白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

44 / 45
第四十三章『雅俗』(1937年 3月)

雨の混じる新橋の街角。

 塗りの禿げた木製の公衆電話ボックスに、湿った外套を羽織った男が滑り込んだ。

鋳物の受話器を持ち上げる手が、微かに湿っている。

 長距離回線特有のジジ……

という乾燥した雑音が耳を刺した。

「……市外通話だ。

大阪、陸軍第四師団長室。

石原を呼び出せ」

 三宅坂の陸軍省交換手を回避した直通回線。

受話器の奥から、不機嫌そうな庄内訛りが落ちてきた。

『……永田さん、約束が違うべ。

あの時、時子が学校を卒業するまでの二年と決めたはずだ。

昭和十三年三月まで、東と西で大人しく盤面を整える約束だったはずだ』

「……状況が変わった」

 永田鉄山は中折れ帽の庇を指で押し下げ、ボックスのガラス越しに暗い夜の街を見つめた。

「今夜の夜行で大阪へ入る。

……官舎も師団長室も使わん。

憲兵と三宅坂の目が絶対にとどかない場所を用意しろ。

小林一三も同席させろ」

『……永田さん、声が割れてるべ。三宅坂で何をやらかした』

「……行けばわかる」

 受話器の向こうで、ジャリ……

と素朴な木珠の擦れ合う音が途切れた。

『……池田だ。

阪急の小林さんの私邸、雅俗山荘へ来い。

あそこなら軍靴の音も聴こえん』

 フックを押し込む金属音が、狭いボックス内に低く響いた。

冷たい鉄の匂いと、己の荒い吐息だけが残る。

 翌朝。

七時三十分。

 梅田の阪急百貨店一階。

巨大なドーム屋根の下、夜行列車から降り立った永田は、鼠色のスーツの襟を立て、人波の端を歩いていた。

 視線の先には、朝光を受けて深く濡れたように輝くマルーン色の車体。

乗降口を行き交う女学生やサラリーマンの整った身なり。

その皮膚の艶に、戦争の陰りなど微塵もない。

 買い求めた池田までの小さな硬券。

指先の中で、厚紙の冷たさがやけに重かった。

 ふかふかの座席に深く身を沈める。

滑るように走り出した電車。

車窓を流れる三国、曽根、豊中の街並み。

整然と区画された住宅街と、庭先に干された白い洗濯物。

 銃と命令で国民を縛り上げようとした己の「国家総動員」。

その足元で、この商人は民衆の欲と生活の循環だけで、巨大な「無血の王国」を完成させていた。

池田に着くまでの三十分間、永田は言葉を失ったまま、流れる車窓の眩しさから逃げるように固く目を閉じていた。

 池田。

雅俗山荘。

 茶室の静寂を破るのは、庭の竹樋から石灯籠へ落ちるカコンという乾いた水音だけだ。

香炉から立ち上る薄い沈香の煙が、幾層にも揺れている。

 床の間を背にした小林一三は、手元の茶碗を静かに回していた。その隣で、石原莞爾は膝の上で数珠の木珠を繰っている。

茶室に時子の姿はない。

学校へ通う時刻だ。

 畳の上に一通の書類が滑り出された。

三宅坂の陸軍省秘書課の極秘印が押された決算書。

「常磐勿来の四号反応塔、見事に吹き飛んだそうやな」

 小林は茶碗を畳に置くと、視線も上げずに言った。

「四百五十度、二百気圧の水素に耐えられんかったか。

……『西日本の石油に頼らずとも、東は独自に精製できる』と大見栄を切ってきた君のドクトリン、跡形もないな」

「……あそこが煙になった途端、東の全演習用燃料が底をついた」

 永田は両手を膝に置いたまま、動かない。

背広の襟元から覗く首筋に、冷たい汗がひとすじ伝う。

「……失脚はどうでもいい。

だが私が去れば、三宅坂は『神国と大和魂』のバカどもの手に戻る。

油も持たぬまま精神論で暴走し、我が国の軍事構造はそこで終わる」

「で? 君は何を差し出せるんや」

「……西日本の自主権だ。

西が主導する構造改革を、陸軍省の正式な『標準』として認めさせる。

大阪の路面網も地下鉄も、すべて阪急に差し出す」

 小林は扇子を膝の上で弄びながら、フッと鼻で笑った。

「……まるで足りんな。

まず、白鶴、青鶴の航空網や。

これまで西日本だけに限定されていた許認可をすべて叩き潰し、東京、札幌、太平洋、南洋に至る全アジアの空路独占権を寄こしなさい。

そして。

君が三宅坂で極秘裏に進めておる、あの新省庁構想や。

『国家統制院』と言ったな」

 永田の喉が、わずかに揺れた。

「予定通り、その『国家統制院』を今すぐ立ち上げなさい。

初代院長には君が就く。

……ただし、統制院の物資動員計画と予算割当の決裁権は、すべて我が阪急の勘定台帳に直結させる。君は表で『国家総動員』の看板を掲げていればえぇ。

中の数字はすべて、うちらが動かす」

 永田の唇から、血の気が引いた。

「……国家を、阪急の事業部にする気か」

「人聞きが悪いな。

国家の無駄を省き、一番効率のええ『規格』で揃えてあげるんや」

 小林は懐から一枚の和紙を滑らせた。

永田は無言のままポケットから朱肉を取り出し、押し当てた。

ペタリ、と重い音が茶室に落ちる。

朱の強い匂いが沈香の煙を切り裂いた。

「……交渉成立やな」

 小林は満足そうに和紙を回収すると、懐へ収め、一度も振り返ることなく静かに茶室を辞していった。

 商人が去り、茶室には冷えた空気だけが残された。

 永田は歪んだ顔のまま、石原へ視線を移した。

「……時子は、今、何歳になった」

 石原の指先が、木珠の上でぴたりと止まる。

「……あの子に、俺が直接『政治統制学』を教える。

国家を数理と制度で縛り上げる学問だ」

 沈香の煙が静かに揺れた。

 石原は膝の上で数珠を静かに置くと、軍帽の庇に手をやり、深く被り直した。

その瞳には恭順も激情もなく、ただ冷ややかな「構造の認識」だけが宿っていた。

「……永田さん」

 低く、抑揚のない庄内訛りが畳を這う。

その響きには上官への敬意など一切含まれていない。

「結構ですな。

国家統制の法理と毒、残らずあの子の脳髄に叩き込んでいただきましょう。

……ただし」

 石原は懐から真鍮のボルトを取り出し、カチリと畳の上に立てた。

「時子はあなたの『作品』にはならん。

あなたが構築する統制院の制度そのものを、あの子が上から算盤ではじき、呑み丸めるだけだ。

……小林さんの勘定台帳とな」

 永田の細い目が、わずかに細まった。

「……貴様はどうする、石原」

「来月、参謀本部作戦課長として三宅坂に入ります」

 石原はボルトから手を離し、畳の上で直立する金属の固まりを指先でじっと見つめた。

「あなたが『統制院』の看板を背負って政治の泥をかぶる横で、私は参謀本部から全軍の兵站と作戦動員を握る。

あなたがどれほど歪んだ政略を企もうと、弾薬と油と配当の蛇口は、すべて私が三宅坂の作戦机の上で締め上げる」

 石原はゆっくりと顔を上げた。その目はガラス玉のように澄み、陸軍省の階級制度すら単なる「利用可能な規格」として処理していた。

「逃げ場はありませんよ、永田さん。

私と時子が、三宅坂の上下から挟み撃ちにする」

 竹樋から、カコンと乾いた水音が響いた。

 永田は自嘲するように声もなく笑い、中折れ帽を深くかぶり直した。

「……三宅坂で待っているぞ、石原」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。