白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二十四章『発音』(1934年 6月)

昼前の光が斜めに射す、池田尋常小学校の教室。

 

 時子は前の席の男の子から、逃げ場のない視線を投げつけられていた。

 

「なあ石原。

 

“とーちゃ”って、変やろ」

 

 隣の男の子も、教科書の陰でくすくす笑った。

 

 新興住宅地のペンキの匂いと、肥やしの臭いが混ざり合う池田の街で、時子の口から落ちる「とーちゃ」の音だけが、粘土のように重く浮いていた。

 

「変とちゃう」

 

 時子は顔を上げ、下唇を突き出した。

 

「……ちょっと、ちがうだけ」

 

「ちがうのが変なんやろ」

 

「変ちゃう!」

 

 言い返す声は小さいが、黒目がちな目は絶対に逸らさない。

 

時子は、少し考えてからぶっきらぼうに言った。

 

「……ほな、見に来たらええべ」

 

「何を」

 

「とーちゃ」

 

 午後。

 

石原家の邸宅「白梅館」。

 

 二人の男の子は、板張りの広い玄関で靴を揃え、かたかたと膝を震わせていた。

 

 周りの月給取りの家とは違う。機械油の刺すような匂いと、古い革の手帖の匂いが、暗い廊下に満ちている。

 

「座って」

 

 縁側のちゃぶ台。

 

時子が置いたガラス皿には、四角い軍用ビスケットが載っていた。

 

 一人がおそるおそる手を伸ばし、かじる。

 

甘い乾いた匂いが口の中に広がった。

 

「……ぅんまい」

 

 時子はフンと鼻を鳴らし、少しだけ胸を張った。

 

 その時だ。

 

 廊下の奥から、重い長靴(ハーフブーツ)が固い板張りを沈ませる、

 

ギィ……

 

ギィ……

 

という音が近づいてきた。

 

 ガラリ、と障子が開く。

 

 軍服姿の石原莞爾だった。

 

 鋭い双眸が、氷のように一瞬だけ子供たちを射抜く。

 

背後には、黒革の鞄を固く握りしめた下士官二人が、息を殺して立っていた。

 

 石原は何も言わず、一瞥しただけで奥の応接室へと消えた。

 

障子が閉まる。

 

 ちゃぶ台の上の甘い匂いが、一瞬で吹き飛んだ。

 

男の子の手がぴたりと止まる。

 

『……三宅坂の返電は』

 

『官邸が動きます。

 

……小林の資金線が切れれば』

 

『切らせん。……叩き潰す』

 

 重く濁った大人の声と、固い紙が折れ曲がる音。

 

単語の意味など分からない。

 

だが、触れれば指が切れるような冷酷な暗闇の気配が、隙間風に乗って皮膚を刺した。

 

 一人がそっと、手の中のビスケットを皿に戻した。

 

「なあ」

 

 時子が首をかしげた。

 

「とーちゃ、変やった?」

 

 二人は答えられなかった。

 

喉がカラカラに乾いて、声が出ない。

 

さっき教室で言っていた「変」などという言葉は、この屋敷のどこにも存在しなかった。

 

「……変、ちゃう」

 

 ひきつった声が漏れた。

 

それ以上、誰も口を開かなかった。

 

 夕方。

 

書斎。

 

 長春の鉄道路線図の上に、黒蜜の匂いがふっと立ちのぼった。

 

「とーちゃ。トコロテン」

 

 ガラス鉢を置いた時子に、石原は眼鏡の奥の目を動かした。

 

「……昼におった子供らは誰だん? 友達か」

 

「学級の子ぉら」

 

 時子は盆を抱え込むと、再び下唇を突き出した。

 

「とーちゃが変だいうから、連れてきたんだの」

 

「……変、だど?

 

呼び方の発音が変であって、わしの顔のことではねぇべ」

 

「えっ」

 

 時子は丸い眼を見開いた。

 

「そうやったん……。

 

とーちゃの顔がこわいから、変って言われたんかと思ってた」

 

「失礼だの。

 

わしは至って端正な顔立ちだぞ」

 

 大真面目な顔で庄内弁を返す石原に、時子は「なんや、損した」とばかりにぷいと横を向いた。

 

スプーンの先でトコロテンをつつく。

 

カチ、と器の底が小さく鳴った。

 

 翌日。

 

教室。

 

 前の席の男の子が、昨日とはまるで違う居心地悪そうな顔で、おそるおそる時子を振り返った。

 

「……なあ。

 

やっぱり、変ちゃうな」

 

 もう一人も、何度も小さく頷く。

 

「うん、ちゃう。

 

……凄かった」

 

 時子は何も言わず、ただ鉛筆を走らせていた。

 

 やがて鉛筆を止め、二人の男の子をまっすぐ見据えると、口元をキュッと結んで言った。

 

「……わたしの、とうちゃん、なぁ――」

 

 夕闇の迫る白梅館の書斎。

 

 石原は小型ナイフを取り出し、赤鉛筆の芯を静かに削っていた。サク、サクと木片が落ち、削りたての赤鉛筆の匂いが鼻をつく。

 

 庭の向こう、遠い校庭の方角から、跳ねるような子供の声が風に乗って聞こえていた。

 

『――とうちゃんはなー!』

 

 石原の手が、ピタリと止まった。

 

 懐紙でレンズを静かに擦る。

 

指先に残る黒蜜の甘い匂いと、赤鉛筆の乾いた匂い。

 

石原は一度だけ、深く鼻から息を吐いた。

 

 ナイフの刃先を静かに動かし、長春の赤い線の先――奉天の暗闇へと視線を戻した。

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