昼前の光が斜めに射す、池田尋常小学校の教室。
時子は前の席の男の子から、逃げ場のない視線を投げつけられていた。
「なあ石原。
“とーちゃ”って、変やろ」
隣の男の子も、教科書の陰でくすくす笑った。
新興住宅地のペンキの匂いと、肥やしの臭いが混ざり合う池田の街で、時子の口から落ちる「とーちゃ」の音だけが、粘土のように重く浮いていた。
「変とちゃう」
時子は顔を上げ、下唇を突き出した。
「……ちょっと、ちがうだけ」
「ちがうのが変なんやろ」
「変ちゃう!」
言い返す声は小さいが、黒目がちな目は絶対に逸らさない。
時子は、少し考えてからぶっきらぼうに言った。
「……ほな、見に来たらええべ」
「何を」
「とーちゃ」
午後。
石原家の邸宅「白梅館」。
二人の男の子は、板張りの広い玄関で靴を揃え、かたかたと膝を震わせていた。
周りの月給取りの家とは違う。機械油の刺すような匂いと、古い革の手帖の匂いが、暗い廊下に満ちている。
「座って」
縁側のちゃぶ台。
時子が置いたガラス皿には、四角い軍用ビスケットが載っていた。
一人がおそるおそる手を伸ばし、かじる。
甘い乾いた匂いが口の中に広がった。
「……ぅんまい」
時子はフンと鼻を鳴らし、少しだけ胸を張った。
その時だ。
廊下の奥から、重い長靴(ハーフブーツ)が固い板張りを沈ませる、
ギィ……
ギィ……
という音が近づいてきた。
ガラリ、と障子が開く。
軍服姿の石原莞爾だった。
鋭い双眸が、氷のように一瞬だけ子供たちを射抜く。
背後には、黒革の鞄を固く握りしめた下士官二人が、息を殺して立っていた。
石原は何も言わず、一瞥しただけで奥の応接室へと消えた。
障子が閉まる。
ちゃぶ台の上の甘い匂いが、一瞬で吹き飛んだ。
男の子の手がぴたりと止まる。
『……三宅坂の返電は』
『官邸が動きます。
……小林の資金線が切れれば』
『切らせん。……叩き潰す』
重く濁った大人の声と、固い紙が折れ曲がる音。
単語の意味など分からない。
だが、触れれば指が切れるような冷酷な暗闇の気配が、隙間風に乗って皮膚を刺した。
一人がそっと、手の中のビスケットを皿に戻した。
「なあ」
時子が首をかしげた。
「とーちゃ、変やった?」
二人は答えられなかった。
喉がカラカラに乾いて、声が出ない。
さっき教室で言っていた「変」などという言葉は、この屋敷のどこにも存在しなかった。
「……変、ちゃう」
ひきつった声が漏れた。
それ以上、誰も口を開かなかった。
夕方。
書斎。
長春の鉄道路線図の上に、黒蜜の匂いがふっと立ちのぼった。
「とーちゃ。トコロテン」
ガラス鉢を置いた時子に、石原は眼鏡の奥の目を動かした。
「……昼におった子供らは誰だん? 友達か」
「学級の子ぉら」
時子は盆を抱え込むと、再び下唇を突き出した。
「とーちゃが変だいうから、連れてきたんだの」
「……変、だど?
呼び方の発音が変であって、わしの顔のことではねぇべ」
「えっ」
時子は丸い眼を見開いた。
「そうやったん……。
とーちゃの顔がこわいから、変って言われたんかと思ってた」
「失礼だの。
わしは至って端正な顔立ちだぞ」
大真面目な顔で庄内弁を返す石原に、時子は「なんや、損した」とばかりにぷいと横を向いた。
スプーンの先でトコロテンをつつく。
カチ、と器の底が小さく鳴った。
翌日。
教室。
前の席の男の子が、昨日とはまるで違う居心地悪そうな顔で、おそるおそる時子を振り返った。
「……なあ。
やっぱり、変ちゃうな」
もう一人も、何度も小さく頷く。
「うん、ちゃう。
……凄かった」
時子は何も言わず、ただ鉛筆を走らせていた。
やがて鉛筆を止め、二人の男の子をまっすぐ見据えると、口元をキュッと結んで言った。
「……わたしの、とうちゃん、なぁ――」
夕闇の迫る白梅館の書斎。
石原は小型ナイフを取り出し、赤鉛筆の芯を静かに削っていた。サク、サクと木片が落ち、削りたての赤鉛筆の匂いが鼻をつく。
庭の向こう、遠い校庭の方角から、跳ねるような子供の声が風に乗って聞こえていた。
『――とうちゃんはなー!』
石原の手が、ピタリと止まった。
懐紙でレンズを静かに擦る。
指先に残る黒蜜の甘い匂いと、赤鉛筆の乾いた匂い。
石原は一度だけ、深く鼻から息を吐いた。
ナイフの刃先を静かに動かし、長春の赤い線の先――奉天の暗闇へと視線を戻した。