白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二十九章『北蜜』(1936年 1月6日)

樺太。

大泊。

 日魯漁業の缶詰工場裏手に佇む木造応接室は、異様な重圧と不快な匂いに支配されていた。

 鋳物ストーブの胴体は真っ赤に熱を帯び、くべられた泥炭(ピート)の煤と、濡れた羊毛コートから立ち上る酷い体臭を部屋中に充満させている。

壁際で手帳を握るNKVD(内務人民委員部)の男の、瞬き一つしない目が三人の背中に突き刺さっていた。

 ソ連外務人民委員部特使ボリソフは、革張りのソファーに深く身体を沈め、安タバコ「パピロシ」の吸い口を黄ばんだ鋭い前歯でガリガリと噛みちぎっていた。

 吐き出された青白い煙には、安煙草特有の酸っぱい甘さと、喉を刺すような灰の臭いが混じっている。

「……で?」

 通訳官の乾いた声が、室内の重苦しい静寂をなぞる。

ボリソフの濁った双眸は微動だにしない。

「関東軍が動くか動かんか。

知りたいのはそれだけだ、イシワラ。

『張作霖』以来、我が国は貴様らの鎖がいつ切れるか、ずっと握り拳を固めて見張っている」

 石原莞爾は流れてくる煤煙を冷ややかな一瞥で無視し、研ぎ澄まされた黒目をじっとボリソフへ向けた。

「関東軍は動かね。

……おれが首根っこねじ伏せておぐだの」

「ほう?」

 ボリソフは下卑た冷笑を浮かべ、手元のグラスを軽く揺すった。

ウォッカの透明な液体の中で、氷が乾いた鋭い音を立てる。

「満洲の虎が、肉を食うのをやめると?

冗談は顔だけにしろ」

「爪を研ぐ場所を変えるだけだの」

 石原は眉一つ動かさず、低く硬い声で吐き捨てた。

「兵隊差し向けるより、金と鉄道の網で買い叩く方が安上がりださ。

お前さんたちだって、極東の凍土で無駄な血流して、五ヵ年計画を破綻させたくはねぇはずだのぉ」

 ボリソフの双眸が細くなった。ウォッカの強いアルコール臭を吐き出しながら、彼はデスクの上の書類を万年筆の先でガツンと突いた。

「……北樺太(オハ)の原油採掘権か」

「そうです」

 それまで沈黙を保っていた小林一三が、静かに滑らかな声を挟み込んだ。

彼の仕立ての良い洋服からは、わずかに白檀の香水の匂いが漂う。

「オハの海は十一月から五月まで流氷で完全に途絶する。

だが、夏のわずか四ヶ月で黒い油を底から吸い上げ、我が方の大型油槽船(タンカー)で徳山の巨大貯油槽へ叩き込む。

資金は住友、運送と保管の仕組みは阪急が持つ。

その代わり……満洲の南縁に二度と余計な鼻を突っ込まんことですな」

 ボリソフは吸い殻を粗暴に床へ擦りつけ、万年筆の先で小林の胸元を指し示した。

「見返りだ。

石油と引き換えに『肉』を差し出せ」

 ボリソフの黄ばんだ歯が剥き出しになる。

「一つ。

住友の『高強度軽銀(ジュラルミン)冶金技術』と製錬設備の設計図。

二つ。

阪急大食堂の『自動兵站缶詰の製造器械』一式。

これをモスクワへの成果として差し出せ」

 小林の奥歯が、カチと小さく鳴った。

金時計を握る指先が一瞬白くなる。

 航空機の骨組みと、大部隊の食糧補給。

現代戦の心臓部だ。

「……えげつねぇところを突いてくるのぉ」

 石原がボリソフの喉元を鋭く睨みつける。

 小林は一息で口元に不敵な笑みを貼り直した。

「いいでしょう。

お渡しましょう……

初期の製造設備をね。

……ただし、器械の精密な交換部品と特殊潤滑油は、我が阪急と住友からの定期購入に限定させてもらいます」

「ウラル重工業で三ヶ月で模造してみせる!」

 ボリソフがテーブルを小突いた。

「模造はご自由に。

だが精度を欠いた偽物の部品で、貴国の全軍の胃袋と翼が止まっても……知りませんよ」

 小林の瞳に冷徹な毒が宿る。

兵站の首輪を嵌める——小林の真の狙いだった。

 ボリソフは苦々しく原油取引の書類にサインを叩きつけた。

「……油はくれてやる」

 小林はすぐさま懐から別の薄い書類を滑らせ、テーブルの端へと置いた。

「では本題です。

我が西日本航空『白鶴』による、大泊からウラジオストク、モスクワを経由する欧州直行便の認可を」

 ボリソフの動きが止まった。

彼は通訳の訳文を確かめると——次の瞬間、一切の躊躇もなく、真っ赤に起きた泥炭の暖炉の中へ放り込んだ。

 メラッ!

と青い炎が書類を包み込み、一瞬で黒い灰へと変えていく。

「戯れ言を言うな」

 ボリソフが低く濁った声で吐き捨てた。

「あの『白鶴』とかいう化け物を見ただろう。

四基の爆撃機エンジンを積んだ偵察機に、我が国のシベリア鉄道を上空から丸裸にさせる気か?

空路は却下だ。

一歩たりとも我が国の空は渡さん」

 小林は燃え尽きる灰をじっと見つめた後、静かに鼻で笑った。

「燃やしましたな、ボリソフさん。

……だが結構。

空を閉ざすなら、地上からゆっくり干上がればよろしい」

 小林は金時計の蓋をカチリと閉めた。

 

数時間後。

 鉛色の空から風が止み、針葉樹の重い枝から雪が落ちる音だけが聞こえていた。

「膝落とせ。

足首に頼ると革靴が逃げっで」

 軍服を脱いだ石原が竹の一本棒を握り、雪を叩く。

時子は何度も転び、濡れた防寒外套の裾を丸めた。

軟らかい牛革靴は横方向の支持力が皆無で、足首だけで刃を立てようとすれば容易に裏返る。

「後ろの足を引け。

踵を上げて爪先で板を押さえろ。身体ごと内側へ倒し込んで、腰の重さで角を噛ませるんださ」

 石原の手本にならい、時子は腹と太ももを密着させるほど低く構えた。

前足三割、後ろ足七割。

爪先立ちになった右足の小指側で木板背を深く圧し、体幹をぐっと傾けると、革靴のぐらつきが消えてガリッと雪層が噛み合った。

一本棒を突いて滑り出す。

足元から滑らかな切削音が響いた。

「とうちゃん、滑れてる!

倒れへん!」

「後ろ足の加減を緩めたら股が裂けっで。

目線下げんな」

 時子は後ろ足の熱に耐えながら、鋭い回転軌跡を描いた。

「とうちゃん」

「なんだ」

「おっちゃんたち、あんな汚い部屋で、何の話してたん?」

「……線を引く話だの。

ここからは入るな、ここからはおれのものだ、ってな」

「へんなの。

お空には、線なんか描いてへんのに」

 石原は短く笑い、一本棒を深々と刺した。

「だから、その線をまたいで笑ってやるのが……面白ぇんださ」

 夜。

 畳の部屋で泥炭ストーブの赤みが深まる。

膝掛けにくるまる時子が不満を漏らした。

「小林のおっちゃん……またトコロテンなん?

わたし、足もとお腹もキンキンに冷えてるねん。

あんな冷たいのん、嫌やで」

 小林は悪戯っぽく手を打ち鳴らした。

奥から同行させた宝塚ホテルの職人が現れる。

保温木箱の熱石で人肌に保たれた白磁の練乳ペーストを抱え、真鍮製の『小田押し器』を設置した。

 ガチリ。

レバーに体重がかけられると、穴からニュルニュルと押し出されたのは透明な寒天ではなく、鮮烈な黄色の『栗餡の糸』だった。

 温められた練乳と牛酪(バター)の山肌を黄色い糸が覆い尽くす。

芳醇な蒸し栗と焦がし牛酪の香味が部屋の泥炭臭を塗りつぶした。

「ほら、時ちゃん。

特注の『モンブラン』や」

 時子が一口含む。

濃厚な甘みと熱が胃袋へとなだれ込んだ。

「……っおいしい!!

とうちゃん、あつい!

冷たいのに、お腹ん中がすごい熱なる!」

 栗餡を頬につけて夢中で食べる時子を見下ろし、石原が呟く。

「……地獄の底にまで甘い山を持ってくるか」

 小林は窓の外の雪闇へ語りかけた。

「石原さん。

ここはオハの黒い油が流れ込む、西日本白鶴文明の命の玄関口になる。

……空路を拒絶されたくらいで諦めるかいな。

ここに『阪急大泊ホテル』を建てますわ。

全室蒸気暖房完備、流氷が一望できる館や。

極寒の国境で疲れた人間に、温かい珈琲と甘い栗の山を味わわせる。

胃袋と欲望を掴む方が、爆撃機より遥かに強くこの土地を縛れますわ」

 翌朝。

大泊港沖合。

 亜庭湾を覆う逃げ場のない海氷を、日魯漁業の鋼鉄砕氷船が数時間かけて叩き割り、一筋の細い水道を切り拓いていた。

 切り開かれた波間に、高オクタン価ガソリンを慎重に給油された『白鶴一型』が静かに浮かぶ。

流氷の角が船体をかすめて鋭い金属音を立てていた。

 川西航空機の技術長が白気を吐いて叫ぶ。

「社長!

水道は長くて千メートル!

左右の流氷に翼を引っ掛けたら終わりです!

ガソリン給油完了、一千馬力『金星』四基、暖機完了!

浮上と同時に流氷の隙間を脱出するため、離水時のみ全開投射します!」

「乗っで」

 石原が時子の頭を乱暴に撫で、ハッチを閉めた。

 ズドズドズドズド!!

 四基のエンジンが咆哮を上げる。

砕けた氷塊が乱舞し、舟底が海面を叩いて巨大な水柱を上げた。

迫り来る氷壁の限界ギリギリ、ふっと重力が消える。

丸窓の外、白い氷原が遠ざかる。強い偏西風を巨大な舵でねじ伏せ、白鶴は六時間の航程を経て夕暮れの大阪湾、天保山へ滑り込んだ。

 ぬるい潮風の中、ハッチが開く。

時子は小林のコートを引っ張り、笑顔を弾けさせた。

「おっちゃん!

ホテルができたら、またあの黄色いお山、絶対に食べさせてね!」

「約束や。

今度はもっと大きい窓から、流氷見ながら食べよな」

 時子は、冷たい雪の感触と、舌に残る甘い栗餡の温度を、その身体の奥深くに刻み込んでいた。

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