うだるような熱気が、霞が関の海軍省廊下に澱んでいた。
水上機母艦『能登呂』艦長、山本五十六大佐は、応接室の隅に置かれた将棋盤から、歩を一つ摘み上げ、指先で弄んでいた。
「第一遣外艦隊の準備で多忙な折に、わざわざ大阪まで行くのか」
窓外の蝉時雨を背に、米内光政少将が濡れた手拭いで首筋の汗を拭いながら問う。
「川西の工場見学ついでです。
……永田に首を撥ねられ、第四師団へ叩き落とされた石原莞爾の面を拝んできますよ」
「山本」
米内の手が止まる。
鏡越しに交わった目が、冷たく光った。
「新橋で会った。
あの男の目は、陸軍の便所掃除で終わる目ではない。
尿道を腐らせながら、ユーラシアの盤面を眺めておる」
「だからこそ行きます」
山本は煙草を足元で踏み消した。
硬い軍靴の底で、紫煙が潰れる。
「陸軍の泥水を、川西の水面に一滴たりとも垂らさせんためです」
◇
兵庫県池田、白梅館。
阪急総帥、小林一三の私邸応接室には、冷えた炭酸水の泡がガラスを叩く細い音だけが響いていた。
ガラス窓の向こう、陽光が降り注ぐ庭園では、石原の妻テイ子と、四歳の時子が静かに歩いていた。
時子は血の気の引かない丸い頬を膨らませ、飛来する蝶を静かに目だけで追っている。
その異常な視線を、テイ子は直立したまま見つめていた。
「——国家の予算いう、お小遣いの奪い合いに、うちの銭を差し出す気はございません」
白麻の三つ揃えを着こなした小林が、グラスの氷をカランと鳴らした。
「ですが、大阪湾から上海を結ぶ『民間の定期路線』として儲かる仕組みなら、うちの信用を乗せてもよろしい」
「信用だけでは飛べんよ、小林さん」
長旅の煤煙臭さを襟元に残した山本が、氷の浮くグラスへ冷ややかな視線を投げかける。
「軍縮条約で海軍の手足は縛られている。
だが、川西の工場にはすでに命じておいた。
あの双発艇の客室床下には、爆弾懸架用の重ボルトが仕込んである。
……平時は乗客を運ぶ豪勢な客船だ。
だが有事には、数時間で外洋哨戒機へ化ける」
山本は皺の寄った夏軍衣の膝上で、軍帽を深く撫でた。
「『民間航空補助金』の名目で、大蔵省に没収される前の海軍の余剰予算を川西へ流す。
大蔵省の目を眩ます『顔』なら、海軍が立ててやる」
「腹の中に何をつめ込もうと、乗客が心地よく揺られておれば文句は言いません」
小林は細い目をさらに細くした。
「……で、そちらの石原さんは、陸軍から何を出されますのや?
兵隊の泥靴でうちの絨毯を汚すおつもりか」
静寂。
応接室の湿気を切り裂くように、石原がゆっくりと身を起こした。
下腹部の痛みに耐える浅い息遣いの中に、血の匂いが混じる。
「……満州の荒野を這う張学良の軍閥。
彼らが蓄えた大豆のドル資金が、東京の財務官僚の手を逃れて関東軍の裏金に化けている。
その蛇口の数理は、参謀本部で動員計画を引いていた私が一番よく知っている」
小林の手が、グラスの縁で止まった。
「あれを、飛行艇の燃料と機体に化けさせます」
山本が微かに眉を寄せる。
陸海の禁忌が、この畳一枚の上で溶け合っていく。
「……大豆を、爆撃機に洗うのか。えげつない商いだな」
小林はふっと好々爺の笑みを浮かべ、ステッキの頭に両手を重ねた。
「……ところで石原さん。
大事なお子様と奥方を、上町台地の埃まみれの借家に置かれているそうで。
特高や憲兵がウロウロする劣悪な環境で子育てなど、親の面目が立ちませんやろ……なさけない」
小林の視線が、窓外で泥を頬にべったりとつけたまま、空を仰ぐ時子へ向けられた。
「この白梅館が空いております。
どうぞご家族でここへ移りなさい。
……うちの線路のすぐ脇だ。
乗馬も踊りも、なに不自由なくさせてあげられる」
一分の隙もない好意。
だが、その真意は、石原の手元にある満州の裏金ネットワークの算段を逃がさぬよう、家族の生活ごと阪急の路線網の中に組み込み、胃の腑へ収めるという老練な商人の「吞み込み」だった。
永田鉄山には不祥事で縛られ、小林一三には生活で縛られる。
石原は窓外の、青白い顔で空を見つめる時子の姿を見つめたまま、喉の奥で低く笑った。
「……お言葉に甘えさせていただきます。小林さん」
「よろしい」
小林は、窓の外で泥だらけの時子を見つめ、ふっと笑った。
「……あの泥、うちの石鹸で落としてさしあげなさい。
池田には、うちの『美粧院』がありますさかいに」