白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十四章『台北』(1936年 6月)

天保山、十三階の天空サロン。

 ウイスキーの氷が、乾いた音を立てて倒れた。

 半開きの鉄枠の隙間から滑り込む安治川の生ぬるい潮風が、重く立ち込めるタバコの煙を巻き上げていく。

灰色の煙が幾層にも揺れ、白漆喰の壁に背をあずける時子の、小さな足元を撫でて消えた。

「台湾の仕込みは、我が海軍の井上と、小林躋造に任せる。

裏の鍵はすべて渡した」

 米内光政の低い声に、白い夏用軍服の第一ボタンを緩めた山本五十六が太い首を回した。

その視線が一瞬だけ、微動だにせず佇む時子の真っ直ぐな瞳と交差し、逸れる。

 小林一三は真鍮の丸眼鏡を外し、白布でゆっくりとレンズを磨いた。

「連れていきます。

……石原君は、数珠を握りつぶさんばかりの顔をしておったがね」

 布を畳む一三の指先が、わずかに止まる。

「奥方がな……

『どんな恐ろしいものを見て帰ってまいりましても、私がこの子の着物を洗い、温かいお粥を食べさせますから』と。

……畳に額を擦り付けられた。

あの女(ひと)は、石原君よりよっぽど肚が据わってはる」

 山本の喉が深く鳴り、米内は無言のままグラスをあおった。

 時子は何も言わず、ただ手垢で擦り切れた自身の浴衣の裾を、小さな拳で強く、強く握りしめた。指関節が白く浮き浮きと浮き上がる。

安治川の濁った水面を、重油の匂いを吐き出す汽船が静かに滑り出していった。

 『白鶴一型』の機内は、南へ向かう重い湿気と、気化しきれないガソリンの匂いに満ちていた。

 四発のエンジンが低く太い唸りを上げ、高熱の排気が機肌の鋲を叩く。

気圧の小刻みな変化に、骨組みが不気味な軋みを返した。

操縦席の隔壁越し、若い操縦士の首筋を、ひとすじの汗が服の襟へと吸い込まれていく。

沈みゆく血のような夕陽の中を、機体は錦江湾の暗い水面へ向かって落ちるように高度を下げた。

 鹿児島。

海軍宿舎の畳の上。

 湿った波音が柱を揺らす裸電灯の下で、一三が羊革の帳簿を広げた。

革の匂いと、古いインクの匂いが混じり合う。

「時ちゃん。

これが台湾専売局の、砂糖と樟脳の数字や」

 時子は膝を折り、小さな指先を毛筆の文字になぞらせた。

濃い黒目が、恐ろしいほどの密度で収縮していく。

「……おっちゃん。

この砂糖の数字、おかしい」

「ほう?」

「台北で船に乗せたときの目方と、神戸で降ろしたときの目方。

……湿気を吸った分だけ、数字が増えてる」

 時子は帳簿から指を離し、脇に置かれた麻袋の口に手をつっこんだ。

指背に触れる、湿って固まった粗い砂糖の感触。

指先から立ち上る甘くねっとりとした匂いに、時子の喉が小さくひくついた。

「……砂糖が増えたんとちゃう。水が増えただけや。

なんで、水のお金まで払わされてるん?」

 時子の鎖骨のくぼみが激しく上下した。

小さな唇が引きつり、喉の奥から込み上げる酸っぱい吐き気を耐えるように、小さな歯を固く噛み鳴らす。

「……気持ち悪い。胸が、むかつく」

 一三は万年筆を置き、歪んだ笑みを口元に浮かべた。

畳の端の蚊取り線香から、細く青い煙が天井へ向かってまっすぐに伸びていた。

 翌朝。

東シナ海の水平線を飛び越え、淡水川の河口へ着水する。

 台北鉄道ホテルの応接室は、熱帯のスコールがガジュマルの葉を激しく叩く音で満たされていた。肌に張り付く汗と泥の湿気が、革張りのソファーに重く沈み込む。

 小林躋造が、太い指で挟んだ葉巻をくわえた。

濁った煙を吐き出すと、葉巻の先の白い灰がぽろりと落ち、卓上の台湾地図の上に崩れた。

「一三さん。

海軍が総督府を握る。

三宅坂のイタチも憲兵も、この島に指一本触れさせんけぇのう」

 安芸弁の粘りつくダミ声が、湿った空気を揺らす。

躋造は灰の落ちた地図の上の白点を見つめたまま、一三を舐め回すように横目で見遣った。

 一三は無言のまま万年筆のキャップを外し、地図上の淡水川河口から台北栄町までを、灰を押し潰しながら黒いインクで一直線に引き裂いた。

「港も、電車も、ホテルも。

すべて海軍の予備施設として阪急が買い上げます。

……代わりに、専売局の数字をうちの流通勘定に繋がせてもらう。

三宅坂が骨身を削っておるときに、うちらだけは南の海で、確実な血を吸い上げます」

 躋造の目から光が消えた。

落ちた灰を太い指で擦り擦り揉み消しながら、薄い唇を歪める。

「ええ度胸じゃのう。

特別会計も暗号金庫も、裏の予算ごと骨までしゃぶり尽くしてみせい」

 スコールが上がり、ぬかるんだ土から猛烈な熱気が立ち上る栄町のアーケード建設現場。

 井上成美は、純白の夏用軍服に一粒の泥も撥ねさせることなく、ミリ単位の狂いもない歩調で歩いていた。

右手の日傘が、時子の小さな頭上に正確な影を作り続けている。

 ぬかるみの中、作業服を着た男たちが汗と泥に塗れて枕木を叩き込んでいた。

かつて三宅坂で南進強硬論を吐いていた元参謀たちだ。

叩きつけられるハンマーの重い音が泥を跳ね上げる。

男たちの殺気だった視線が井上の白い背中に突き刺さるが、井上は一瞥も与えず、歩幅すら変えない。

 ふと、井上は日傘の柄を握る白手袋の角度を変えた。

時子の首筋に浮いた汗と、浅く乱れる息遣いに気づいたからだ。

「……時子さん。

湿気が強いようです、涼をとりましょう」

 喫茶店の暖簾を潜ると、冷気とともに磨かれた磁器の擦れ合う音が響いた。

 運ばれてきた深鉢の挫氷。

甘酸っぱい鳳梨の香りと、漆黒の粉円が敷き詰められている。

「どうぞ」

 差し出された銀のスプーンを握り、時子は氷を口に運んだ。

冷たさが喉を駆け抜け、一瞬だけ表情が緩む。

「んー!最高ぅ!」

 だが、二口目を噛みしめた瞬間、時子の顎が硬直した。

 奥歯の先で砕ける硬い粒と、舌の上ですべり落ちるふにゃふにゃとした不揃いな感触。

時子は眉間に深い溝を刻み、銀のスプーンを器の縁に静かに置いた。

「……おっちゃん。

この黒いの、大きさが揃ってへん」

「そうですか?」

「硬いのと柔らかいのがある。

噛むたびに違うし……気持ち悪い」

 時子はそのまま、店の外へと視線を投げた。

スコールを避けるため、軒下に群がる人々の足元。

ぬかるみへとはみ出し、肩を寄せ合う影。

「あそこ。

雨宿りの場所の形が、人間の数と揃ってへん。

……溢れてる」

 井上成美の喉が、引き結ばれた。

 白手袋の手が胸ポケットから革の手帳を引き抜く。

金ペンが走る。

紙面を破らんばかりの強烈な筆圧。

ガリ、と紙が引き裂かれかける乾いた音が店内に響いた。

 パチン、と手帳が閉じる。

井上の瞳の奥に、血の通わない無機質な計算の光が宿っていた。

 井上は店を出ると、ぬかるみの中でハンマーを握る元参謀の前に立ち止まった。

見下ろす視線に一切の感情はない。

「庇の出幅を三メートル拡大。

アーケードを十一メートル延伸させなさい。

明朝までに」

 男の顔が怒りで引きつるが、井上はすでに背を向けていた。

手帳を握りしめる白手袋の指先が、微かに震えている。

 淡水川の濁流を見下ろす高台。

 跳ね上がった赤土が、井上の白い軍靴の爪先をわずかに汚した。井上は眉一つ動かさず、ただ静かに北の空を見つめている。

 栄町に敷かれたばかりの、阪急台北線の無機質な軌条。

 時子は鉄の線の真ん中に立ち、地平線へと続くレールを見つめた。

「……おっちゃん。

ここ、人間も街も、大阪より綺麗に揃えられそうやね」

 井上成美は時子の斜め後ろ、正確に半歩の距離を取り、静かに頭を下げた。

「ええ、時子さん。

……雨も、人間も、資金も。

何ひとつ、詰まらせません」

 一本の軌条が、夕闇の迫る台北の街をどこまでも真っ直ぐに引き裂いていた。

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