冷たい秋雨が、大阪城大手前の濡れた落ち葉と泥、そして馬糞の溜まる溝を叩いていた。
二月の伊吹山麓、関ヶ原の惨敗から八ヶ月。
富士の樹海から落ち延び、東海道の貨車の炭箱にしがみつき、豚の飼料を漁って泥を這い回った過激派の残党捜索は憲兵隊によって隠蔽されていたが、西日本の心臓部である第四師団司令部の警戒は厳重を極めていた。
大手門の脇、雨水が濁って溜まる溝の縁に、一匹の腐った獣のような物体が転がっていた。
「……おい、起きかいな。
ここどこや思とんねん。
第四師団の門前やぞ」
当直の歩兵二等兵が、長靴の先でそいつの脇腹をつついた。
返事はない。
ぼろ布のような服からは、焦げた羊毛の酸っぱい臭いと、重油、そして人間の脂が焼き付いた耐え難い悪臭が漂っている。
靴は右足しか履いておらず、裸の左足は凍傷で黒紫に変色していた。
騒ぎに気づいた当直将校の特務中尉が、傘を差し出しながら歩み寄ってきた。
大阪弁の抜けきらない叩き上げの古参だ。
「なんや、ルンペンか?
憲兵に突き出して――」
中尉の足が止まった。
雨水で泥が擦れ落ちた男の髭面。
泥と煤で汚れているが、異様に張った固い顎、かつて毎朝の冷水浴で引き締まっていた皮と骨だけの頬の線。
「……待て。
こいつ、なんか見たことある顔やな」
中尉はかがみ込み、男の襟元を掴んで顔を上げさせた。
男の目は落ち窪み、瞳孔は収縮しきったまま、虚空を睨んでガタガタと歯の根を鳴らしている。
そこへ、陸軍省からの指名手配写真を隠し持っていた参謀部付の少尉が、顔を蒼白にして駆け寄ってきた。
手に持った極秘書類と、目の前の泥まみれの男を交互に見比べ――手帳を雨の地面に落とした。
「……こ、これ、嘘やろ……!
えらいこっちゃ、辻や……
辻政信や!!」
「な、なんやと!?
あの過激派の首謀者か!?」
衛兵たちが一斉に三八式歩兵銃を構え、ガチャリと遊底を引いた。
だが、辻は銃口を向けられても反応しない。
落ち窪んだ眼球の奥に濁った熱を溜め、雨の混じる泥を吐き出しながら、震える唇を動かしているだけだった。
「ど、どうします中尉殿!
憲兵隊に渡しますか!?
それとも本省へ打電を――」
「待て。動くな」
濡れた外套の裾を揺らし、雨の中から現れたのは西日本兵站総監部参謀長、石原莞爾大佐だった。長靴の音もなく立ち止め、足元の泥塊を見下ろす。
「長官!
辻政信であります!
直ちに憲兵へ――」
「憲兵に渡してどうする」
石原の声は、秋雨よりも冷たかった。
「東京の永田はな、この狂犬を俺たちにぶつけて相打ちさせ、三井の焦げ付いた負債を闇に葬ろうとしたのだ。
ここで辻を憲兵に引き渡せば、本省は『過激派将校の単独の狂行』として秘密裏に処理し、永田の描いた手じまいの台本が完成する」
石原は当直中尉の胸元を指で突いた。
「第四師団憲兵隊長を呼べ。
『辻政信は逃走中に病死、遺体は確認の上焼却』と極秘書類を作らせろ。
今夜限りで、この男の軍籍も戸籍もこの世から完全に消す」
「は、はあ……!
しかし身柄は!?」
「裏門から俺の部屋へ運べ。
軍医は要らん。
雑巾で泥だけ拭いておけ」
夜。
西日本兵站総監部。
石原の自室。
畳の上に敷かれた薄い布団の上で、辻政信は跳ね起きた。
「ひっ……!
座標X……!
高角砲の信管が……!
撃つな!
撃つなあああ!」
フラッシュバックの悲鳴を上げ、自分の頭をかき抱く。
駿河湾の暗闇の中、四千メートル上空から電探で位置を測られ、見えぬ海から弾道計算通りの箱型弾幕で叩き落とされた九二式重爆の衝撃。
そのトラウマが脳味噌を焼き切っていた。
視線の先に、火鉢で火箸を弄っている石原莞爾が座っていた。
「目が覚めたか、辻」
「い……石原…!」
辻の落ち窪んだ目が、激しい憎悪と恐怖で歪んだ。
「国賊め……!
我らを……
我ら神国の志士を、駿河湾からの不意打ちと科学のカラクリで殺し尽くしおって!
卑怯者めが!」
辻は立ち上がろうとしたが、凍傷の左足が激痛を発し、そのまま畳に顔面から崩れ落ちた。
泥と血の混じった涙を流しながら、石原を睨みつける。
石原は冷笑した。
一本の感情もこもっていない、徹底的な侮蔑の笑いだった。
「相変わらず惨めな頭だな、辻。卑怯?
カラクリ?
貴様らは四千メートル上空から電探で捉えられ、二十二キロ先から計算通りの弾道を描いて着弾した『数値』に押し潰されただけだ。そこには感情も、卑怯も、神国もない。
ただの『物理現象』と『兵站の差』だ」
「貴様らは……
日本の魂を売ったのだ!」
「魂で腹が膨れるか?
魂で高角砲の破片が防げるか?」
石原は火鉢から立ち上がり、床に這いつくばる辻の頭を見下ろした。
「永田に踊らされ、三井の不良在庫を担がされ、東北の貧困をダシにして自爆突撃。
貴様がやったのは『聖戦』ではない。
ただの『廃棄物の処理作業』に協力しただけだ。
貴様自身が、永田にとっての使い捨てのゴミだったのだ」
「ぐっ……うあぁぁぁぁ!!」
絶望的な事実を叩きつけられ、辻は頭を畳に叩きつけて咆哮した。
己の命をかけた「義挙」が、単なる兵站と利権の処理だったという現実。
そして、西日本の圧倒的な工業力と数理に対して、自分たちの精神主義は何一つつめ跡を残せなかったという敗北感。
「殺せ……!
石原、俺を殺せ!
射殺せえええ!」
「殺さん」
石原は冷たく言い切った。
「ここで死ねば、貴様は『殉国の志士』として過激派の神になり、永田の計算も完成する。
そんな美味い思いを誰がさせるか。
貴様のお望み通り、今夜で『辻政信』という人間は死んだ。
書類上もな」
石原は懐から名簿の束を取り出し、火鉢の炭火にくべた。
紙が黒く丸まり、灰になって消える。
「明日、大連経由で満州奥地の石油発掘調査隊へ送る。
阪急が手配する『名無しの警備雑役』だ」
「な……なに……?」
「極寒のドブ底で、死ぬまで穴を掘り続け、米の粒を数えろ。
熱、湿気、数、配給、補給線――無駄を出せば凍死する。
計算が遅れれば部隊ごと全滅する。
お前がバカにしていた『数値』と『兵站の計算』だけで、死ぬまで生き延びてみろ」
辻の破れた軍服からは、貨車の炭粉と豚の飼料の腐臭が立ち上っていた。
爪には東海道のドブ泥がこびりついている。
「富士の樹海から八ヶ月、貨車の炭箱にしがみつき、豚の餌を漁ってここまで這ってきたか。
その薄汚い怨念だけは褒めてやる」
石原は懐から、一握りの冷えた握り飯を取り出し、辻の顔の前に放り投げた。
「食え。
食って生き延びろ。
これからは軍服を脱ぎ、名前を捨て、西日本の兵站の底辺でハエのように生きろ。
お前がバカにしていた『大阪の成金』と『科学』が作った飯を食って、死ぬまで己の愚かさを噛み締めろ。
料理でも何でもいい、ひとつ詰まれば全部腐る細い線で、生き残る計算を体に叩き込め」
辻は泥にまみれた握り飯を見つめた。
悔しさと、空腹と、精神の崩壊。
ガタガタと震える手でそれを拾い上げ、ボロボロと涙をこぼしながら、喉に詰まらせるように貪り食った。
石原はその惨めな姿を見下ろしながら、静かに部屋の灯りを消した。
「命を拾われたと思え、辻。
次に俺の前に面を晒す時は……
一粒の米の重さでも計算できるようになってからにしろ」