雨の混じる新橋の街角。
塗りの禿げた木製の公衆電話ボックスに、湿った外套を羽織った男が滑り込んだ。
鋳物の受話器を持ち上げる手が、微かに湿っている。
長距離回線特有のジジ……
という乾燥した雑音が耳を刺した。
「……市外通話だ。
大阪、陸軍第四師団長室。
石原を呼び出せ」
三宅坂の陸軍省交換手を回避した直通回線。
受話器の奥から、不機嫌そうな庄内訛りが落ちてきた。
『……永田さん、約束が違うべ。
あの時、時子が学校を卒業するまでの二年と決めたはずだ。
昭和十三年三月まで、東と西で大人しく盤面を整える約束だったはずだ』
「……状況が変わった」
永田鉄山は中折れ帽の庇を指で押し下げ、ボックスのガラス越しに暗い夜の街を見つめた。
「今夜の夜行で大阪へ入る。
……官舎も師団長室も使わん。
憲兵と三宅坂の目が絶対にとどかない場所を用意しろ。
小林一三も同席させろ」
『……永田さん、声が割れてるべ。三宅坂で何をやらかした』
「……行けばわかる」
受話器の向こうで、ジャリ……
と素朴な木珠の擦れ合う音が途切れた。
『……池田だ。
阪急の小林さんの私邸、雅俗山荘へ来い。
あそこなら軍靴の音も聴こえん』
フックを押し込む金属音が、狭いボックス内に低く響いた。
冷たい鉄の匂いと、己の荒い吐息だけが残る。
翌朝。
七時三十分。
梅田の阪急百貨店一階。
巨大なドーム屋根の下、夜行列車から降り立った永田は、鼠色のスーツの襟を立て、人波の端を歩いていた。
視線の先には、朝光を受けて深く濡れたように輝くマルーン色の車体。
乗降口を行き交う女学生やサラリーマンの整った身なり。
その皮膚の艶に、戦争の陰りなど微塵もない。
買い求めた池田までの小さな硬券。
指先の中で、厚紙の冷たさがやけに重かった。
ふかふかの座席に深く身を沈める。
滑るように走り出した電車。
車窓を流れる三国、曽根、豊中の街並み。
整然と区画された住宅街と、庭先に干された白い洗濯物。
銃と命令で国民を縛り上げようとした己の「国家総動員」。
その足元で、この商人は民衆の欲と生活の循環だけで、巨大な「無血の王国」を完成させていた。
池田に着くまでの三十分間、永田は言葉を失ったまま、流れる車窓の眩しさから逃げるように固く目を閉じていた。
池田。
雅俗山荘。
茶室の静寂を破るのは、庭の竹樋から石灯籠へ落ちるカコンという乾いた水音だけだ。
香炉から立ち上る薄い沈香の煙が、幾層にも揺れている。
床の間を背にした小林一三は、手元の茶碗を静かに回していた。その隣で、石原莞爾は膝の上で数珠の木珠を繰っている。
茶室に時子の姿はない。
学校へ通う時刻だ。
畳の上に一通の書類が滑り出された。
三宅坂の陸軍省秘書課の極秘印が押された決算書。
「常磐勿来の四号反応塔、見事に吹き飛んだそうやな」
小林は茶碗を畳に置くと、視線も上げずに言った。
「四百五十度、二百気圧の水素に耐えられんかったか。
……『西日本の石油に頼らずとも、東は独自に精製できる』と大見栄を切ってきた君のドクトリン、跡形もないな」
「……あそこが煙になった途端、東の全演習用燃料が底をついた」
永田は両手を膝に置いたまま、動かない。
背広の襟元から覗く首筋に、冷たい汗がひとすじ伝う。
「……失脚はどうでもいい。
だが私が去れば、三宅坂は『神国と大和魂』のバカどもの手に戻る。
油も持たぬまま精神論で暴走し、我が国の軍事構造はそこで終わる」
「で? 君は何を差し出せるんや」
「……西日本の自主権だ。
西が主導する構造改革を、陸軍省の正式な『標準』として認めさせる。
大阪の路面網も地下鉄も、すべて阪急に差し出す」
小林は扇子を膝の上で弄びながら、フッと鼻で笑った。
「……まるで足りんな。
まず、白鶴、青鶴の航空網や。
これまで西日本だけに限定されていた許認可をすべて叩き潰し、東京、札幌、太平洋、南洋に至る全アジアの空路独占権を寄こしなさい。
そして。
君が三宅坂で極秘裏に進めておる、あの新省庁構想や。
『国家統制院』と言ったな」
永田の喉が、わずかに揺れた。
「予定通り、その『国家統制院』を今すぐ立ち上げなさい。
初代院長には君が就く。
……ただし、統制院の物資動員計画と予算割当の決裁権は、すべて我が阪急の勘定台帳に直結させる。君は表で『国家総動員』の看板を掲げていればえぇ。
中の数字はすべて、うちらが動かす」
永田の唇から、血の気が引いた。
「……国家を、阪急の事業部にする気か」
「人聞きが悪いな。
国家の無駄を省き、一番効率のええ『規格』で揃えてあげるんや」
小林は懐から一枚の和紙を滑らせた。
永田は無言のままポケットから朱肉を取り出し、押し当てた。
ペタリ、と重い音が茶室に落ちる。
朱の強い匂いが沈香の煙を切り裂いた。
「……交渉成立やな」
小林は満足そうに和紙を回収すると、懐へ収め、一度も振り返ることなく静かに茶室を辞していった。
商人が去り、茶室には冷えた空気だけが残された。
永田は歪んだ顔のまま、石原へ視線を移した。
「……時子は、今、何歳になった」
石原の指先が、木珠の上でぴたりと止まる。
「……あの子に、俺が直接『政治統制学』を教える。
国家を数理と制度で縛り上げる学問だ」
沈香の煙が静かに揺れた。
石原は膝の上で数珠を静かに置くと、軍帽の庇に手をやり、深く被り直した。
その瞳には恭順も激情もなく、ただ冷ややかな「構造の認識」だけが宿っていた。
「……永田さん」
低く、抑揚のない庄内訛りが畳を這う。
その響きには上官への敬意など一切含まれていない。
「結構ですな。
国家統制の法理と毒、残らずあの子の脳髄に叩き込んでいただきましょう。
……ただし」
石原は懐から真鍮のボルトを取り出し、カチリと畳の上に立てた。
「時子はあなたの『作品』にはならん。
あなたが構築する統制院の制度そのものを、あの子が上から算盤ではじき、呑み丸めるだけだ。
……小林さんの勘定台帳とな」
永田の細い目が、わずかに細まった。
「……貴様はどうする、石原」
「来月、参謀本部作戦課長として三宅坂に入ります」
石原はボルトから手を離し、畳の上で直立する金属の固まりを指先でじっと見つめた。
「あなたが『統制院』の看板を背負って政治の泥をかぶる横で、私は参謀本部から全軍の兵站と作戦動員を握る。
あなたがどれほど歪んだ政略を企もうと、弾薬と油と配当の蛇口は、すべて私が三宅坂の作戦机の上で締め上げる」
石原はゆっくりと顔を上げた。その目はガラス玉のように澄み、陸軍省の階級制度すら単なる「利用可能な規格」として処理していた。
「逃げ場はありませんよ、永田さん。
私と時子が、三宅坂の上下から挟み撃ちにする」
竹樋から、カコンと乾いた水音が響いた。
永田は自嘲するように声もなく笑い、中折れ帽を深くかぶり直した。
「……三宅坂で待っているぞ、石原」