昭和十一年三月。
大阪城内。
陸軍第四師団長室。
重厚な黒漆喰の壁に囲まれた室内の大窓からは、春の薄霞に煙る大阪の街並みと、遠く天保山へ向かって高架を滑るように走る、マルーン色の阪急電車のモダンなシルエットが見えていた。
部屋の中央、深々と沈み込む革張りソファーに、陸軍省軍務局長、永田鉄山少将が腰掛けていた。
彼の軍靴の底には、今朝がた巡回してきた天保山築港の海水と、住友金属桜島工場の鋳造スラグの灰色の粉塵が、かすかにこびりついて乾いていた。
永田はテーブルの上に置かれた阪急百貨店の銀紙包みの高級洋菓子には指一本触れず、ただ手元の冷めきった白湯の磁器カップを見つめている。
「……見事な手際だったな、石原」
永田の声は、氷の塊を削り落とすように冷たく、低かった。
「伊吹山と駿河湾での『処理』のことだ。
辻の狂犬どもも、三井が抱えていた九二式重爆という不良在庫も、二分五十秒で綺麗さっぱり消え失せた。
……西の火力と八木の指向性無線、実に素晴らしい兵站だ」
部屋の隅、懐から取り出した黒い素朴な数珠を指先で弄っていた石原の手が、ぴたりと止まった。
ジャリ……と、小さな木珠の擦れ合う音だけが静寂に響く。
「……何が処理です。
三宅坂の不穏な動きを教えてくれたのはあなただ、永田さん。
おれたちはただ、上空から降ってきた不快な火の粉を払っただけだべ」
「ふっ……」
永田の細い喉から、乾いた掠れ声が漏れた。
「すっとぼけるな。
……辻を煽り立て、三井の残存物資を巻き込ませて東海道へ解き放ったのは私だ。
お前という男なら、あの無線と駿河湾の艦砲で、一粒子も残さずすり潰すと分かっていたからな」
石原の瞳の奥が、恐ろしいほどの鋭利さを帯びて細まった。
「……東の過激派と三井の赤字を一度に殺処分するために、おれたちを使いたおしたか」
「陸軍の癌と三井の負債を処刑するには、お前の作り上げた西飛行艇文明という『鉄の金槌』が必要だったのだ」
永田は静かに白湯のカップを置くと、窓の外――天保山の方角を顎でしめした。
「今朝、天保山の着底浮体堡頭(ふたいほとう)を見てきた。
『扶桑』の旧主砲塔を撤去し、四千トンの重油槽と八木式電波探信儀、阪急の送電線を繋ぎこんだ巨大要塞……
実に見事な条約潜脱(せんだつ)だ。
ついでに住友の軽合金冶金工場と、白鶴の天保山拠点の給油施設もな」
永田は胸ポケットから一通の公文書を取り出し、テーブルの黒革の上に投げつけた。
「本題だ、石原。
西日本は大きくなりすぎた。
これ以上の私設国家の野放しは許さん。
貴様の役目はここで終わりだ。
……来月付で東京の参謀本部へ戻れ。
西日本が築いた白鶴航空網、天保山拠点、住友のジュラルミン錬成、北樺太の直行油田、満洲の大豆兵站……
これらすべては内閣に新設する『国家統制院』の傘下に置く。
逓信省、商工省、大蔵省の航空、電力、金融権限をすべて引き抜き、陸軍軍務局が主導する全国家総動員体制へと強制的に組み込む」
ずしん、と目に見えぬ重圧が部屋全体を押し潰した。
「断る!」
石原は数珠を胸ポケットにしまい込み、膝の上に置いたメモ帳に小さな鉛筆をガツンと叩きつけた。
「西の仕組みは小林さんや住友、海軍と命がけで作った精密な兵站だ。
官僚どもの泥臭い書類仕事の手垢をつけさせる気はねぇ」
「……補職の内示だ。
拒否権はない」
死のような静寂が落ちた。
石原はゆっくりと鉛筆を置くと、ふっと力なく肩の張りを抜き、頭をポリポリと掻いた。
心底困り果てたような、白々しい父親の顔を作ってみせる。
「……参ったな。
三宅坂の頂点に立つあなたに内示を出されちゃ、一軍人に拒否権はねぇべ。
だがな……永田さん。
頼む、時間をください。
……娘の学校の環境が今、一番大事な時期なんです。
小林さんが作ってくれた『白鶴女子技芸学院』の高等本科を終えるまで……
あと二年。
あと二年だけ、おれをこの大阪に置いといてください」
永田の丸眼鏡の奥の瞳が、冷たく据わった。
「白鶴の学院など、国家統制の過程で即座に解体・再編の対象だ。
……それに、時子の尋常小学校卒業は来年三月だろうが」
ペテンを見抜かれ、石原は苦虫をかみつぶしたような顔で黙り込んだ。
しかし、永田は眼鏡のふちを静かに押し上げた。
東京の大蔵省、商工省、逓信省の官僚群を力で叩き伏せ、法理を整えて西の巨大私設兵站を完全に『国家統制院』へ解体統合するまでに必要な行政時間——。
永田の唇の端が、わずかに吊り上がった。
「……いいだろう。
あの『世界の石原』が、娘の学校のために頭を下げるか」
永田はゆっくりと立ち上がった。
「二年だ。
……昭和十三年三月。
娘の卒業と引き換えに、お前と西日本のすべてを貰う。
それまでに、国家統制院への引き継ぎの盤面を綺麗に整えておけ」
「……へいへぃ。
おぉきにぃ、軍務局長殿」
石原はペコリと頭を下げた。
永田がドアノブに手をかけ、去り際に止まる。
「石原。
お前は二年を稼いだと思っている」
「……」
「私は二年を与えたと思っている」
重厚なオーク材の扉が、カチリと冷たい音を立てて閉まった。
その瞬間。
石原のへらへらとした父親の笑みが、一瞬で蒸発した。
眼をぐっと押し上げると、底知れぬ冷酷さを湛えた瞳で、窓の外の天保山を見据えた。
「……小林さんに電話だ。
期限は『二年』」
石原の口元に、凶悪なまでの不敵な笑みが浮かんだ。
「二年もあれば……
国家統制院なんぞに呑まれねぇ、絶対の『城』を打ち立てる」