天保山、十三階の天空サロン。
ウイスキーの氷が、乾いた音を立てて倒れた。
半開きの鉄枠の隙間から滑り込む安治川の生ぬるい潮風が、重く立ち込めるタバコの煙を巻き上げていく。
灰色の煙が幾層にも揺れ、白漆喰の壁に背をあずける時子の、小さな足元を撫でて消えた。
「台湾の仕込みは、我が海軍の井上と、小林躋造に任せる。
裏の鍵はすべて渡した」
米内光政の低い声に、白い夏用軍服の第一ボタンを緩めた山本五十六が太い首を回した。
その視線が一瞬だけ、微動だにせず佇む時子の真っ直ぐな瞳と交差し、逸れる。
小林一三は真鍮の丸眼鏡を外し、白布でゆっくりとレンズを磨いた。
「連れていきます。
……石原君は、数珠を握りつぶさんばかりの顔をしておったがね」
布を畳む一三の指先が、わずかに止まる。
「奥方がな……
『どんな恐ろしいものを見て帰ってまいりましても、私がこの子の着物を洗い、温かいお粥を食べさせますから』と。
……畳に額を擦り付けられた。
あの女(ひと)は、石原君よりよっぽど肚が据わってはる」
山本の喉が深く鳴り、米内は無言のままグラスをあおった。
時子は何も言わず、ただ手垢で擦り切れた自身の浴衣の裾を、小さな拳で強く、強く握りしめた。指関節が白く浮き浮きと浮き上がる。
安治川の濁った水面を、重油の匂いを吐き出す汽船が静かに滑り出していった。
『白鶴一型』の機内は、南へ向かう重い湿気と、気化しきれないガソリンの匂いに満ちていた。
四発のエンジンが低く太い唸りを上げ、高熱の排気が機肌の鋲を叩く。
気圧の小刻みな変化に、骨組みが不気味な軋みを返した。
操縦席の隔壁越し、若い操縦士の首筋を、ひとすじの汗が服の襟へと吸い込まれていく。
沈みゆく血のような夕陽の中を、機体は錦江湾の暗い水面へ向かって落ちるように高度を下げた。
鹿児島。
海軍宿舎の畳の上。
湿った波音が柱を揺らす裸電灯の下で、一三が羊革の帳簿を広げた。
革の匂いと、古いインクの匂いが混じり合う。
「時ちゃん。
これが台湾専売局の、砂糖と樟脳の数字や」
時子は膝を折り、小さな指先を毛筆の文字になぞらせた。
濃い黒目が、恐ろしいほどの密度で収縮していく。
「……おっちゃん。
この砂糖の数字、おかしい」
「ほう?」
「台北で船に乗せたときの目方と、神戸で降ろしたときの目方。
……湿気を吸った分だけ、数字が増えてる」
時子は帳簿から指を離し、脇に置かれた麻袋の口に手をつっこんだ。
指背に触れる、湿って固まった粗い砂糖の感触。
指先から立ち上る甘くねっとりとした匂いに、時子の喉が小さくひくついた。
「……砂糖が増えたんとちゃう。水が増えただけや。
なんで、水のお金まで払わされてるん?」
時子の鎖骨のくぼみが激しく上下した。
小さな唇が引きつり、喉の奥から込み上げる酸っぱい吐き気を耐えるように、小さな歯を固く噛み鳴らす。
「……気持ち悪い。胸が、むかつく」
一三は万年筆を置き、歪んだ笑みを口元に浮かべた。
畳の端の蚊取り線香から、細く青い煙が天井へ向かってまっすぐに伸びていた。
翌朝。
東シナ海の水平線を飛び越え、淡水川の河口へ着水する。
台北鉄道ホテルの応接室は、熱帯のスコールがガジュマルの葉を激しく叩く音で満たされていた。肌に張り付く汗と泥の湿気が、革張りのソファーに重く沈み込む。
小林躋造が、太い指で挟んだ葉巻をくわえた。
濁った煙を吐き出すと、葉巻の先の白い灰がぽろりと落ち、卓上の台湾地図の上に崩れた。
「一三さん。
海軍が総督府を握る。
三宅坂のイタチも憲兵も、この島に指一本触れさせんけぇのう」
安芸弁の粘りつくダミ声が、湿った空気を揺らす。
躋造は灰の落ちた地図の上の白点を見つめたまま、一三を舐め回すように横目で見遣った。
一三は無言のまま万年筆のキャップを外し、地図上の淡水川河口から台北栄町までを、灰を押し潰しながら黒いインクで一直線に引き裂いた。
「港も、電車も、ホテルも。
すべて海軍の予備施設として阪急が買い上げます。
……代わりに、専売局の数字をうちの流通勘定に繋がせてもらう。
三宅坂が骨身を削っておるときに、うちらだけは南の海で、確実な血を吸い上げます」
躋造の目から光が消えた。
落ちた灰を太い指で擦り擦り揉み消しながら、薄い唇を歪める。
「ええ度胸じゃのう。
特別会計も暗号金庫も、裏の予算ごと骨までしゃぶり尽くしてみせい」
スコールが上がり、ぬかるんだ土から猛烈な熱気が立ち上る栄町のアーケード建設現場。
井上成美は、純白の夏用軍服に一粒の泥も撥ねさせることなく、ミリ単位の狂いもない歩調で歩いていた。
右手の日傘が、時子の小さな頭上に正確な影を作り続けている。
ぬかるみの中、作業服を着た男たちが汗と泥に塗れて枕木を叩き込んでいた。
かつて三宅坂で南進強硬論を吐いていた元参謀たちだ。
叩きつけられるハンマーの重い音が泥を跳ね上げる。
男たちの殺気だった視線が井上の白い背中に突き刺さるが、井上は一瞥も与えず、歩幅すら変えない。
ふと、井上は日傘の柄を握る白手袋の角度を変えた。
時子の首筋に浮いた汗と、浅く乱れる息遣いに気づいたからだ。
「……時子さん。
湿気が強いようです、涼をとりましょう」
喫茶店の暖簾を潜ると、冷気とともに磨かれた磁器の擦れ合う音が響いた。
運ばれてきた深鉢の挫氷。
甘酸っぱい鳳梨の香りと、漆黒の粉円が敷き詰められている。
「どうぞ」
差し出された銀のスプーンを握り、時子は氷を口に運んだ。
冷たさが喉を駆け抜け、一瞬だけ表情が緩む。
「んー!最高ぅ!」
だが、二口目を噛みしめた瞬間、時子の顎が硬直した。
奥歯の先で砕ける硬い粒と、舌の上ですべり落ちるふにゃふにゃとした不揃いな感触。
時子は眉間に深い溝を刻み、銀のスプーンを器の縁に静かに置いた。
「……おっちゃん。
この黒いの、大きさが揃ってへん」
「そうですか?」
「硬いのと柔らかいのがある。
噛むたびに違うし……気持ち悪い」
時子はそのまま、店の外へと視線を投げた。
スコールを避けるため、軒下に群がる人々の足元。
ぬかるみへとはみ出し、肩を寄せ合う影。
「あそこ。
雨宿りの場所の形が、人間の数と揃ってへん。
……溢れてる」
井上成美の喉が、引き結ばれた。
白手袋の手が胸ポケットから革の手帳を引き抜く。
金ペンが走る。
紙面を破らんばかりの強烈な筆圧。
ガリ、と紙が引き裂かれかける乾いた音が店内に響いた。
パチン、と手帳が閉じる。
井上の瞳の奥に、血の通わない無機質な計算の光が宿っていた。
井上は店を出ると、ぬかるみの中でハンマーを握る元参謀の前に立ち止まった。
見下ろす視線に一切の感情はない。
「庇の出幅を三メートル拡大。
アーケードを十一メートル延伸させなさい。
明朝までに」
男の顔が怒りで引きつるが、井上はすでに背を向けていた。
手帳を握りしめる白手袋の指先が、微かに震えている。
淡水川の濁流を見下ろす高台。
跳ね上がった赤土が、井上の白い軍靴の爪先をわずかに汚した。井上は眉一つ動かさず、ただ静かに北の空を見つめている。
栄町に敷かれたばかりの、阪急台北線の無機質な軌条。
時子は鉄の線の真ん中に立ち、地平線へと続くレールを見つめた。
「……おっちゃん。
ここ、人間も街も、大阪より綺麗に揃えられそうやね」
井上成美は時子の斜め後ろ、正確に半歩の距離を取り、静かに頭を下げた。
「ええ、時子さん。
……雨も、人間も、資金も。
何ひとつ、詰まらせません」
一本の軌条が、夕闇の迫る台北の街をどこまでも真っ直ぐに引き裂いていた。