白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十七章『夕渡』(1936年 9月)

天保山。

午前五時。

 朝もやの漂う大阪湾の海面に浮かぶ『白鶴一型・性能向上型』の背が、朝日に銀の脂を光らせていた。

 『阪急軍艦ホテル扶桑』のタラップを降りる石原の隣で、時子は激しくめくれ上がる紺のワンピースの裾を両手で必死に押さえ、身をかがめていた。

朝の冷たい潮風が、小さな足首を容赦なく叩く。

 「時ちゃん、固いあいすくりん、山下さんに山ほど買ってもらいなはれや」

 見送りに立った小林一三が可笑しそうに目を細め、胸ポケットの手帳を叩いた。

 「うん、わかってる」

 時子はぺこりと頭を下げ、白鶴のハッチへ吸い込まれていった。

黄海。

上空三千。

 白鶴のサロンは、四基の発動機が奏でる低く引き締まった唸りに包まれていた。

 革張りの長椅子で、京都帝国大学の老教授が図面を広げている。

 時子はワンピースの膝の上に置いた小さな手帳をじっと見つめていた。

鉛筆も持たない。

口も開かない。

だが、教授の手元で踊る数式と図面を、黒目がちな瞳で寸分の狂いもなく追っている。

 教授が手元を一瞬止め、補正値の計算に詰まった瞬間――時子の長いまつ毛がかすかに揺れ、小さな指先を図面の右下へ滑らせた。

 教授が息を呑んだ。

未記述の補正値。

その数値を、時子は脳内ですでに弾き出していた。

(すべて入っている)

 その横顔を、石原莞爾は静かに見つめていた。

時子の脳は、提示された知識の全貌を、まるで乾いた砂が水を吸うように飲み込んでいく。

「……結構だ」

 石原は満足げに小さく息を吐き、冷えた紅茶に砂糖を落とした。

 天保山を出て六時間。

離陸の振動の記憶も冷めぬうちに、大連湾の海面が眼下に迫った。

 着水した白鶴は、そのまま滑るように岸壁へ向かう。

 艦底を岩盤まで杭とコンクリートで縫い付けた『阪急軍艦ホテル山城』。

三万五千トンの鉄塊が、海へと突き出た要塞のように鎮座している。

 水密扉が観音開きに開き、白鶴はガラス張りのターミナルの中へと滑り込んだ。

絨毯の敷かれたタラップを抜け、かつての副砲甲板をぶち抜いて作られた『阪急大連大回廊』へ足を踏み入れる。

 アーチ状の強化ガラスから海光が降り注ぎ、高級洋裁店やカフェが立ち並ぶ。

大回廊の先には、前甲板の開口部を覆う『山城大劇場』が広がり、装甲鋼鈑の底からオーケストラの調べが重厚に響き渡っていた。

「あいすくりんのおっちゃん!」

 吹き抜けの中央で、時子がパッと顔を輝かせた。

 そこに立っていたのは、軍服姿の大男――関東軍の山下奉文少将である。

山下は厳つい顔をぐにゃりと歪めて破顔した。

「……覚えちゅうがか、お嬢」

「うん、よぅ覚えてる!」

 山下はガハハと腹を揺らして笑い、分厚い手で時子の頭をごしごしと撫で回した。

その巨躯からは安煙草と汗、そして重油の匂いが濃厚に漂っている。

「でかくなったの」

 背を正した山下に、石原が深く敬礼を返す。

「山下さん、お久しぶりであります」

「遠路ご苦労、石原。

……相変わらず冷たい面をしとるの」

 時子は二人の間をすり抜け、ドーム屋根の下で唸りを上げる整備ドックを見下ろした。

ツナギを着た生徒たちが、油にまみれてエンジンのピストンを叩いている。

「おっちゃん」

 時子は振り返り、ドックへ向かう無蓋トラックの列を指差した。

「この回廊の床、表面のセメント削れて下の鉄骨浮き上がってきてるやん。

トラックの生ゴム輪、ひと月でズタズタに裂けるわ。

港から駅まで荷が止まるよ」

 山下は苦笑し、太い首を振った。

「……あいすくりんは覚えちゅうくせに、相変わらず口の減らん子じゃ。

来い、上がらんか」

 案内されたのは、かつての司令塔を全面改装した最高級特別室『山城の間』だった。

 厚さ三五〇ミリの耐圧鋼鈑で包まれた密室。憲兵も三宅坂の刺客も、この鋼鉄の壁を透かして音を拾うことは不可能な要塞の心臓部だ。

 給仕が静かに銀の器を運んでくる。

山城特製のロシア風あいすくりんだ。

時子は長椅子に深々と腰掛け、夢中でスプーンを動かし始めた。

 山下はマホガニーの机に腰を掛け、グラスの氷をガラリと鳴らした。

「永田のハゲが総理の椅子に座ろうが、三宅坂でいくら『総動員』と吠えようが知ったことか。

現場のワシらが動かんかったら、あんな紙切れ、鼻紙にもならんぜよ」

「小林さんとも話がついております、山下さん」

 石原はチーク材の壁に背を預け、冷ややかに告げた。

「永田が総理として暴走し、関東軍を直接統制しようとすれば、阪急のドル手形決済を全停止します。

三宅坂と内閣の兵站を根元から干し上げます」

「フン、脅しにもならんわ」

 山下はグラスを干し、太い首を鳴らした。

「関東軍の通信も、給料の振り込みも、将校のツラ張る飛行場も、全部この山城と白鶴の網の中じゃ。

いまさら『白鶴』を止められてみや。

関東軍の兵隊は靴下も履けず、足から腐って全滅するき。

ワシらはもう、これなしじゃ一歩も動かんがぜ」

「結構であります」

 部屋の隅で、あいすくりんを平らげた時子は満足そうに息を吐いていた。

 だが。

装甲通路の水密扉が重い音を立てて開いた瞬間、世界が一変した。

 三五〇ミリの鋼鉄が遮っていた暗い大連湾の海鳴りが、湿った重油の悪臭とともに、時子の鼓膜へ雪崩れ込んできた。

 視界の端が、泥のような漆黒で滑り落ちていく。

「……ひっ……っ」

 喉から掠れた引き付けが漏れた。

 足元から世界が崩れ去っていく。

 暗い天井。

湿った重油の悪臭。

遠ざかる人の足音。

舌の裏にへばりつく冷たい吐き気。

指先から体温が消え、どっと冷や汗が吹き出した。

「いやや……帰りたない……っ」

 時子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

「置いていかんといて……

捨てんといて……!」

「時子!? どうした、どこが痛む!」

 石原が動揺し、肩に手を伸ばす。

だが、世界を構想する参謀の手は、怯えて泣き叫ぶ十二歳の娘を前にして、どう指を動かせばいいのか分からず、ただ空中で惨めに固まった。

数式も兵站論も、ここでは何の意味もなさない。

「どけっ! 石原!」

 濁った声とともに、巨大な影が割り込んだ。

 山下は軍服の袖が汚れようと構わず無言で膝をつき、ガバッと両腕で時子を力づくで抱き包んだ。

「おっちゃん……おっちゃん……!」

 時子は山下の分厚い胸板に顔をうずめた。爪が白くなるほど強く、安煙草と汗と機械油の染み込んだ軍服の襟元を掴みしめる。

「アホ言うたらいかん」

 山下のゴツゴツした手が、時子の背中を、壊れ物を包むようにどっしりと覆った。

「誰がお嬢を捨てるかい。

ワシがついちょるき。

大連におっても、大阪に帰っても、ワシが守っちゃる。

……やき、泣くな」

 太く温かい声が、胸の鼓動とともに体に直接響いてくる。

土佐の言葉の泥臭いぬくもりが、頭を苛んでいた冷たい暗闇を、じわじわと押し戻していった。

「……おっちゃん…」

 時子はしゃくりあげ、山下の胸に鼻を押し付けたまま、急速に身体の力を抜いていった。

 山下は背中をゆっくり撫で続けた。

「……お嬢」

 時子は返事をしなかった。

しばらくして、胸板からそっと顔を上げた。

涙で濡れた目が、まっすぐ石原を探した。

 石原と目が合う。

山下はそれを見て、静かに頷いた。

「石原」

「はっ!」

「抱いちゃれ」

 山下は、落ち着いた時子をそっと石原の腕に渡した。

 石原は我が子を両腕で受け止める。

そのずしりと重い熱と生身の温もりに、参謀の腕がかすかに震えた。

「この子を、ただの計算機として使い潰してみろ!

ワシが貴様を叩き斬るきに」

「……肝に銘じます、山下さん」

 白鶴のハッチが閉まり、四基の発動機が夜の海を揺らして爆音を上げる。

 水面を滑り、夜空へと引き上がっていく白鶴の窓から、石原は下を見つめた。

 暗い大連湾の岸壁に佇む巨艦『山城』の最上階――旧艦長室の窓の下で、ぽつりとひとつ、山下奉文の煙草の火が赤く灯っていた。

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