池田。
雅俗山荘。
落成を目前に控えた新棟の茶室「即庵」。
無垢の杉柱から木肌の匂いが立ちのぼり、洗いたての畳と白檀の甘い香が静かに満ちていた。
庭の紅梅の枝越しに、阪急宝塚線の乾いた鉄輪音が
「タトン、タトン」
と遠くかすかに鼓膜を揺らす。
炉に掛けられた小釜から、松風の音が幽かに響く。
小林一三は竹の柄杓を静かに持ち上げ、汲み上げた湯を茶碗へ落とした。
茶筅を振る繊細な音だけが静寂を刻む。
「……時ちゃん、学校はどうです?」
小林がふと細めにした目を向けると、杉柱に背を預けていた石原莞爾の顔筋が、途端にふにゃりと崩れた。
膝の上の太い拳をぎゅっと固く握りしめ、だらしのない父親の笑みがこぼれ落ちる。
「近所の子らと走り回っております。
最近は大石先生と、エスペラントの怪しい集まりに頻繁に顔を出して……弱りました」
「目に入れても痛くない顔してはる」
小林は薄緑の泡が立った茶碗を石原の前へ滑らせた。
「うちにあの子を預けた四歳のときのこと、覚えてますか。
不揃いな積木を撥ねのけて、同じ白い立方体だけを『みんないっしょ』と一直線に並べた。
あの冷や汗が出た秩序……。
異物を排し規格で世界を揃える直感こそ、うちの養成所の原点であり、資本主義の最も美しい調和なんです」
茶碗を持ち上げ、ふっと白い湯気を吹き飛ばす。
「……で、永田さんは『二年後に西日本を丸呑みする』とおっしゃいましたか」
石原の顔から、へらへらした笑みが消えた。
ズリ……と数珠を指で繰る乾いた音が鳴り、眼鏡の奥の瞳がすっと冷たく澄み渡る。
「本気です。
駿河湾で辻の狂犬どもと一緒に三井の爆撃機を鉄くずに変えて、三井を死に体に追い込んだ。
あの男は邪魔者を一括殺処分しながら、東の利権をあらかた掃除した。
次は国家命令という鉄の金槌で、おれたち西の仕組みを叩き潰す気だ」
「潰させませんよ」
茶碗の縁越しに、小林の目が細められた。
「今朝、宇治川電気と住友、川崎の間で、ある特殊な連動契約を結びました」
「契約……?」
「永田さんが『国家総動員』の紙切れ一枚でうちの変電所や製鋼所に足を踏み入れた瞬間、技師たちが遮断器の絶縁油を一斉に抜き、周波数同期回路を物理破砕する手順を整えました。
関門海峡の送電も、北陸からの基幹電力も一網打尽に途絶する。無理にこじ開ければ、東へ送られる電力と物資は即座に完全停止……
首都圏の工場網は一夜でただの巨大な置物と化す」
小林は茶を一口含み、静かに器を置いた。
「三菱の岩崎さんからも返答が来ました。
『うちは機体争いからは降りる。だが、三菱の金星エンジンがなければ西の白鶴も東の軍用機も一歩も動かん』とね。
……法や所有権などの紙細工はあの男の前には通用せん。
だから物理的な毒を仕込んでおいた。
あの陸軍の天才に、東日本の産業を全滅させてまでうちを呑み込む覚悟がおありですかね」
「……クックック」
石原の喉の奥から、邪悪な低音が漏れた。
「えげつねぇ……。
小林さん、資本家ってのは陸軍の参謀よりよっぽどタチが悪いですな」
「二年です、石原さん。
二年で国家の手が届かん『資本と構造の城』を完成させましょう」
東京。
三宅坂。
陸軍省。
軍務局長室。
冷え切った雨が窓ガラスを強く叩いていた。
室内を満たすのは、湿ったインクの匂いと、卓上のガラス試験管から漂う、鼻を刺す強烈な芳香族炭化水素と煤の生臭い臭気。
永田鉄山中将は、褐色の液体が底に溜まった試験管を光に透かしていた。
「……これが、石炭から引いた液化ガソリンか」
「はっ」
直立する軍事課の中佐が、固く口を結んで答えた。
「常磐の低品位炭に高圧水素を叩き込みました。
……オクタン価八十七。
大型爆撃機の燃料として、実用域に達しております」
だが、永田の表情はピクリとも動かない。
冷酷な眼光が中佐を射抜いた。
「で、勿来の実験室で炉が吹き飛んだ件はどうなった」
中佐の背筋が跳ね上がった。
「……はっ。
四百気圧、五百度の過酷条件に耐え切れず、合成塔が水素脆化を起こして裂開……
二名が即死いたしました。
住友が握る超高圧の大型鍛造技術と自由鍛造鍛造機がなければ、これ以上の高圧配管と反応塔の製造は不可能です」
「だと思ったよ」
永田は試験管をラックへ戻した。
カチン、とガラスの乾いた音が響く。
「小林は西の電力と鍛造技術を人質にして、こちらを牽制しているつもりだろう」
永田は万年筆を取り出すと、デスクの上の地図を指で強く突いた。
「日産の鮎川を呼べ。
日立の重電機と工作機械、日産の自動車鍛造工程、ならびに常磐炭田の採掘権をすべて陸軍直轄とする。
住友が囲い込んでいる鍛造職人と圧延機は、軍事試作の名目で人間ごと強奪して東へ移植しろ」
「しかし局長、小林が電力網の物理破壊を盾に突っぱねてくれば……!」
「構わん。
東京電灯の独立網で直結する。
西の電力が途絶えようが関係ない。
来年度議会で統制法を通し、全国の高圧設備を軍の直轄とする。
十六歳以上の男女全員を義務練成へ組み込み、接収した設備で高圧配管を扱える精密技術者を養成させる」
「な……!? 女子や民間企業まで……!」
「総力戦に男も女も、官も民もない」
永田はデスクの端にあった名簿を引き寄せ、中佐の前へ投げて寄越した。
「三宅坂で神国などと寝ぼけた精神論を叫ぶ過激派の生き残りどもは、全員この技術練成院へ叩き込め。
常磐の配管現場へ送り、毎日『測微計』を持たせて三微米(ミクロン)単位の公差計算と無縫鋼管の肉厚検査に埋め殺せ。
数字の地獄に沈めておけば、反乱などを起こす暇もない」
「は……はっ!」
永田はゆっくりと立ち上がり、雨に濡れる皇居の森を見下ろした。
「石原は娘の卒業を盾にして二年を稼いだつもりでいる。
小林も自らの構造を城に仕立てたつもりだろう。
……甘い」
デスクの上の「昭和十三年三月」の文字。
その上に、万年筆の赤インクが太く、重く、二重の円を描いて叩きつけられた。
「二年、我が国はアメリカの油に頼らぬ『黒油と鉄の無人工場』へと変貌する。
小林の城ごと、国家の胃袋の中に呑み込む」