樺太。
大泊。
日魯漁業の缶詰工場裏手に佇む木造応接室は、異様な重圧と不快な匂いに支配されていた。
鋳物ストーブの胴体は真っ赤に熱を帯び、くべられた泥炭(ピート)の煤と、濡れた羊毛コートから立ち上る酷い体臭を部屋中に充満させている。
壁際で手帳を握るNKVD(内務人民委員部)の男の、瞬き一つしない目が三人の背中に突き刺さっていた。
ソ連外務人民委員部特使ボリソフは、革張りのソファーに深く身体を沈め、安タバコ「パピロシ」の吸い口を黄ばんだ鋭い前歯でガリガリと噛みちぎっていた。
吐き出された青白い煙には、安煙草特有の酸っぱい甘さと、喉を刺すような灰の臭いが混じっている。
「……で?」
通訳官の乾いた声が、室内の重苦しい静寂をなぞる。
ボリソフの濁った双眸は微動だにしない。
「関東軍が動くか動かんか。
知りたいのはそれだけだ、イシワラ。
『張作霖』以来、我が国は貴様らの鎖がいつ切れるか、ずっと握り拳を固めて見張っている」
石原莞爾は流れてくる煤煙を冷ややかな一瞥で無視し、研ぎ澄まされた黒目をじっとボリソフへ向けた。
「関東軍は動かね。
……おれが首根っこねじ伏せておぐだの」
「ほう?」
ボリソフは下卑た冷笑を浮かべ、手元のグラスを軽く揺すった。
ウォッカの透明な液体の中で、氷が乾いた鋭い音を立てる。
「満洲の虎が、肉を食うのをやめると?
冗談は顔だけにしろ」
「爪を研ぐ場所を変えるだけだの」
石原は眉一つ動かさず、低く硬い声で吐き捨てた。
「兵隊差し向けるより、金と鉄道の網で買い叩く方が安上がりださ。
お前さんたちだって、極東の凍土で無駄な血流して、五ヵ年計画を破綻させたくはねぇはずだのぉ」
ボリソフの双眸が細くなった。ウォッカの強いアルコール臭を吐き出しながら、彼はデスクの上の書類を万年筆の先でガツンと突いた。
「……北樺太(オハ)の原油採掘権か」
「そうです」
それまで沈黙を保っていた小林一三が、静かに滑らかな声を挟み込んだ。
彼の仕立ての良い洋服からは、わずかに白檀の香水の匂いが漂う。
「オハの海は十一月から五月まで流氷で完全に途絶する。
だが、夏のわずか四ヶ月で黒い油を底から吸い上げ、我が方の大型油槽船(タンカー)で徳山の巨大貯油槽へ叩き込む。
資金は住友、運送と保管の仕組みは阪急が持つ。
その代わり……満洲の南縁に二度と余計な鼻を突っ込まんことですな」
ボリソフは吸い殻を粗暴に床へ擦りつけ、万年筆の先で小林の胸元を指し示した。
「見返りだ。
石油と引き換えに『肉』を差し出せ」
ボリソフの黄ばんだ歯が剥き出しになる。
「一つ。
住友の『高強度軽銀(ジュラルミン)冶金技術』と製錬設備の設計図。
二つ。
阪急大食堂の『自動兵站缶詰の製造器械』一式。
これをモスクワへの成果として差し出せ」
小林の奥歯が、カチと小さく鳴った。
金時計を握る指先が一瞬白くなる。
航空機の骨組みと、大部隊の食糧補給。
現代戦の心臓部だ。
「……えげつねぇところを突いてくるのぉ」
石原がボリソフの喉元を鋭く睨みつける。
小林は一息で口元に不敵な笑みを貼り直した。
「いいでしょう。
お渡しましょう……
初期の製造設備をね。
……ただし、器械の精密な交換部品と特殊潤滑油は、我が阪急と住友からの定期購入に限定させてもらいます」
「ウラル重工業で三ヶ月で模造してみせる!」
ボリソフがテーブルを小突いた。
「模造はご自由に。
だが精度を欠いた偽物の部品で、貴国の全軍の胃袋と翼が止まっても……知りませんよ」
小林の瞳に冷徹な毒が宿る。
兵站の首輪を嵌める——小林の真の狙いだった。
ボリソフは苦々しく原油取引の書類にサインを叩きつけた。
「……油はくれてやる」
小林はすぐさま懐から別の薄い書類を滑らせ、テーブルの端へと置いた。
「では本題です。
我が西日本航空『白鶴』による、大泊からウラジオストク、モスクワを経由する欧州直行便の認可を」
ボリソフの動きが止まった。
彼は通訳の訳文を確かめると——次の瞬間、一切の躊躇もなく、真っ赤に起きた泥炭の暖炉の中へ放り込んだ。
メラッ!
と青い炎が書類を包み込み、一瞬で黒い灰へと変えていく。
「戯れ言を言うな」
ボリソフが低く濁った声で吐き捨てた。
「あの『白鶴』とかいう化け物を見ただろう。
四基の爆撃機エンジンを積んだ偵察機に、我が国のシベリア鉄道を上空から丸裸にさせる気か?
空路は却下だ。
一歩たりとも我が国の空は渡さん」
小林は燃え尽きる灰をじっと見つめた後、静かに鼻で笑った。
「燃やしましたな、ボリソフさん。
……だが結構。
空を閉ざすなら、地上からゆっくり干上がればよろしい」
小林は金時計の蓋をカチリと閉めた。
数時間後。
鉛色の空から風が止み、針葉樹の重い枝から雪が落ちる音だけが聞こえていた。
「膝落とせ。
足首に頼ると革靴が逃げっで」
軍服を脱いだ石原が竹の一本棒を握り、雪を叩く。
時子は何度も転び、濡れた防寒外套の裾を丸めた。
軟らかい牛革靴は横方向の支持力が皆無で、足首だけで刃を立てようとすれば容易に裏返る。
「後ろの足を引け。
踵を上げて爪先で板を押さえろ。身体ごと内側へ倒し込んで、腰の重さで角を噛ませるんださ」
石原の手本にならい、時子は腹と太ももを密着させるほど低く構えた。
前足三割、後ろ足七割。
爪先立ちになった右足の小指側で木板背を深く圧し、体幹をぐっと傾けると、革靴のぐらつきが消えてガリッと雪層が噛み合った。
一本棒を突いて滑り出す。
足元から滑らかな切削音が響いた。
「とうちゃん、滑れてる!
倒れへん!」
「後ろ足の加減を緩めたら股が裂けっで。
目線下げんな」
時子は後ろ足の熱に耐えながら、鋭い回転軌跡を描いた。
「とうちゃん」
「なんだ」
「おっちゃんたち、あんな汚い部屋で、何の話してたん?」
「……線を引く話だの。
ここからは入るな、ここからはおれのものだ、ってな」
「へんなの。
お空には、線なんか描いてへんのに」
石原は短く笑い、一本棒を深々と刺した。
「だから、その線をまたいで笑ってやるのが……面白ぇんださ」
夜。
畳の部屋で泥炭ストーブの赤みが深まる。
膝掛けにくるまる時子が不満を漏らした。
「小林のおっちゃん……またトコロテンなん?
わたし、足もとお腹もキンキンに冷えてるねん。
あんな冷たいのん、嫌やで」
小林は悪戯っぽく手を打ち鳴らした。
奥から同行させた宝塚ホテルの職人が現れる。
保温木箱の熱石で人肌に保たれた白磁の練乳ペーストを抱え、真鍮製の『小田押し器』を設置した。
ガチリ。
レバーに体重がかけられると、穴からニュルニュルと押し出されたのは透明な寒天ではなく、鮮烈な黄色の『栗餡の糸』だった。
温められた練乳と牛酪(バター)の山肌を黄色い糸が覆い尽くす。
芳醇な蒸し栗と焦がし牛酪の香味が部屋の泥炭臭を塗りつぶした。
「ほら、時ちゃん。
特注の『モンブラン』や」
時子が一口含む。
濃厚な甘みと熱が胃袋へとなだれ込んだ。
「……っおいしい!!
とうちゃん、あつい!
冷たいのに、お腹ん中がすごい熱なる!」
栗餡を頬につけて夢中で食べる時子を見下ろし、石原が呟く。
「……地獄の底にまで甘い山を持ってくるか」
小林は窓の外の雪闇へ語りかけた。
「石原さん。
ここはオハの黒い油が流れ込む、西日本白鶴文明の命の玄関口になる。
……空路を拒絶されたくらいで諦めるかいな。
ここに『阪急大泊ホテル』を建てますわ。
全室蒸気暖房完備、流氷が一望できる館や。
極寒の国境で疲れた人間に、温かい珈琲と甘い栗の山を味わわせる。
胃袋と欲望を掴む方が、爆撃機より遥かに強くこの土地を縛れますわ」
翌朝。
大泊港沖合。
亜庭湾を覆う逃げ場のない海氷を、日魯漁業の鋼鉄砕氷船が数時間かけて叩き割り、一筋の細い水道を切り拓いていた。
切り開かれた波間に、高オクタン価ガソリンを慎重に給油された『白鶴一型』が静かに浮かぶ。
流氷の角が船体をかすめて鋭い金属音を立てていた。
川西航空機の技術長が白気を吐いて叫ぶ。
「社長!
水道は長くて千メートル!
左右の流氷に翼を引っ掛けたら終わりです!
ガソリン給油完了、一千馬力『金星』四基、暖機完了!
浮上と同時に流氷の隙間を脱出するため、離水時のみ全開投射します!」
「乗っで」
石原が時子の頭を乱暴に撫で、ハッチを閉めた。
ズドズドズドズド!!
四基のエンジンが咆哮を上げる。
砕けた氷塊が乱舞し、舟底が海面を叩いて巨大な水柱を上げた。
迫り来る氷壁の限界ギリギリ、ふっと重力が消える。
丸窓の外、白い氷原が遠ざかる。強い偏西風を巨大な舵でねじ伏せ、白鶴は六時間の航程を経て夕暮れの大阪湾、天保山へ滑り込んだ。
ぬるい潮風の中、ハッチが開く。
時子は小林のコートを引っ張り、笑顔を弾けさせた。
「おっちゃん!
ホテルができたら、またあの黄色いお山、絶対に食べさせてね!」
「約束や。
今度はもっと大きい窓から、流氷見ながら食べよな」
時子は、冷たい雪の感触と、舌に残る甘い栗餡の温度を、その身体の奥深くに刻み込んでいた。