池田町に秋の風が吹く頃、尋常小学校の放課後は子供たちの甲高い声で満たされていた。
五年生の教室で、時子はいつもより早く筆箱の鉛筆を揃えていた。
真っ赤な頬を少し膨らませ、手元が跳ねるように軽い。
「時ちゃん、どないしたん?
ご機嫌やん」
「うん。
きょう、とおちゃんと劇観に行くねん」
十一歳の顔が、誇らしげに紅く染まる。
友達が「宝塚?」と目を丸くさせたが、時子は小さく首を振った。
「ううん、ぐんかん、いうてはった」
天保山の岸壁。
そこに、それは聳え立っていた。
帝国海軍超弩級戦艦「扶桑」――解体作業の遅延という書類上の偽装を楯に着底固定され、新首都の迎賓館へと変貌を遂げた『阪急軍艦ホテル扶桑』である。
三十六センチ主砲を引き抜かれた甲板の跡地には、ガラス張りのサロンが突っ立っていた。
幾千の電球を纏った高い艦橋(パゴダマスト)が、白い怪獣のように夕闇へそびえ立つ。
足元の海面には、就航を待つ『白鶴一型』が静かに羽を休めていた。
「あー、おっちゃーーん!」
車から飛び出した時子は、専用桟橋に立つ和装の男――小林一三の丸いお腹へ飛び込んだ。
「おゥ!
時ちゃん、よう来たなぁ」
小林は屈み、小さな体をしっかりと受け止めた。
着物から匂う上質な白檀の香りと、大人の柔らかな温もり。
頭を撫でる手のひらの肉が、恐ろしいほど柔らかい。
「時ちゃんはもう、うちの客やない。
身内や」
拒絶を一切許さない、絶対の温度があった。
一歩遅れて、軍靴の音を響かせて歩み寄る男がいた。
第四師団参謀、石原莞爾大佐。
「水に降りる都市は、無駄がない」
「無駄がないと、人はおもろない。
せやけど無駄が多いと、銭は回らん」
小林は前を見つめたまま、柔らかく笑った。
厚いペルシャ絨毯が敷き詰められたロビー。
案内する小僧が、一瞬だけ荷札を床に落とした。
だが次の瞬間、別の係員が何も言わずにすれ違いざま拾い上げ、客の動線は一瞬たりとも淀まない。
「……おっちゃん、誰も、怒らへんの?」
「怒鳴るんは三流や。
流れ止めた時点で負けやからな」
小林はホテルのショップから、硝子細工や滑らかなインポートの縮緬、海外製のぬいぐるみを次々と時子に抱え込ませた。
「欲しくなるように“してる”んや」
小林は時子の頭を優しく撫でた。
「綺麗な川を作ってやるんや。
みんな、そこを気持ちよう流れていくだけやな」
夜。
かつて三十六センチ巨砲が鎮座していた重装甲の円筒(バーベット)をハメ殺したホール。
分厚い装甲板の隙間から、潮風と冷やした重油の匂いがうっすらと落ちてくる。
巨大円筒が吐き出すのは、貴志康一作曲・指揮・独奏、オラトリオ『天保山祝典』の狂暴なまでの音圧だ。
底深く隠されたオケピットから、一線のか細くも澄んだヴァイオリンが、銀の糸のように響きを切り裂いていく。
――バシッ。
オケピットの奥で、弓が弦を叩き割るような鈍い雑音が弾けた。ほんのコンマ何秒、旋律の重なりが滑落する。
ピットの暗がりで何かが倒れ、服が擦れ、息を詰まらせた気配。
特等席の時子の背筋を、冷たい針が抜けた。
ぬいぐるみを抱く小さな指が、微かに跳ねる。
だが、宝塚歌劇団の歌声は途切れない。
舞台の底からせり上がる白銀の乙女たちは、一滴の汗すら乱さずに天上歌(オラトリオ)を揃えて打ち鳴らし続けている。
次の瞬間には、ヴァイオリンの音色は何事もなかったかのように冷酷な正確さを取り戻していた。貴志の描いた甘い歪みが消え、フレイの硬質で狂いのない弓筋へ――コンマ一秒で入れ替わっている。
時子は、足元の暗がりをじっと見つめた。
暗闇の底で、黒衣の影が何か重いものを滑らせるように引きずり去っていくのが見えた。
「……おっちゃん。
いま、下で誰か倒れた」
隣の小林一三は、ソーダ水のグラスを微かに傾けただけだった。カラン、と氷が鳴り、弾けた炭酸の甘い匂いが時子の鼻腔をかすめる。
「大丈夫や。曲、流れてるやろ」
「……でも、一瞬、音が代わった」
「誰が振ろうが、誰が弾こうが、この祝典は止まらんのや」
小林は舞台の光から一切目を逸らさず、唇の端だけで薄く笑った。
「人一人が潰れたくらいで止まるようなヤラセは、阪急では演らん」
その横顔に落とされた照明の影が、一瞬だけ鉄の装甲と同じ色に見えた。
時子は息を呑み、再び揃って踊り出した少女たちへ目を戻す。
主砲の代わりに据えられた舞台の底から、二番手の乙女たちが、完璧な呼吸でせり上がってきていた。
光が揃う。
足が揃う。
呼吸が揃う。
「……軍隊の行進より綺麗だ」
背後で腕を組む石原が、冷徹に呟く。
小林が暗がりで短く笑った。
「兵隊は恐怖で揃う。
あの人らは、自分から揃いに行ってるんや」
食後。
真鍮製のエレベーターが二人と一人を十三階へ運んだ。
空中を貫くガラス張りの回廊『スカイパーラー』。
足元で、伸縮継手がかすかにシャリ、と音を立ててスライドする。
「……おっちゃん、ここ、揺れてる?」
「突っ張ったら折れる。
風も、人も、いなして流すんや」
小林はソーダ水のグラスの氷をカランと鳴らし、海面で揺れる『白鶴』の銀翼を指さした。
「ソーダ水を飲ませて、阪急百貨店へ流す……。
人は自分から歩いてると思いたい生きもんや。
そう思わせればええ」
運ばれてきたソーダ水の上には、白いアイスクリームが載っていた。
時子は外国の冷たくて整いすぎた甘さに口をつけながら、首筋が冷痛くなるのを感じていた。
「……おっちゃん。
おっちゃんの街、こわい」
小林は、その言葉をあっさりと認めた。
「せやな。
……せやけど時ちゃん、怖ないもんは長持ちせえへん。
手放せん怖さや。
……ほな、休みや」
男は音も立てず、吸い込まれるように廊下の奥へ消えた。
夜更け。
客室の重い扉が閉まると、世界からすべての音が消えた。
軍服の第一ボタンを外した石原莞爾は、窓硝子に映る娘の真っ赤な頬を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……おっかねぇか」
故郷の、低く濁った庄内弁だった。
石原はゆっくりと振り返り、ベッドの端に座る時子の隣へ腰を下ろした。
「小林さんの銭はな、綺麗だの。
……だが、あの男は川を作るだけで、その川がどこへ流れるかは知らん。
人間を欲のぬるま湯に沈めるだけだのぉ」
石原の手が、時子の小さな肩を強く掴んだ。
小林の柔らかい手のひらとは違う。
幾千の地図を指差し、銃を握ってきた、硬く、乾いた、骨格の太い掌。
「揃えられた足音で、世界を呑み込む。
……わしらが作るのは、あの男の劇場じゃねぇ。
誰も逆らえねぇ、一本の道だの」
父の言葉の意味は、十一歳の時子にはまだ分からない。
だが、肩に食い込む父の手の痛さと、軍服から匂う汗と重油の匂いが、小林のくれた白檀の甘い香りを塗り潰していくのを感じていた。
「時子。
おめは石原の娘だ。
欲に流されるな。
欲を流す『側』になれだの」
時子は父の硬い軍服に額を強く押し当てた。
小さな手の中にある、小林にもらった高級なぬいぐるみ。
時子は無言のまま、そのふわふわとした毛並みを、親指の腹で頭から背中へ、寸分も乱さず、じっと撫で揃え始めた。
一度、二度、三度。
何度も、何度も、狂気的な正確さで毛並みをまっすぐに撫で揃えていく。
「……ん」
時子は父の胸の中で、小さく、一度だけ頷いた。
丸窓の向こう、天保山の海原。夜の闇に沈む白鶴の巨体の上で、都市は、誰にも命じられぬまま、秒針のように動き続けていた。