名古屋港。
三菱大江工場。
知多半島から吹きつける伊勢湾の潮風には、激しいみぞれの匂いと、焦げた重油の臭気が混じり合っていた。
濡れたアスファルトの滑走路に並んだ二機の単葉機。
東の陸軍「中島・96式戦闘機(糸川設計陣)」。
極限まで絞り込まれた胴体と、楕円の主翼。
油と塗料の匂いの隙間から、開発陣の徹夜の汗と、吐気のような焦燥が立ち上っている。
熟練工がコンマ数ミリ単位でヤスリをかけ、一機ずつ精魂込めて組み上げた「至高の芸術品」だ。
対する西の海軍「川西・97式艦上戦闘機」。
太い。
あまりにも太い。
寸胴な胴体に、無骨なスパッツ付きの固定脚。
だがその太さの正体は、三菱が誇る「金星」に住友の特殊鋼シリンダーを組み込み、北樺太の高オクタン燃料で極限まで過圧をかけた一千一〇〇馬力『金星四〇型特』だった。
北摂の阪急技研に「栄誉転属」で囲い込まれた技術者どもの狂気と、小林一三の銭。
一千一〇〇馬力の化け物発動機は、丸ごと「10分で着脱可能な全備ユニット」へと化けていた。
「……堀越君」
外套の襟を立てた小林一三が、ステッキの先で堀越二郎の背中を突いた。
「みぞれの中での『五回連続・即時再出撃』。
陸軍の中佐さんが言い出した勝負や」
銀縁の眼鏡を拭い、堀越二郎は無言で息をのんだ。
この寒気だ。
伊勢湾の寒風に晒されれば、50番の重油オイルはカチカチに固まり、気化器(キャブレター)は吸気凍結を起こす。
一回飛ぶごとに、七輪でオイルパンを炙り、全分解に近い手作業の調整が要る。
東の陸軍中佐が長靴の踵を鳴らした。
「合図だ! 一回目、発進!」
一回目の飛行。
東の機体が舞った。
ひらひらと蝶のように身を翻し、空を支配する。
西のデブは固定脚を晒したまま、無骨に旋回して滑走路へ戻ってきた。
着陸した瞬間から、地獄の差が露呈した。
「一回目終了!
オイルが固着している!
七輪持ってこい!
気化器の氷を解かせ!」
東の陣営で怒号が飛ぶ。
かじかむ手で細いスパナを握る熟練工たち。
だが、みぞれが容赦なく金属を冷やす。
手回し慣性スターターのハンドルにすがりついた職人の腕が、固着したオイルの重さに悲鳴を上げ、赤く腫れ上がった指先から血が滲む。
一方、西の陣営——。
暖房トラックの排気で手袋を温めた、阪急技術専門学校の少年工たちが群がった。
「集約カプラー解放!
自閉接手、遮断!」
カチリ。
住友製の継手が外れた瞬間、内部のスプリングが戻り、オイルを一滴も漏らさず系統が遮断される。
少年工二人が長柄のT型ボックスレンチをボルトへ突っ込み、フッ、と息を合わせて腕を叩きつけた。
カコンと無駄のない金属音が響き、四本の主ボルトが抜け落ちる。
「全備体、脱落! 吊り降ろせ!」
三菱製「金星四〇型特」一千一〇〇馬力、過給機、冷却系、オイルタンクが巨大な架台ごと一体となった「発動機全備体」が、湯気を立てて胴体からゴトンと離脱した。
間髪入れず、暖房トラックの上であらかじめ70度に保温されたオイルと100オクタン燃料を満載し、エア抜きまで完璧に完了させていた『新品の一千一〇〇馬力全備体』が、宙を舞ってデブの太い腹へと叩き込まれた。
「ボルト締結!
カプラー一括接続!
完了!」
「経過時間、九分四十秒!」
キィィィィン……
ドババババババッ!!
遠心過給機が高音の悲鳴を上げ、巨大な三翅プロペラが伊勢湾の寒気を切り裂いた。
一千一〇〇馬力の大トルクが機体を強烈に左へねじ伏せようとした瞬間、搭乗員が住友、ハイドロマチック可変ピッチのレバーを叩き込んだ。
油圧でブレードが重厚な角度を変え、暴風のような推進力が横ブレを力ずくで押さえ込んで滑走路を爆走する。
「き、貴様らーっ!!」
陸軍中佐が激昂し、軍刀の柄を握りしめて小林へつめ寄った。
「発動機を丸ごとすり替えるなどインチキだ!
現場で分解整備して飛ばすのが軍隊だぞ!」
小林は丸眼鏡の奥の細い目を、氷のように冷たく細めた。
「中佐さん。
……戦場で敵が迫ってる時に、かじかむ手で三時間ネジ回して兵隊を殺しますかいな?
10分で一千一〇〇馬力放り込んで空へ送り返す。
……うちが作ってるのは『道具』ですよ」
「な……ッ……!」
中佐の手が震え、言葉を失った。
糸川英夫の膝が、激しく震えた。
「10分で一千一〇〇馬力を……
丸ごと……?」
堀越二郎は眼鏡を外し、みぞれを切り裂いて上昇していく西の爆音を見つめた。
だが。
堀越の鋭い眼光は逃さなかった。
発動機が新品に替わろうと、一千一〇〇馬力の怪力を力ずくで受け止める胴体側のクロモリ(クロムモリブデン)鋼管マウントから、みしみしと軋む肉鳴りが上がっている。
ジュラルミン外板のリベット頭が、わずかに浮き上がっていた。
「……エンジンは換えても、骨が削れていく」
堀越の呟きは、排気音にかき消された。
二回目、三回目の再出撃。
未熟な少年兵がレンチ一本で一千一〇〇馬力の怪物ユニットをまるごと差し替え、泥まみれのまま空へ上がり続ける。
東の機体は、二回目の再始動すら叶わず、七輪の煙と熟練工たちの荒い吐息の中で濡れて沈黙していた。
完敗だった。
泥の上に膝を折る糸川英夫の視界に、小さな黒い長靴が飛び込んできた。
冷え切ったみぞれの匂いの中に、甘ったるい蜜の湯気が混じる。
十二歳の石原時子だった。
毛糸のマフラーに顎をうずめ、阪急の暖房トラックから汲んできた温かい黒蜜を、折箱の冷たいトコロテンの上へトロリと回しかけている。
ジュッ、と微かな音がして、知多半島の寒風に甘い湯気が立ち上る。温かい蜜に洗われたトコロテンの角がほんの少し溶け、氷のような角がドロリと艶を帯びた。
時子は竹串でぬるいトコロテンを一つ突き刺し、口へ運んだ。
「……お蜜だけ温かくても、中がカチカチやったら美味しないな」
時子はそれだけ言うと、沈黙した96式の繊細な楕円翼へ歩み寄り、竹串の先で細いカウリングのカチカチに冷えた金属を、ぽんと突いた。
「……おっちゃん」
幼い声が、エンジン音の止んだ滑走路に落ちた。
「このひこうき、おっちゃんが削ったん?」
糸川は泥を見つめたまま、歯を食いしばった。
唇から血の味がした。
時子はトコロテンから目を上げ、職人が血を流して磨き上げた主翼の肉抜き孔を、じっと見つめた。
その瞳には父、石原莞爾と同じ、冷徹な「寸法の計測」の色があった。
「……はね、きれい」
糸川の背骨が、びくりと跳ねた。
「西のブタさんより、ずっと綺麗」
時子はそれ以上何も言わず、折り箱を糸川の膝元へ差し出した。
「……寒そう。
トコロテン食べる?」
糸川は呼吸を忘れたように少女を見つめた。
蔑みではない。
同情でもない。
ただ「動かない機械」に対する、残酷なまでの客観。
隣に立っていた大石和三郎が、時子の首根っこを優しくつまみ上げた。
「こら、時子ちゃん。
邪魔したら噂になるばい。
……糸川君と言ったな」
大石は毛糸の帽子を脱ぎ、伊勢湾の空を見上げた。
「あの翼の曲面、流体力学の極致じゃった。
ばってん、空の上で飛んどるのは機体だけじゃなか。
暖房トラックの温風も、100オクタンのガソリンも、可変ピッチを切り替える子供らの手も、全部含めて『一千一〇〇馬力』とたい」
「いこ、わさじい。蜜が冷める」
時子はトコトコと歩き出し、黒塗りのシボレーの横でステッキを突く小林一三の外套の裾を引っ張った。
小林は愛おしそうに時子の頭を撫でると、一度だけ糸川の方へ「銭にならん芸術家」を見る冷酷な目配せを投げ、車内へ消えた。
海風が吹いていた。
糸川英夫は泥に汚れた手で顔を覆い、みぞれに濡れる己の翼を見上げた。
「……綺麗、か」
誰もいない滑走路で呟いた声は、遠ざかる一千一〇〇馬力の咆哮にかき消された。