秋の湿った風が、大阪城本丸の巨大な石垣を舐めて吹き抜けていた。
徳川の時代から変わらぬ巨石の隙間からは、腐葉土と苔の匂いが混じった冷気が立ち上っている。だが、旧第4師団司令部庁舎の横にある木造の託児所からは、安価な洗濯石鹸と赤ん坊のミルクの匂いが漂っていた。
「……時子さん、今日もご苦労様です」
銃を肩にした二人の衛兵が、少しだけ姿勢を正した。
時子が来ると、なぜか地下壕の空気が少し柔らかくなる。
兵隊たちにとっては、難しい帳簿や命令書よりも、重箱を抱えて歩いてくるこの小さな少女のほうが、よほど身近な存在だった。
時子も二人にぺこりと頭を下げた。
「吉川曹長。
これ、お母さんが作ったトコロテン。
皆で分けて」
「ハッ。感謝いたします」
十二歳になった時子は、紺色のセーラー服の裾を整え、漆塗りの重箱を差し出した。丸い頬には幼さが残るが、その瞳は深海のように澄み切っている。
曹長が慇懃に重箱を受け取るのを見届け、時子は地下階段の下り口へ向かった。
階段を下りるにつれ、湿ったコンクリートの冷気が肌を刺す。
厚さ数メートルの耐爆天井の下、薄暗い地下壕の奥では、電信機がカタカタと甲高い打鍵音を刻んでいた。
長机を囲んでいるのは第4師団の参謀だけではない。
第5(広島)、第12(小倉)、第6(熊本)の各師団から極秘裏に集まった参謀たちが、書類の山に埋もれている。
「……小倉の第12、筑豊炭田の優先給与枠を受領」
「姫路の第10、動員計画修正案は『大阪経理部の書類不備』名目で陸軍省へ送り返させました」
太い声が低く響く。
石原莞爾は息を深く吐き出し、眼鏡の奥の目を細めた。
「三宅坂の永田さんは、紙の上で全軍を動かせると思っている。
だが、兵隊の胃袋と家族の飯の種を握っているのは、東京の官僚ではなく、この大阪なのだ」
「とうちゃん。
小林のおっちゃん」
暗がりから時子が顔を出すと、地下室の殺気立った空気がふっと凪いだ。
「おぉ、時ちゃん。
日曜日やいうのに、父親(おやじ)の暗がりに付き合わされて可哀想になぁ」
小林一三が細い目をさらに細めた、その瞬間――。
地下階段の上から、革靴の冷たい足音が階段のステップを寸分の狂いもなく正確に刻んで響いてきた。
「石原中佐はおられるか。
軍務局からの至急指示である」
二人の憲兵を従え駆け下りてきたのは、三宅坂の軍務局で国家総動員計画の立案を担う統制派のエリート中佐だった。
歪み一つない軍衣、眼鏡の奥の鋭い眼光。
特急「燕」に揺られて8時間、紙の上の数字と統制で全軍を動かせるという絶対の自負を引っ提げて乗り込んできた男だ。
中佐は革の書類鞄から、ミリ単位の細字で埋め尽くされた分厚い書類を卓上へ叩きつけた。
「国家総動員法の先行適用に伴い、第4師管区内の民間鉄鋼、石油備蓄の即時強制徴発を実施する!
永田軍務局長の直命である!
直ちに署名を――」
参謀たちが立ち上がりかけたが、石原は微動だにしない。
時子は静かに卓上へ歩み寄り、色白の小さな指先で、「輸送日程表」と「減価償却費」の二箇所をトントンと軽く叩いた。
「……おっちゃん。
ここ、風と胃袋の計算、入ってへんよ」
静寂が満ちた。
「なんだ!このガキは!」
中佐が怒号を上げ、時子の襟ぐりを掴もうと手を伸ばした――その瞬間。
ガチリ、と冷たい鉄の音が響いた。
吉川曹長の手が、空中で中佐の腕を骨が軋むほどの力で鷲掴みにしていた。
「……ひッ!
貴様、上官に対し――」
佐藤が振り払おうとしたが、ピクリとも動かない。
吉川曹長をはじめ、地下壕を取り囲む叩き上げの下士官たちの目が、暗がりの中で爛々と殺気を孕んで光っていた。
全員が無言で腰の銃剣へ手をかけている。
「……中佐殿」
吉川曹長が、耳元で低い地鳴りのような声を流し込んだ。
「日本海の風で、舟は三日遅れます。
……飯のない日程に、現場の兵隊は一歩も動きません」
中佐の喉が、引きつった音を立てた。
三日遅れれば、八幡の原料が底を突く。
数字の端数を削った糧食枠では、港湾の荷揚げすら止まる。
自分が完璧と信じた動員票の裏で、巨大な高炉が冷えていく光景が脳裏をよよぎり、背中に冷や汗が吹き出した。
「経理部」
吉川曹長の鋭い声が飛ぶ。
「監査官殿に当師団の帳簿をお持ちしろ。
書き直されるまで、徹夜でお付き合いしろ」
「はッ!」
ドカン!
と数千枚に及ぶ大阪独自の複雑極まる修正帳簿の山が、中佐の目の前に叩きつけられた。
「不備をすべて修正されるまで、資材の引き渡しは不可能ですな」
小林が灰皿に葉巻をゆっくりと揉み消し、冷ややかに笑った。
中佐は膝の震えを必死に抑え、膨大な紙の山と下士官の軍靴の前に立ち尽くした。
夕暮れ。
大阪城天守台の巨大な石垣の上。
秋の冷たい潮風が、大阪湾の方角から吹き寄せていた。
天保山沖には、夕日に照らされた「白鶴」の大型飛行艇が静かに波間に浮かんでいる。
石垣の縁に腰掛け、重箱を開けた石原、小林、第四師団の皆々、そして時子。
「……ふう。
三宅坂のエリートどもは紙の上の数字しか見ん。
だから時子に一蹴されるのだ」
石原は言いながら、自分の皿へ竹筒から酢醤油をなみなみと注ぎ入れた。
山形育ちの石原にとって、トコロテンは酢醤油と辛子で流し込むものだった。
「まあ、永田さんも哀れなもんです。
西日本の船も、油も、兵隊の胃袋も、風の読み方すら、この子の頭の中に全部入ってるんですからな」
小林が笑いながら、もう一つの竹筒から甘い黒蜜を自分の皿にたっぷり回しかける。
だが、時子が自分の皿に黒蜜をかけようと竹筒を取った瞬間、カトンと虚しい音が響いた。
小林と石原の手元で、黒蜜の竹筒はすでに空っぽになっていた。
「……あ」
時子のトコロテンの上には、黒蜜の雫がほんの数滴落ちただけだった。
「とうちゃん。
小林のおっちゃん。
……かけすぎ」
「……む」
「わたしの分、ないやん」
時子の目が据わった。
丸い両頬が朱に染まる。
「……すまんの、時子。
とうちゃんの分、半分わげっが?」
石原が自分の皿を差し出したが、そこには酢醤油と辛子が並々と張られている。
「いらん!
とうちゃんの入れたら、せっかくの黒蜜に酢醤油が混ざって、味がぐちゃぐちゃになるやんか!」
眼を血走らせる時子の肩を、石原は苦笑しながらそっと抱きよせた。
もう幼い頃のように軽々と持ち上げることはできないが、その肩の温もりは確かに成長した娘のものだった。
「……一三さん。
明日、白鶴を飛ばしてください」
「満州へ行くんですな」
「はい。
山下先輩に会わねばなりません。大連と奉天、そして関東軍の動き……
西日本と満州を完全に一つに繋ぎ合わせる。
三宅坂が何を企もうと、手出しできぬ絶対の領域を作るためにです」
「分かりました。
大連までの定期便、一番良い席を用意させますわ」
小林が頷く横で、時子は下唇を尖らせたまま、父の麻の背広の袖をぎゅっと握りしめた。
「大連行ったら、固いあいすくりん。
溶けてへんやつ」
「……あぁ、わがった。
山下のおっちゃんさ、山ほど買わせっぺな」
夕闇が迫る天守台の下、大阪の街には、西日本の血が通った灯りがひとつ、またひとつと温かく点り始めていた。