
重心の移動はすべて、金と油の重さで釣合いを取らせる」
「バカな!」
堀部が机を叩いて身を乗り出す。
「菊原、机上の計算だけで物言うな!
艇首を前に出したら、滑走時に巻き上がる飛沫(ひまつ)が直撃して推進器が叩き折れるぞ!」
「飛沫を殺せば済む話です」
菊原の言葉には冷徹な理性が宿っていた。
計算尺を握りしめる細い指の関節が白く浮き上がる。
「型を焼き直し、艇底の波切り板を斜めに外へ逃がす。
水流の打撃を外側へ捌ききれば、推進器に飛沫は届かない」
「それとも川西の叩き出し職人は、飛沫の角度一つ殺せんのか」
石原が揺るぎない視線で二人を見据えた。
油臭い室内に息の詰まる沈黙が降りた。
堀部は悔しそうに歯を食いしばり、菊原は卓上の原図にコンパスの針を力まかせに突き立てた。
コンパスの先から、ポタリと汗が一滴、図面の上に落ちて黒く滲む。
「……三度だ」
菊原が掠れた声で吐き捨てるように言った。
「波切り板の返しを、外側に三度開く。
型を焼き直して外へ三度逃がせば、推進器の円弧を完全に殺せます」
「できるではないか」
石原は名簿の束を取り出し、重々しい音を立ててテーブルへ置いた。
「だが、あの海霧を克服しなければまた海面に突っ込む。
目と耳をつける。
天保山の送信塔から指向性無線を撃ち込み、音のズレで針路を叩き込め。
高度計が狂うなら、気圧の補正値を10分ごとに打電させれば済む」
「高度計の誤差は数メートル残ります!」
菊原が即座に噛みついた。
「霧の中、数メートルの狂いは海面への激突を意味します」
「なら、手で触れさせろ」
石原は眉ひとつ動かさない。
「艇底から重り付きの鋼索を垂らせ。
水面を叩いた瞬間、操縦席の電球を点せばいい」
名簿の表紙には、手書きの墨で軍歴が記されていた。
「ロンドン条約で首を切られ、行き場を失った海軍の予備役、退役の整備下士官どもだ。
全員、阪急電鉄の『保線・電気部門社員』として高給で拾い上げる。
軍服を脱がされた連中に、天保山の塔を建てさせ、工場で死ぬまでジュラルミンの骨組を叩かせろ」
小林はゆっくりと顔を上げた。濁っていた瞳の奥に、かつて阪急を打ち立てた男の、冷徹な商人の目が戻ってくる。
小林は無言のまま立ち上がり、デスクの上の札束の山を、ドスンと力任せに叩いた。
「……三井の航空信託から資金を全額吐き出させる。
増える補強コストも、潰れたボルト一本分まであそこに背負わせる。
ここはうちらの庭や。
他所の水になぞさせへん」
小林は壁の黒電話の受話器を引っこ抜くように掴み上げ、交換手に怒号をぶつけた。
「三井の池田成彬(いけだしげあき)を呼び出せ!
寝てたら起こせ!」
ガチャンと受話器を叩きつけると、小林は卓上の図面を掴み取り、菊原の胸に叩きつけた。
「ぐずぐずすな、階下(した)へ降りて二十四時間回せ!」
菊原が図面をひったくり、堀部とともに部屋を飛び出していく。荒々しい靴音が階段を駆け下りていくのを見届け、小林は格納庫を見下ろすガラス窓を力まかせに押し開いた。
湿った夜気とともに、階下から蒸気と重油の匂いが一気に雪崩込んでくる。
二人が階下の暗がりへ飛び込んだ瞬間、まだ止まっていたはずの旋盤が一台、硬い音を立てて噛み合った。
ギィィィン。
濡れたジュラルミンの破片が転がる暗がりで、その金属音だけが鋭く冴え渡っていた。