十三駅から発した阪急大回廊線の鋼鉄が、淀川の濁流を跨ぎ、大阪湾の最前線へと直結していた。
潮風に洗われる埋立地に君臨する、圧巻の十三階建てツインタワー。
ネオクラシカルのビルディングが、電車から吐き出された数万の群衆を、専門店街、大劇場、総合病院が溶け込んだ巨大なシステムへと呑み込んでいく。
その二棟の巨塔の前方には、陸に着底し白亜を纏(まと)った戦艦扶桑の旧艦橋――「パゴダマスト」が、第三の牙のように天を突いていた。
解体偽装の幽霊船と摩天楼。
不気味な現代の異形。
天保山岸壁を埋め尽くした数万の群衆が、手にした日の丸の小旗を一糸乱れぬリズムで振っている。
ブラスバンドの軍歌が潮風に弾け、群衆は小林一三の引いた規格の中に、一分の隙もなく組み込まれて動いていた。
貴賓席の最前列。
石原時子は、お地蔵さんのように膝を揃えて座っていた。
小さな膝の上には、昨夜小林から貰った英国製のぬいぐるみを乗せ、そのふわふわとした毛並みを、親指の腹で頭から背中へ、寸分も乱さず撫で続けている。
背後の壇上には、三つの影が並んでいた。
和装に革靴の小林一三。
軍服のシワひとつなく冷徹な目で海を見つめる陸軍大佐、石原莞爾。
そして、白い夏服の肩を揺らして太い腕を組む海軍中将、山本五十六。
小林がシルクハットの庇に指をかけ、山本の肩を突いた。
「山本さん。
あそこに座ってる時ちゃん、実はこの白鶴の名付け親なんですわ」
山本が不敵に目を細め、時子の微動だにしない横顔を覗き込む。
真っ白な積み木を一ミリの狂いもなく直線に並べた幼子の面影は消え、静かな凄みが宿っていた。五十六の太い眉が微かに跳ねる。
「ずいぶんと石原君に似て、硬く尖った目になったな」
山本はすぐに声を落とし、刻み煙草の煙とともに吐き捨てた。
「……ところで小林さん。
住友のジュラルミン、行程ごと抱え込んだそうだな。
三宅坂の青二才どもが血相を変えておるぞ」
「うちの工廠から『帳尻が合わん』と突っぱねてあります」
石原莞爾が冷たい横顔のまま、会話を切り捨てた。
「数の計算もできん愚か者に、軽金属は渡せません。
……海軍がこの天保山に相乗りしたいなら、舞鶴の重油を回してもらいましょう」
「優雅やない、商売です」
小林が目を細めて笑う。
「世界へ人を流す川に、大砲の匂いは邪魔になりますよってな」
その瞬間、猛烈な爆音が鼓膜を打った。
ドックの大型扉がスライドし、海面へ引き出されていく白い怪物――『白鶴一型』。
陽光を跳ね返す純白の塗膜に、阪急のマルーンのラインが一本、鮮やかに走る。
地鳴りのような歓声が天保山を揺らした。
時子がその巨体を見つめていた、その時だった。
湿った泥と、強い刻み煙草の匂いが鼻腔を突いた。
どっかり、と隣の空席が沈む。
「……わさじい」
ヨレヨレのフロックコートに泥のついた靴。
中央気象台の大石和三郎だった。
分厚い眼鏡の奥の目は、白鶴も見ず、三本の摩天楼が突き刺す空の深淵だけを見つめている。
ポケットの中で、真鍮製の気圧計が、カチ、カチ、と無機質な音を立てていた。
「時子さん。
小林のオサンの作った川は、美しか。
……ばってん、浅か」
低く乾いた佐賀弁。
時子は息を呑んだ。
「地べたの人間がいくら形ば揃えて、十三階のビルば建てても、お空の上は関係なか。
……上(上空)は、冷たかな。
目に見えん凄まじか風の川の流れてっと」
「……川?」
「あの白い鳥が大連へ飛ぶ高度など、まだ地べたの泥の上たい。
もっと上……
人間の欲も軍隊の規律も、一瞬で引き裂く西風の激流の吹いとる。
……わしは、その風ば測りに行く」
大石の指が、カチ、と気圧計の針を弾いた。
その目は、もう時子を見ていなかった。
人間の都合など一切通用しない「絶対の数理」だけを見つめている。
小林が作り上げた巨大な天保山すら、この老人は「地べたの泥遊び」と切り捨てたのだ。
時子は言葉を失った。
バリバリバリ、と四発の発動機が爆音を上げ、白鶴一型が白とマルーンの軌跡を描いて海面から大空へ舞い上がった。
歓声、小林の満足、石原の計算、山本の野心、そして大石の冷笑。
そのすべてを呑み込んで、白翼が雲の彼方へ吸い込まれていく。
時子は抱きしめたぬいぐるみを強く押し潰しながら、もう片方の手で、大石から貰った緑星のフェルトの角を、爪が食い込むほど強く、強く、握りしめていた。
空を見上げるその瞳からは、迷いも、幼さも、完全に消え去っていた。