午前六時十五分。
池田白梅館の玄関に漂うのは、薪の煤の匂いと、テイ子が絞った柚子の湯気の香りだった。
「時子、襟巻、緩んでるべ」
「寒ないもん。
とうちゃん、おかあさん、早よ行こ!」
時子は仕立て直した紺の防寒外套の裾を躍らせ、暗い坂道を池田駅の改札へと跳ねていく。
追う石原は軍服を着ていない。重厚なアントワープ織のコートがその痩せた体を包み、隣には時子の小さな手を引くテイ子が、静かに息を白く吐いていた。
阪急宝塚線の電車が滑り込んでくる。
車内には暖房の鋳物の匂いと、早起きの女給がつけるポマードの甘い香りが残っていた。
「十三だ。乗り換えるぞ」
十三駅のホーム。
向かいには、すでに「天保山行」の特別列車が深いマルーン色の光沢を濡らして待っていた。
塚本の横を抜け、加島の工場街をすり抜ける。
阪神から買い叩いた伝法線の短絡線へ滑り込み、低い淀川鉄橋を跨ぐ瞬間、車窓の空気が一変した。
水面スレスレの鉄骨を響かせて淀川を渡り、福、千鳥橋を疾走する。
前方に聳え立つのは、六軒屋川の分岐点に打ち込まれた黒い鉄骨の巨塔――阪急が強行建設した『安治川可動大橋』だ。
ウーッと唸りを上げる警告サイレンとともに、安治川を塞ぐ汽船群を水上信号で強引に停止させ、巨大な跳ね上げ橋が重々しく噛み合わさる。
轟音とともに安治川の頭上を跨ぎ越した瞬間、ガソリンの排気と塩辛い潮の匂いが客室の隙間から滑り込んでくる。
「海! とうちゃん、海見えた!」
天保山駅のホームに吐き出された瞬間、空気の密度が変わった。
「な……なに、これ……!」
時子が石原のコートの裾を力任せに掴む。
早朝の七時台だというのに、白大理石の「阪急天保山大回廊」は、押し寄せた人間の波で熱気に包まれていた。
洋装の紳士から泥のついた脚半履きの農民、新し物好きのモガ、新聞記者、野次馬――。
ドーム状の天井に怒号のような歓声と靴音が反響し、地鳴りとなって鼓膜を揺らす。
人の脂と汗の匂いが充満し、大理石の回廊が蒸し風呂のように熱を帯びていた。
「とうちゃん……怖い……」
「時子、目開けろ。離れるなよ」
押し寄せる人波を割り開いたのは、黒い制服を着た阪急の警備員たちだった。
太いロープで強引に道をこしらえる。
重厚な真鍮の扉が開く。
『これより先、西日本航空特約乗客以外、立ち入りを禁ず』
扉がガチャンと閉まった瞬間、背後の雑音がスパッと断ち切られた。
頭上に聳え立つのは、十三階建てのツインタワー。
そしてその中央、旧戦艦扶桑の「パゴダマスト」――三本の摩天楼だ。
パゴダマスト直下、全周ガラス張りの『軍艦かふぇ』。
小林一三によって貸し切られた空間には、銀のポットから注がれるブラジル豆の香りが漂っていた。
小林がテーブルに腰掛け、手招きする。
「やぁ、時ちゃん。
外はえらい騒ぎやったやろ。
……世間の人らはここを『未来』やと思って見に来てる。
せやけど本当の未来はな、あの静かな海の上に浮いてるんやで」
ガラス窓の向こう、かつて主砲が鎮座していた前甲板の海上に、純白とマルーンの四発巨躯――『白鶴一型』が静かに揺れていた。高オクタン価ガソリンと冷たい潮風の匂いだけが漂っている。
「では、そろそろ行こか」
小林が銀の珈琲カップを戻し、立ち上がった。
ステッキの先が扶桑の鉄甲板を小気味よく叩く。
かふぇの真鍮扉を抜けると、潮風が一気に頬を撫でた。
海底に着底された扶桑は動かない。
だが海面の白鶴は潮とともに上下する。
その二メートルの高低差を、油圧シリンダーと伸縮スロープが静かに吸収していた。
「海の機嫌に人間が合わせるんやない。
機械で跨ぐんや」
ギシ、ギシと音を立てるスロープを降り、ポンツーンから水密ハッチを潜る。
上質な絨毯の香りと暖房の温もりが鼻を突いた。
「うわぁ……!
すごい……おうちみたい!」
時子はコートを脱ぎ捨て、真鍮フレームの丸窓の前の座席に飛び乗った。
「とうちゃん、見て!
さっきの摩天楼があんなに近くに見える!」
ズドズドズドズドズド!!!!
セルモーターの重低音が機体を大きく揺らした。
一番、二番、三番、四番。
過給器を限界まで研ぎ澄ました三菱『試製金星』四基・計四千馬力が咆哮を上げると、丸窓の硝子が細かく振動し、時子の胸の奥を直接叩く。
小林が優雅に懐中時計を確認した。
「午前八時二分。
さあ、小樽まで五時間の空中散歩と行こうか」
一重の大きな飛沫(スプレー)が丸窓を真っ白に染め上げ、白鶴の巨躯が水面を滑り始めた。
次の瞬間――ふっと、下から突き上げられていた重力が消えた。
「浮いた……!
とうちゃん、本当に飛んだよ……!」
時子が身を乗り出す。
眼下には黄濁した大阪湾の海面。
みるみるうちに縮んでいく「三本の摩天楼」と、群衆の黒い点。
「時子、座れ。ベルトを締めろ」
石原の声は静かだった。
黒い革の手帳を取り出し、インクの乾いた万年筆で数字の列を書き走らせている。
三宅坂の政変など眼中にない。
ただ、機体の重量と燃料消費の数式だけがそこにあった。
離陸から三時間。
日本海北部、高度二千メートルの雲海へ突入していた。
青空が消え、ぬめりとした灰色の雲が機体を包み込む。
丸窓のフチにガリ、ガリと音が刻まれ、硝子が白い氷の結晶で覆われていく。
機体がドスン!
と数メートル落下した。
みし、とジュラルミンが悲鳴を上げる。
「……とうちゃん」
時子はテイ子の膝に顔を押し付け、石原のコートの裾を掴んだ。
「とうちゃん……こわい……落ちへん?」
石原は万年筆を留め金に戻し、時子の頭の上に大きな掌を乗せた。
力強い肉の圧力がかかる。
「落ちん。
翼型の剥離限界と、発動機の余剰馬力の計算を間違えていなければ、失速して墜ちる道理はない」
石原の目は丸窓の外、翼の前縁にへばりつく白い氷塊を見ていた。
「怖がるのは、数字の収支を疑っている証拠だ。
腹を据えて座っていろ」
その瞬間、操縦席との境界扉がバタンと叩きつけられるように開いた。
熱せられた潤滑油の焦げつく匂いと、アルコールのツンと刺す蒸留臭が、なだれ込んでくる男たちの叫び声とともに吹き出してきた。
川西の技術者たちが、計算尺と油まみれの図面を握りしめたまま怒号を飛ばし合っている。
「第二エンジンの油圧低下!
排気加熱管に熱歪み、クラック入ったぞ!」
「主翼前縁へのアルコール噴霧、圧力が足りん!
氷が翼型(エアフォイル)を潰しとる!」
排気管を巻いたヒートジャケットがキーキーと金属疲労音を立て、過冷却の水滴がジュラルミンを削り取っていく。
機体が再びドスンと沈み、時子は息を止めた。
石原は手帳を開き直し、揺れの中で微動だにせず揚力と重量の数字を書き続け、川西の技術者どもが血を吐くような現場の力学で氷を砕く狭間を、ただ冷徹に見つめていた。
格闘五時間。
白鶴は、吹雪く小樽港の冷たい水面を激しく叩いて滑走し、止まった。
小樽港、第三埠頭。
刺さるような潮風のなか、白鶴一型は油まみれの氷が浮かぶ水面に大きな翼を休めていた。
「うちらは、ここで船に乗り換えます」
小林が真鍮のステッキで足元を踏みしめた。
傍らでは、川西の技師たちが泥と油で顔を汚し、袖で鼻水を拭いながら水密ハッチへ群がっている。
「小林さん、乗らねぇのか?」
石原が外套の襟を立て、吐く息を真っ白に染めながら尋ねた。
「乗るのは、あの男らだけで十分です」
小林は冷ややかな目で、ハッチに吸い込まれていく技術者たちを見やった。
「小樽から大泊までの四百キロ。流氷の海へ不時着すれば、三分で冷たなる。
あいつらは、あの機体が氷の海で使えるか確かめに行く『検査員』や。
……うちらは、暖房の効いた連絡船で行きます」
時子が石原のコートの裾を引っ張った。
「とうちゃん、あの白鶴、ひとりぼっちでいくん?」
「……そうだ。
あの男たちが数字の不備を確かめに行っている」
ズドズドズドズド!
四基の『試製金星』が重い咆哮を上げ、小樽の海面に白い波紋が広がった。
白鶴は吹きすさぶ雪の闇へとその巨体を滑らせ、氷の彼方へ消えていった。