白鶴物語   作:石原時子

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第二章 『取捨』(1928年 7月)

畳の隙間から立ち上る雨の湿気に、ヨードチンキの匂いが澱んでいた。

 テイ子は、夫から差し出された一枚の紙片を、指先で静かに撫でた。

 養子縁組承諾書——昭和三年七月。

 母親の署名欄だけが、白く余白を残している。

「……村神の娘ですね」

 声に高低はない。

ただ、喉の奥で冷えた糸が擦れ合うような音が混じた。

 石原の右大腿が、畳の上で跳ねた。

 下腹部を焼鉄で突かれる鈍痛。尿道狭窄の激痛に脂汗が吹き出し、視界の端が白く爆ぜる。

「……本省の火種だ」

 石原は痛みに唇を歪め、低く毒を吐き捨てた。

「その白紙に泥を塗れ。

俺と共に地獄へ堕ちるか」

 テイ子の足音が消えた。

 背後に回り込んだ白皙の手が、脂汗で滑る石原の首筋にそっと添えられる。

 爪を立てるのではない。

己の体温を、冷えた頸脈へ叩きつけるように押し当てた。

 皮膚を通じて、テイ子の心臓が早鐘のように打っているのが伝わる。

 テイ子は夫の耳朶へ、冷えた唇を寄せた。

白粉の匂いに混じる、脂の匂い。

「……私を置いて死ぬことなど、許しませんよ」

 首筋に食い込む指先から、冷酷な誓いが染み込んでくる。

 石原は歯を食いしばり、痛む唇の端をわずかに吊り上げた。

 

 ◇

 

 七月八日。

 三宅坂、陸軍省軍事課長室。

 西日が朱塗りの絨毯を赤黒く染め、生ぬるい風が天井の扇風機を緩く回している。

 軍事課長、永田鉄山大佐は、手元の報告書から視線を上げなかった。

指先で紙面を擦る、サァ、という乾いた音だけが室内に落ちる。

 永田は万年筆のキャップを静かに閉じると、朱筆で一箇所だけ丸で囲まれた「不自然な余白」に、ゆっくりと指を滑らせた。

「……血の始末が不細工だな、石原」

 直立する石原中佐の顔面は蒼白だが、深く落ちくぼんだ黒目だけが永田の指先を射抜いている。

「海軍が嗅ぎ回り、本省上層部が怯えている。

……拾った火種を胸に抱いた男を、満州へ送れると思うか」

 永田は卓上の一通の紙片を、几帳面に指先で滑らせた。

「人事局が関東軍への発令を取り消した。

……歩兵第四連隊付。

大阪へ行け」

 石原の目線が、滑り出てきた辞令の文字に落ちる。

「あそこはゼニの亡者が蠢く泥だ。

……その泥の中で、溶けて消えるか、化け物になるかだ」

 石原の口元が、わずかに吊り上がった。

声は出さない。

ただ深く頭を下げた。

 言葉を放たぬ分、落ちくぼんだ両眸の底で狂気じみた計算の光が暗く蠢く。

 永田は振り返りもせず、次の決裁書類へペンを走らせた。

カリ、カリと澄んだ金属音だけが部屋を満たす。

 旋回して扉へ向かう石原の右足が、わずかに引き摺られた。

軍靴が床を擦る重い音が、廊下の暗がりに消えていく。

 

 ◇

 

 七月十日。

 京都、東山の寺。

 黴と安石鹸の匂いが沈殿する薄暗い応接間で、老尼の陰から一人の少女がにじむように現れた。

 少女が纏う真っ白な絹の子供着物だけが、闇の中で異様に浮き立っている。

 テイ子の鋭い視線が、四歳の少女の全身を削ぎ落とすように走った。

 こぼれ落ちそうなほど赤い頬を硬く結び、少女は漆黒の瞳で静かに大人を値踏みしている。

 テイ子が膝を折ると、絹擦れの音が響いた。

 少女が一歩踏み出し、テイ子の着物の裾を、小さな手で固く握りしめた。

「……いくん?」

 湿った、幼い声。

 テイ子の指先が少女の頬に触れた——その瞬間、幼子の皮膚の異常な熱さが刺さり、テイ子の呼吸が一瞬だけ止まった。

テイ子は少女の細い手首を掴むと、離れまいとするかのように、固く握りしめた。

指の腹が、幼い手首の脈拍を力任せに押し潰す。

「ええ。おいで、時子」

 掠れた、氷の声。

 闇の中、二つの孤立した呼吸が、静かに一つに重なった。

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