白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二部 第一章『陣中』(1938年 7月)

潮の匂いに、焼けた重油と、銀座から運ばせた栗ピュレの甘い香りが混ざり合っていた。

 東京湾。

竹芝埋立地。

 東京市と内務省から「陸軍東京湾対空防空港湾施設」の名目で奪い取った浅瀬の泥地である。

隣接する浜離宮の御料地から勝手にその威光を掠め取り、小林一三が『阪急浜離宮大回廊』と名付けたガラスと鉄骨の巨大な建造物は、夏の日差しを強烈に跳ね返していた。

 海軍から買い叩いた老朽駆逐艦三隻を着底させて築いた防波堤の向こうに、専用桟橋が海へ突き出ている。

「遅いな」

 テラスの縁で、小林一三が金の懐中時計のカチリという音を響かせた。

 重低音が海面を震わせ、南の空から「白鶴一型」が姿を現した。

大連からの長距離飛行を終えた巨躯が、水煙を盛大に巻き上げて海面を滑り、阪急浜離宮大回廊の専用桟橋へ横づけされる。

 ハッチが開き、タラップを降りてきた影に、視察に来ていた三宅坂の官僚どもが息を呑んだ。

 先頭を切って降りてきたのは、十四歳の時子だった。

 紺色の夏季ワンピース。

一年半足らずで骨格が一気に跳ね上がり、その背丈は小林の頭頂を頭一つ分上から見下ろす程まで伸び切っていた。

白い丸襟から伸びる首筋と、仕仕立て直しの追いつかない裾から覗く足首の線は、かつて第四師団の廊下を走り回っていた幼さを完全に脱ぎ捨てていた。

 そのすぐ後ろを、軍服の第一ボタンまで隙なく留めた石原莞爾少将が、数珠を握りしめたまま無感覚な目で見守っている。

 時子は一直線に歩み寄ると、抱えていた厚い革袋を小林の胸元へ無造作に押し付けた。

上から見下ろす時子の冷たい眼光が、小林の薄い頭頂部を静かに射抜く。

「わさじいに言われた高層偏西風のデータ。

大連で山下のおっちゃんから受け取ったよ。

……約束のやつ、早く」

「はいはい、わかってる。

冷房の効いた部屋に、特大の、用意してあるわ」

 小林は顎を突き出し、背を越された視線をわざとらしく見上げながら、薄い唇をくしゃりと折った。

 特別室の重い扉が閉まるなり、ガラス越しにしみ出る冷気が肌を刺した。

 時子はワンピースの細い袖口から覗く長い手首でフォークを握りしめた。

資生堂パーラーから運ばせた、冷やした栗のピュレと濃厚な生クリームの塊。

大きな一口を口へ放り込むと、引き締まった喉がゴクリと鳴り、甘い匂いが吐息とともに溢れる。

 小林がテーブルの端へ滑らせた一冊のファイル——三宅坂の『東亜物資集積概算帳簿』。

 二口目を口へ運ぶ動作の途中、時子の黒目が静かに下を向いた。長くなったまつ毛の影が頬に落ちる。

 咀嚼を止めないまま、細い指先のフォークが乾いた紙面をカツンと突いた。

「三行目。……15キロ、浮いてる」

 口の中に甘味を含んだ、不快そうな声。

「羽田の油槽。

猛暑でガソリンが化けてるのに、大正十二年の換算表のまま。

……月にドラム缶七十本分、どっか流してるか、水混ぜてるわ」

 小林一三は薄い唇の端を吊り上げると、胸ポケットから金の万年筆を抜き取った。

時子の指し示した『15』の数字の上に、万年筆の先で一本の細い黒線を静かに引き、余白に『膨張密度補正・白鶴精製引渡分』と流麗な達筆で走り書きする。

「……猛暑による比重低下と沈殿水混入、やむなし。

大蔵省にはそう報告しておきますわ。

白鶴の給油船を今夜、羽田の裏へつけさせなさい。

浮いた十五キロリットルと汚濁燃料、全てうちで買い取って再精製して差し上げます」

「こ、小林社長、そのような勝手な帳簿の書き換えと軍物資の民間売却など、本省が認めるわけが……!」

 立ち会っていた陸軍主計中佐が蒼白な顔で声を荒げかけるが、小林は万年筆をポケットに戻し、冷ややかな笑みを向けた。

「大蔵省主計局への回しは済んでます。

あんたらが今夜黙って印を捺せば、横領犯にならずに『猛暑による揮発事故の適切な処理』で済む。

……断るなら、明日には憲兵隊があんたらの自宅の庭を掘り返すことになりますが?」

 皿の上のクリームを削ぎ落とするフォークの音と、主計中佐の激しい歯の根の鳴る音。

 不正を暴くだけでなく、その弱みを握って軍のガソリンを合法的に吸い上げる構造が完了した瞬間、立会いの官僚どもの額から油汗が噴き出した。

自らの首の皮が完全に阪急に握られているという不可逆の現実に、喉が引きつった。

 石原は硝子玉のような目でその光景を見つめると、数珠を一度だけ硬く繰り、軍帽を深くかぶり直した。

時子の頭へ、大きな無骨な手をぽんと乗せる。

「……時子は小林さんとここで待て。

とおちゃんは三宅坂へ行く」

 時子はナプキンで口元を力強く拭うと、皿に残った生クリームの最後の一滴まで綺麗に削ぎ落とし、ただ黙って石原の背中を見送った。

 三宅坂。

陸軍省。

 軍務局長室の空気は、湿った紙と冷え切った汗の匂いに満ちていた。

 執務机の上に積まれた『武漢方面・十五個師団増派要求書』を苛立ちとともに押しやり、軍務局長、永田鉄山中将が眼鏡の奥の細い目を石原に向けた。

「大連から戻ったばかりだな、石原。

小林さんが竹芝の泥地に杭を打ち込み、時子が官僚どもの胃袋を叩き破ったと聞いた」

「軍務局長」

 石原は無表情のまま、一枚の書類を机の上へ滑らせた。

「過激派の騒ぐ『汎用徴兵令改正案』、撤回していただきたい。

農村から貧民を集めて銃を持たせる時代は終わりました。

全兵力枠を、局長の推し進める『技術練成』へ移行させます」

『阪急技術専門大学・設置計画書』。

 永田が書類を目でなぞる。

数秒の沈黙。

「……全男女への三年間の技術教育、学費全額免除。

協賛は住友、川西、三井。

……私の制度を、西の資本で私物化する気か」

「違います。

局長の制度を、西の資本で完成させたのです。

……十六歳で本校に入学した者は、全軍の出征を『技術動員枠』として代替させる特例法案をご執筆いただきたい」

 永田は万年筆のキャップをカチリと外した。

「……これでは足りん。

三菱、日立、安田、理研……

関東の全財閥へ陸軍省令で軍事徴収をかける。

東の企業を逃がすつもりはない。お前たちのこの計画書を、陸軍直轄の国家総動員令へ書き換えて呑み込んでやる」

 永田の眼鏡の奥が凍りつく。

 西日本の白鶴システムは、六十万の兵と施設維持費を抱えた「止まれば即破綻」の自転車操業。

東の巨大資本を力ずくで巻き込み、白鶴の規格へ引きずり込まねば自滅する。

最初から、永田の権力で東の金を強奪させることが石原の計算だった。

「私を利用して東の太っちょどもを食い散らかす気か、石原」

 石原は答えず、右ポケットからズシリと重い金属の塊を取り出すと、朱塗りの天板へ直接叩きつけた。

 硬質で冷ややかな金属音が、室内を支配していた泥沼の徒労感を切り裂く。

 真鍮製の管継手と、見たこともないピッチが刻まれた特殊鋼の規格ボルト。

「……長江流域のすべての船舶修理ドック、揚水ポンプ、発電施設。

現在我々が裏でバラ撒いているのは、すべてこの規格のネジです。

既存のイギリス規格とも、国民党のドイツ規格とも噛み合わない。

……歩兵を泥沼に追いやる必要はありません。

この部品供給の蛇口を握れば、戦わずして南京は我々の規格に従属します」

 永田はボルトを指先でつまみ上げ、じっと見つめた。

機械油の匂い。

「……南京の動力をこのネジで縛るか。

西の供給を止めれば、長江の現地軍ごとポンプ類が自爆する。

……私への人質か」

「軍務局長。揃えたのです」

「……くっ、ふふ」

 永田の喉から、乾いた笑いが漏れた。

「結構。

ならば陸軍省令により、この図面を『陸軍臨時軍需統一定則』に指定する。

芝浦、東京瓦斯電気、日立の全工程へ勅令で転写させ、特許も意匠もすべて国家が接収する。

東の全生産力でこのネジを吐き出させ、西の供給独占を無効化してやる」

 永田は「西の独占を国家の暴力で奪い取り、東の生産力で踏み潰した」と確信し、万年筆の先でボルトをコンと叩いた。

 だが、石原の無表情な顔の奥で、数理の刃が静かに閃いていた。

 国家の手で東の巨大生産力を動かせば動かすほど、「白鶴の規格」が日本公式の国家規格となり、東日本全域どころか日本帝国全土が不可逆的に白鶴の生態系に呑み込まれていく。

「特例法案は起草させる。

途中で足を踏み外せば、小林の会社ごと国家の胃袋で破砕する」

「はっ」

 石原は寸分の隙もない敬礼を捧げると、踵を返して重い扉へ向かった。

 背後で永田は去っていく石原を見ようともせず、手の中のボルトを指先で執拗に弄び続けていた。

 どれほど巧妙に規格を張り巡らせようと、最後にはその規格ごと「国家の胃袋」がすべてを噛み砕き、消化吸収してしまうのだという絶対的な冷酷さ。

 扉が閉まり、石原が廊下へ踏み出す。

 窓の外では、生ぬるい雨が三宅坂の舗装を静かに叩き続けていた。

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