白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十章 『辻乱』(1936年 2月)

昭和十年十一月。

 雨の東京。

 三宅坂。

 冷え切った陸軍省軍務局長室には、濡れた羊毛軍服の酸っぱい臭いと、湿ったインクの匂いが重く淀んでいた。

「辻。……東の惨状を、どう見る」

 永田鉄山少将が静かに万年筆を置いた。

 目前に直立する辻政信少佐のツギハギの軍服から、冷水浴の皮膚の匂いと、溜め込まれた生臭い汗の臭気が立ち昇っている。

「……目も当てられぬ有様です」

 辻の顎がピクリと跳ねた。

眼球の奥に濁った熱が溜まっている。

「東北の兵が泥を舐め、妹を売っている時に、大阪は天保山でモナカを食い、浮かれておる。

陸軍の面目は丸潰れであります」

 辻の拳が握りしめられ、乾いた爪が皮膚を裂いた。

床の絨毯の上に、ぽたりと赤が落ちて滲む。

 永田はその血を冷たい目で見つめたまま、デスクの引き出しから一通の無地の封筒を取り出した。

 発令者の署名も角印もない。「東海道非常機動演習」の指示書。

「三井の裏資金を使え。

海路でふたつ、陸路でひとつ。

倉庫の九二式も叩き起こせ。

演習名目で動かす。

時期は来年二月。

陸軍の手は動かさん。

すべてお前たちの独断専行だ」

「はっ」

 辻は深く敬礼し、軍靴の音を荒く響かせて出ていった。

 閉じた扉の奥で、永田は万年筆のキャップを静かに閉めた。

 

 昭和十一年二月二十五日。

 二十三時。

 伊吹山麓。

関ヶ原。

 マイナス十度の極寒。

 二日前から「機動演習」の名目で先発した辻率いる陸上切り込み隊五百名と、三井物産が裏手配したトラック七十台は、中山道の狭隘部で完全に足をとられていた。

 地吹雪が視界を奪う。

膝を越える深雪にタイヤが空転し、焦げついたガソリンの臭気と馬糞、そして凍傷で黒く腐りかけた指をさする男たちの荒い息が白く乱れる。

東北の農村から駆り出された初年兵たちは、藁の粉を混ぜた冷え切った握り飯を黙々と噛み、ガタガタと膝を震わせていた。

「辻隊長。

車列が完全に頓挫しております。

このままでは夜明けまでに大垣へ抜けられません」

 先頭車両の助手席で、辻は冷えた軍刀の柄をギチギチと握りしめていた。

歯の根がけたたましく鳴る。

「構わん。

時刻はまもなく零時十分。

羽田から九二式が飛び、駿河湾からは三井の輸送船二隻、二千五百が迫っておる。

予定通り天保山へ入る」

 辻の血走った眼孔には、計算の狂いを認めぬ頑なさだけがあった。

 

 二月二十六日。

 午前零時十分。

 東京。

羽田。

 多摩川河口の湿った潮風と叩きつける冷たい雨のなか、その異形が鈍い灰色の光を放っていた。

 全備重量二十八トン。

波型ジュラルミンの外板を打ちつけた武骨な巨躯――九二式超大型重爆撃機四機。

本来の規定全備重量二十八トンを優に二トン超過していた。

腹下の正規爆弾倉には、倉庫から横流しされた二百五十キロ爆弾と百キロ破壊爆弾がギチギチに懸吊されているだけではない。

全幅四十四メートルの巨大な主翼内部、かつて旅客用部屋として設計された翼内空間の床板にまで、麻縄と土嚢で固縛された二一式五十キロ航空爆弾が積み上げられていた。

それだけにとどまらず、過激派将校らは機体通路の床にドラム缶詰めの揮発油親父爆弾、被覆手榴弾を十把ずつ束ねた簡易投下爆薬、さらには四一式山砲の榴弾箱を、床板が撓むほど乱雑に積み込んでいた。

客室窓から人力で手押し投下するための、殺意の泥縄式兵器群である。

 粗悪な国産ガソリンの甘ったるい臭気と切削油の匂いが立ち上るなか、一番機が過荷重の悲鳴を上げて滑走を始めた。

だが、未舗装の粘土層を踏み抜いた瞬間――。

 ――メリメリッ、バチバチバチッ!

 車輪脚が根元からへし折れ、右主翼が粘土へ突っ込む。

漏れ出た燃料に火が回り、雨の羽田をどす黒い炎が染めた。

「出せ!構わず飛べ!」

 二番機から四番機のパイロットたちは黒煙を突き抜け、悲鳴を上げるユンカース発動機をしごき上げて夜空へ躍り出た。

 高度はわずか一千メートル。

劣悪な燃料と重量過多で、それ以上は上がらない。

箱根の山塊を越えられぬ三機は、相模湾から駿河湾へ抜けるルートへ低空で蠢き出す。

 

 午前一時二十分。

 駿河湾上空。

 高度一千メートルを這う三機の暗雲の上、はるか二千メートル上空を並走する四発飛行艇「白鶴一型」。

 機内には、焼けつく真空管の熱気とベークライトの臭気が充満していた。

機首と翼下に据え付けられた試作アンテナから引き込まれた配線が、脈動するブラウン管へと繋がっている。

 エンジンの振動で緑の波形が激しくブレた。

「チッ、また障害か」

 電探士がダイヤルを繰る。

焦げたハンダの匂いが鼻を突く。ブラウン管に現れる緑の山は曖昧で、単体では敵機か雲の塊かすら判別できぬ不完全な測定具にすぎない。

脇には大石和三郎が弾き出した気象数値の用紙が置かれている。

「風向北北西、気圧千四ヘクトパスカル。

……目標の速度と経路から、箱根越えの南端進路『空間座標X』への到達時刻を逆算する」

 電探士の指が打鍵器を叩いた。トトト、トン、トトッ。

 白鶴が送るのは現在の位置ではない。

目標が数分後に通過せざるを得ないボトルネックへの『到達予想時刻』と『気象補正値』だ。

不完全な機械を人間の算律で補う暗号打鍵音は、駿河湾沖に潜む重巡『妙高』『足柄』の電信室へ送られる。

『妙高』艦橋。

「見えません。

暗闇で目標視認不可」

 見張員の報告に、艦橋奥の山本五十六が静かに応じた。

「……石原君の見立て通りだな。

見張員、双眼鏡を下ろせ。

電信の数字だけを拾え」

 白鶴からの未来予測データが電信室で復号され、九四式高射指揮装置の真鍮の歯車がカシャカシャと乾いた音を立てて回転した。

 一分後における目標の空間座標Xと、現在の風向、風速が噛み合い、機械式計算盤が照準角度を算出する。

敵機がまだ数キロ手前を飛んでいる段階で、重巡の砲門はすでに無人の夜空の「一点」を捉えて静止していた。

 山本は伝声管へ短く命じた。

「高度一千。

高角砲、信管時間設定。

座標Xへ箱型弾幕を固定。

……撃て」

 タタタンッ! タタタンッ!

 夜の駿河湾を切り裂く連続射撃。

 九二式の乗員は何が起きたのか理解できなかった。

直撃弾はない。

だが、予定通り座標Xへ差し掛かった暗闇の目前で一斉に炸裂した高角砲弾から、強烈な過圧と熱風の乱気流が押し寄せた。

 ――ドゴォォォォンッ!

「翼が……揚力が消える!」

 限界ギリギリの過荷重で喘ぐ九二式の巨躯を過圧が叩いた。

全幅四十四メートルの主翼上面から気流を一瞬で剥離。

三機の重爆は空の足場を完全に失い、エンジンがノッキングを起こして沈黙した。

 浮力を奪われた二十八トンの鉄塊は、キリモミ状態となってどす黒い海面へ次々と激突した。

 ズドォォォンッ!

 激しい水柱が上がり、波間に黒い油火が広がる。

姿すら見ぬまま、重爆三機は深海へ没した。

 午前一時五十分。

 駿河湾沖。

「飛行機が落ちたぞ!

海で何かが燃えている!」

 三井の手配した二隻の輸送船。デッキの二千五百の東北初年兵が、遠くの火柱を見てざわついた。

 その時、探照灯の太い光線が二隻を丸裸に照射した。

 ズドォォォォンッ!

『妙高』の二十センチ主砲が放った威嚇砲撃が、先頭輸送船の船首五十メートルの海面を突き破る。

 ドバァァァァンッ!

 巨大な水柱と爆風が舟腹を叩き、船体が激しく傾いた。

甲板の兵卒たちが転がり、生臭い嘔吐物を吐き散らす。

 スピーカーから冷ややかな声が響いた。

『全機機関を停止せよ。

従わねば二発目は舟腹に叩き込む』

 二十センチ砲の砲身が二隻を完璧に捕らえていた。

「船を止めろ。機関停止だ」

 輸送船は一発も撃つことなく、その場で機関を止めた。

 

 午前二時三十分。

 伊吹山麓。

関ヶ原。

「……来ん。なぜ来ん」

 辻は雪の中に膝をつき、血の滲む指で腕時計を見つめていた。

 決起から二時間以上が経過していた。

空を払う重爆の音も、海からの増援も届かない。

 マイナス十度の冷気が軍服を通り抜け、五百の兵卒は雪の中で震える肉の塊となっていた。

 その時――。

 シュシュシュシュ……ゴーッ!

 関ヶ原駅の構内から、激しい蒸気音が響いた。

 国鉄から徴用されたキ一〇〇形ラッセル車と九六〇〇形蒸気機関車が、積雪を跳ね飛ばしながら貨物ホームへと突入してきた。

「列車……?」

 辻が目を見開いた瞬間、駅からなだれ込んできたのは整然と並ぶ歩兵の群れだった。

 阪急技研の軽量スチールフレーム製カンジキと防寒靴を装備した第四師団と第十六師団五千の歩兵。

彼らは横一列に並び、深雪をあっという間に踏み固めていく。

 三十分で関ヶ原駅から中山道沿いへ続く「圧雪路」が構築された。

 完成した氷の道に現れたのは――。

 ガガガガガッ……!

 九四式軽装甲車十両。

 履帯にボルト留めされた防雪爪が、五千の兵が踏み固めた圧雪を無残に噛み砕き、重低音の地響きを立てて進撃してくる。

 シュァァァァンッ!

 照明弾が上がり、防寒装備を整えた五千の兵と十両の装甲車に全周を包囲された辻たちの姿が浮かび上がった。

「射撃体勢」

 重機関銃が一斉に銃口を向けた。

 ダダダダダダダダダダッ!

 頭上を薙ぐ威嚇射撃。

兵たちは銃を投げ打ち、頭を抱えて雪の中に伏せた。

「降伏する! 撃つな!」

 戦闘は三分で終わった。

四百名以上がその場で拘束された。

 辻は軍服を泥で汚し、冷え切った唇を噛みしめた。

軍刀を雪の中に捨てると、無言で集落の陰へ身を躍らせた。

 農家の軒下に飛び込んだ辻は、荒い息を吐きながら吊るされた藁かんじきをひったくった。

感覚のない指で軍靴に縛り付け、裏手の薪運搬用竹ソリにしがみつく。

 追撃の足音が迫るなか、辻はソリごと伊吹山の急斜面へ転がり落ちていった。

竹がしなり、顔面に氷の粒が叩きつけられる。

泥混じりの唾液を吐き散らしながら、ソリが雪を削る鋭い音とともに暗闇の深林へ消えていった。

 

 翌朝。

 午前六時三十分。

 東京。

三宅坂。

陸軍省軍務局長室。

 永田鉄山は、デスクに届いた第一報に静かに角印を押した。

 ――ズシ。

『東海道機動演習における大規模雪害ならびに資材引火事故第一報』

 添付された処理手書には、第四師団工兵隊が収容を進め、名簿を消された二千九百名の生存者を白鶴の大型輸送機と列車で北樺太オハ油田守備隊および奉天警護隊へと極秘裏に転属させる旨が記されていた。

陸軍の通常編成表から抹消され、阪急資本の「特別手当枠」へ付け替えられる。

東北の実家には通常の三倍の給与が毎月振り込まれ、遺族も役場も「特務部隊への栄転」として処理された。

 過激派の勢力は陸軍の編成表から物理的に消滅した。

 破綻した三井の負債と東希航空の残骸は阪急資本が紙くず同然の価格で買収し、白鶴の基盤として組み込まれた。

羽田の飛行場施設は陸軍軍務局の統制下へ無償譲渡され、資本と軍政の双方が処理を完了した。

「次の案件を」

 永田は万年筆のインクを紙で拭い、静かに秘書官へ命じた。

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