天保山。
阪急戦艦ホテル扶桑。
地階指揮所。
二番砲塔跡の鉄板を叩く波音が、重油と錆と高圧電流の焦げた匂いとともに船底へ響いていた。
「……頭、痛い」
十二歳の時子が、三層下の通信室で額を押さえた。
耳の奥で、八木アンテナが拾う短波のノイズが鼓膜を刺す。
「痛みのおさまるなよ、時子ちゃん」
毛糸の帽子を目深にかぶった大石和三郎が、真鍮の気圧計のガラス面を爪でコツンと叩いた。
指針が二ミリ、左へ振れる。
「気圧が七百四十五まで下がっとる。
シベリアの冷気と黄海の温い風が衝突しよる証拠たい。
お前さんの頭痛は、高気圧と低気圧の境目を捉える一番正確な気象器械じゃ」
大石は卓上の電信用紙を時子の前に滑らせた。
アラビア数字ではなく、正確なエスペラントの列。
DENSA NEBULO, NORD-OKSIDENTA VENTO, PRESO 745
「シベリア、大連、台北……
陸軍の電信兵が打ってくる天気を、わしが全部エスペラントに書き換えておる。
東日本の気象台が手回しの計算機ば叩いとる間に、扶桑の送信機が白鶴の全飛行艇へ『風の道』ば指示する」
大石は時子の細い手首を掴み、電信用紙の上にその指を置かせた。
「空ば支配するとは、高級な飛行機ば飛ばすことじゃなか。
世界中の風ば、自分らだけの言葉で一番速く書き換えた者が、空の絶対権力を握るとたい」
時子は無機質な目のまま、ざらついた紙の感触を確かめた。
「……揃ってる。隙間がない」
「そうたい。
隙間を作ったら、そこから人が死ぬ」
大石の佐賀弁には一切の甘さがない。
数値による世界の切り取りだけが存在していた。
中之島。
中央公会堂。
重い緞帳の陰。
堂島川の湿った川風と石炭の匂いが淀む暗がりで、大石は毛糸の帽子を脱ぎ、真鍮の気圧計を爪で弾いた。
カチン、と乾いた金属音が響く。
「……富士山頂の観測小屋。
ドイツ製の自録気圧計百個。
それと、特高に追われとるエスペラント学会の全資金。
間違いなかね」
小林一三はステッキの柄に両手を重ね、薄い唇をわずかに歪めた。
「阪急航空の『専属』になってもらう以上、大石先生の研究費も弟子皆々の食い扶持も、全部うちの裏帳簿で落とします。
憲兵の鼻面も叩き割っておいた。
……その代わり」
小林のステッキが、木床を一度だけ重く突く。
「シベリアから台北まで、一滴の風データも東に漏らさんよう。
白鶴以外に風を売ったら、その瞬間に口座は凍結です」
「……わかっとるばい。
わしが風ば渡すのは、白鶴と時子さんだけたい」
大石は手垢で汚れた電信用紙を懐へ突っ込み、冷ややかに舞台袖を見やった。
「あんたらが金の算盤で世界ば切り刻むなら、わしは風の計算で空ば縛る。
……あの子ば、その絶対の鍵にして見せるたい」
「結構。
……東の重鎮どもが、神託を待っておりますよ」
薄暗い壇上。
紺色のロングワンピースを着た小柄な少女が、マイクの台の上に立っていた。
客席を埋め尽くすのは、帝大の教授陣、陸軍省の観測将校、東京から下ってきた政界の重鎮、そして阪急、住友の幹部たち。
時子は一切の感情を排した声で、原稿を読み始めた。
「……Altitudon kvin tūktoj metroj. Preso sep cent kvardek kvin. Post dek du horoj, Tokio estos sub la tempesto……」
高層五千メートル。
気圧七百四十五。
十二時間後、東京は暴風雨の下に沈む。
完璧なアクセント。
抑揚のない無機質な音の羅列。
観測将校の手帳の上で、ペン先が走る。
バチリと黒鉛の芯が折れた。
中央気象台が手回し計算機で三日後に弾き出す高高度気圧を、今この瞬間に十二歳の口から直接突きつけられた不気味さ。
理学博士らが眼鏡を外し、汗の滲む額を拭った。
会場後方。
立ち見の群れの中で、小林が隣の東の老政治家の耳元へ顔を寄せた。
「……見なはれ、大臣」
小林の細い目が笑っていた。
「東の軍人どもが内地で兵隊ごっこして金たかりに狂っとる横で……あの子は地球の風を算盤にはじいてます」
老政治家が喉を鳴らした。
「……本気か、小林君。
あの小娘をどうする気だ」
「白鶴の『顔』に決まってるでしょう。
その象徴として、完璧に『揃えられた』時ちゃんを据える。
今のうちに買い叩いておきなはれ。
将来の最高権力網の『筆頭株主』になれる機会なんて、そうありませんよ」
登壇を終えた時子がステップを降りると、黒革の手帳を持った大人たちが一斉に群がった。
名刺の束が差し出される。
「時子さん、大日本気象協会の……」
「東京から参りました、帝国議会の……」
時子は差し出された紙の束を見下ろした。
衣服から漂う煙草と、利権と、湿った欲望の匂い。
「……揃えておきます」
ポツリと呟いた時子の顔は、吐き気を耐えるように白ばんでいた。
夜。
阪急宝塚線の電車内。
時子は座席で、大石の外套の裾を固く握りしめていた。
「……おっちゃんの服は、紙とインクの匂い。
東京の人は、血と焦げた鉄の匂い。
……わさじいの服がえぇ。
風の匂いしかせぇへんもん」
時子の身体が微かに揺れる。
下唇を強く噛み切り、口の中に広がる生温い血の味を呑み込んだ。
「よしよし。
もう少しで池田たい。
……石原さんの家へ帰るのが嫌なら、今夜はわしのホテルへ泊まってもよか」
「ううん。……家、帰る」
時子は前を見つめたまま動かない。
小さな眼孔に、夜の車窓の闇だけが映っていた。
夜十時半。
池田白梅館の書斎。
みぞれを吸った土壁から、冷気がじんわりと床を這っていた。
石原莞爾は白磁の茶碗を両手で包み、ぬるくなった白湯に視線を落としていた。
奥の部屋から、疲れ果てて眠りについた時子の微かな寝息が聞こえる。
大石は濡れた毛糸の帽子を膝の上で丸め、土間に佇んでいた。
「……小林さんが動いとるな、石原さん。
時子さんば将来、西の不可侵の『看板』にするつもりじゃろ」
石原は眼光を動かさず、白湯を一口含んだ。
「……小林さんは、計算機ですよ」
「なん……?」
「小林も、海軍の山本も、満州の張学良も……
私が置いた道具です」
石原の口調には高ぶりも誇りもない。
机の上の文鎮の配置を説明するような無機質さだった。
「東の陸軍の阿呆どもと、泥を食う農村。
……あんな不衛生な場所に時子を置くわけにはいかなかった」
石原は静かに茶碗を置いた。
トン、と乾いた音が静寂を割る。
「だから周りを掃除しただけです。
満州から金を奪い、樺太から油を吹き出させ、陸軍の首根っこを阪急の給与で叩き割った。
東アジアの兵站統制を完成させることと、時子の歩く床板を補強することは私の中で何も変わりません。
全ては同じ構造です」
大石の呼吸が止まった。
国家の運命を歪め、何十万の人間を動かした動機が、あまりにも冷酷な計算式として提示されている。
「……それがあの子ば追い詰めとるのが分からんか」
大石の佐賀弁が、暗闇に落ちた。
「あんたは平気な顔で世界ば捻じ曲げる。
ばってん、今日中之島で名刺の束ば前にあの子の顔が白ばんどったのはな……
お前さんが淡々と組み上げた『世界の歪み』に、十二歳の背骨が耐えかねて悲鳴ば上げておるからたい!」
石原はゆっくりと顔を上げた。その目は感情を完璧に削ぎ落とし、ガラス玉のように澄んでいた。
「……時子は壊れません、私がそう設計した」
「割れるばい!」
毛糸の帽子を握り潰した大石の指関節が、白く引きつる。
しわがれた息が、みぞれの混じる暗がりを揺らした。
「あの子が欲しがっとるのは、あんたが整えた完璧な世界じゃなか!
ただの温かい風と、静かな呼吸たい。
お前さんが陸軍全体ば敵に回して狂えば狂うほど、あの子の頭痛は酷くなる。
あんたの放つ『狂気の気圧』が、時子ば追い詰めておるんじゃ!」
「……では、時子にあの泥を食わせろと?」
掠れた低い声。
それ以上言葉を重ねない。
「……わしの高高度情報は渡さん」
大石は大木のような溜息を吐き、帽子を頭にかぶり直した。
「あんたみたいな男に渡せば、本当に世界ば焼き尽くしてしまうからたい。
そしてその炎で、真っ先に死ぬのは時子さんじゃ」
石原は答えず、冷え切った白湯を見つめていた。
大石は引き戸に手をかけ、最後に振り向いた。
「あの子ば人間として見ろ。
お前さんの娘なんじゃから」
引き戸が開け放たれ、みぞれ交じりの夜風がなだれ込んだ。
行灯の火が大きく揺れ、大石の影が暗闇の中に消えていく。
奥の部屋から、規則正しい寝息が聞こえる。
玄関の隅には、時子の小さな履物が揃えて置かれていた。
片方だけ、踵が少し潰れていた。
石原はそれを見つめたまま、動かなかった。