天保山。
午前五時。
朝もやの漂う大阪湾の海面に浮かぶ『白鶴一型・性能向上型』の背が、朝日に銀の脂を光らせていた。
『阪急軍艦ホテル扶桑』のタラップを降りる石原の隣で、時子は激しくめくれ上がる紺のワンピースの裾を両手で必死に押さえ、身をかがめていた。
朝の冷たい潮風が、小さな足首を容赦なく叩く。
「時ちゃん、固いあいすくりん、山下さんに山ほど買ってもらいなはれや」
見送りに立った小林一三が可笑しそうに目を細め、胸ポケットの手帳を叩いた。
「うん、わかってる」
時子はぺこりと頭を下げ、白鶴のハッチへ吸い込まれていった。
黄海。
上空三千。
白鶴のサロンは、四基の発動機が奏でる低く引き締まった唸りに包まれていた。
革張りの長椅子で、京都帝国大学の老教授が図面を広げている。
時子はワンピースの膝の上に置いた小さな手帳をじっと見つめていた。
鉛筆も持たない。
口も開かない。
だが、教授の手元で踊る数式と図面を、黒目がちな瞳で寸分の狂いもなく追っている。
教授が手元を一瞬止め、補正値の計算に詰まった瞬間――時子の長いまつ毛がかすかに揺れ、小さな指先を図面の右下へ滑らせた。
教授が息を呑んだ。
未記述の補正値。
その数値を、時子は脳内ですでに弾き出していた。
(すべて入っている)
その横顔を、石原莞爾は静かに見つめていた。
時子の脳は、提示された知識の全貌を、まるで乾いた砂が水を吸うように飲み込んでいく。
「……結構だ」
石原は満足げに小さく息を吐き、冷えた紅茶に砂糖を落とした。
天保山を出て六時間。
離陸の振動の記憶も冷めぬうちに、大連湾の海面が眼下に迫った。
着水した白鶴は、そのまま滑るように岸壁へ向かう。
艦底を岩盤まで杭とコンクリートで縫い付けた『阪急軍艦ホテル山城』。
三万五千トンの鉄塊が、海へと突き出た要塞のように鎮座している。
水密扉が観音開きに開き、白鶴はガラス張りのターミナルの中へと滑り込んだ。
絨毯の敷かれたタラップを抜け、かつての副砲甲板をぶち抜いて作られた『阪急大連大回廊』へ足を踏み入れる。
アーチ状の強化ガラスから海光が降り注ぎ、高級洋裁店やカフェが立ち並ぶ。
大回廊の先には、前甲板の開口部を覆う『山城大劇場』が広がり、装甲鋼鈑の底からオーケストラの調べが重厚に響き渡っていた。
「あいすくりんのおっちゃん!」
吹き抜けの中央で、時子がパッと顔を輝かせた。
そこに立っていたのは、軍服姿の大男――関東軍の山下奉文少将である。
山下は厳つい顔をぐにゃりと歪めて破顔した。
「……覚えちゅうがか、お嬢」
「うん、よぅ覚えてる!」
山下はガハハと腹を揺らして笑い、分厚い手で時子の頭をごしごしと撫で回した。
その巨躯からは安煙草と汗、そして重油の匂いが濃厚に漂っている。
「でかくなったの」
背を正した山下に、石原が深く敬礼を返す。
「山下さん、お久しぶりであります」
「遠路ご苦労、石原。
……相変わらず冷たい面をしとるの」
時子は二人の間をすり抜け、ドーム屋根の下で唸りを上げる整備ドックを見下ろした。
ツナギを着た生徒たちが、油にまみれてエンジンのピストンを叩いている。
「おっちゃん」
時子は振り返り、ドックへ向かう無蓋トラックの列を指差した。
「この回廊の床、表面のセメント削れて下の鉄骨浮き上がってきてるやん。
トラックの生ゴム輪、ひと月でズタズタに裂けるわ。
港から駅まで荷が止まるよ」
山下は苦笑し、太い首を振った。
「……あいすくりんは覚えちゅうくせに、相変わらず口の減らん子じゃ。
来い、上がらんか」
案内されたのは、かつての司令塔を全面改装した最高級特別室『山城の間』だった。
厚さ三五〇ミリの耐圧鋼鈑で包まれた密室。憲兵も三宅坂の刺客も、この鋼鉄の壁を透かして音を拾うことは不可能な要塞の心臓部だ。
給仕が静かに銀の器を運んでくる。
山城特製のロシア風あいすくりんだ。
時子は長椅子に深々と腰掛け、夢中でスプーンを動かし始めた。
山下はマホガニーの机に腰を掛け、グラスの氷をガラリと鳴らした。
「永田のハゲが総理の椅子に座ろうが、三宅坂でいくら『総動員』と吠えようが知ったことか。
現場のワシらが動かんかったら、あんな紙切れ、鼻紙にもならんぜよ」
「小林さんとも話がついております、山下さん」
石原はチーク材の壁に背を預け、冷ややかに告げた。
「永田が総理として暴走し、関東軍を直接統制しようとすれば、阪急のドル手形決済を全停止します。
三宅坂と内閣の兵站を根元から干し上げます」
「フン、脅しにもならんわ」
山下はグラスを干し、太い首を鳴らした。
「関東軍の通信も、給料の振り込みも、将校のツラ張る飛行場も、全部この山城と白鶴の網の中じゃ。
いまさら『白鶴』を止められてみや。
関東軍の兵隊は靴下も履けず、足から腐って全滅するき。
ワシらはもう、これなしじゃ一歩も動かんがぜ」
「結構であります」
部屋の隅で、あいすくりんを平らげた時子は満足そうに息を吐いていた。
だが。
装甲通路の水密扉が重い音を立てて開いた瞬間、世界が一変した。
三五〇ミリの鋼鉄が遮っていた暗い大連湾の海鳴りが、湿った重油の悪臭とともに、時子の鼓膜へ雪崩れ込んできた。
視界の端が、泥のような漆黒で滑り落ちていく。
「……ひっ……っ」
喉から掠れた引き付けが漏れた。
足元から世界が崩れ去っていく。
暗い天井。
湿った重油の悪臭。
遠ざかる人の足音。
舌の裏にへばりつく冷たい吐き気。
指先から体温が消え、どっと冷や汗が吹き出した。
「いやや……帰りたない……っ」
時子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「置いていかんといて……
捨てんといて……!」
「時子!? どうした、どこが痛む!」
石原が動揺し、肩に手を伸ばす。
だが、世界を構想する参謀の手は、怯えて泣き叫ぶ十二歳の娘を前にして、どう指を動かせばいいのか分からず、ただ空中で惨めに固まった。
数式も兵站論も、ここでは何の意味もなさない。
「どけっ! 石原!」
濁った声とともに、巨大な影が割り込んだ。
山下は軍服の袖が汚れようと構わず無言で膝をつき、ガバッと両腕で時子を力づくで抱き包んだ。
「おっちゃん……おっちゃん……!」
時子は山下の分厚い胸板に顔をうずめた。爪が白くなるほど強く、安煙草と汗と機械油の染み込んだ軍服の襟元を掴みしめる。
「アホ言うたらいかん」
山下のゴツゴツした手が、時子の背中を、壊れ物を包むようにどっしりと覆った。
「誰がお嬢を捨てるかい。
ワシがついちょるき。
大連におっても、大阪に帰っても、ワシが守っちゃる。
……やき、泣くな」
太く温かい声が、胸の鼓動とともに体に直接響いてくる。
土佐の言葉の泥臭いぬくもりが、頭を苛んでいた冷たい暗闇を、じわじわと押し戻していった。
「……おっちゃん…」
時子はしゃくりあげ、山下の胸に鼻を押し付けたまま、急速に身体の力を抜いていった。
山下は背中をゆっくり撫で続けた。
「……お嬢」
時子は返事をしなかった。
しばらくして、胸板からそっと顔を上げた。
涙で濡れた目が、まっすぐ石原を探した。
石原と目が合う。
山下はそれを見て、静かに頷いた。
「石原」
「はっ!」
「抱いちゃれ」
山下は、落ち着いた時子をそっと石原の腕に渡した。
石原は我が子を両腕で受け止める。
そのずしりと重い熱と生身の温もりに、参謀の腕がかすかに震えた。
「この子を、ただの計算機として使い潰してみろ!
ワシが貴様を叩き斬るきに」
「……肝に銘じます、山下さん」
白鶴のハッチが閉まり、四基の発動機が夜の海を揺らして爆音を上げる。
水面を滑り、夜空へと引き上がっていく白鶴の窓から、石原は下を見つめた。
暗い大連湾の岸壁に佇む巨艦『山城』の最上階――旧艦長室の窓の下で、ぽつりとひとつ、山下奉文の煙草の火が赤く灯っていた。