東京。
霞ヶ関。
海軍省軍務局長室。
厚い木製鎧戸が真夏の灼熱を遮る薄暗がりの中に、重油と磨き上げられた革、そして真鍮扇風機が送るぬるい風の匂いが漂っていた。
卓を挟み、三宅坂から乗り込んできた擦り切れた袖口の陸軍大佐が立っていた。
握りしめた拳の節が血の気を失い、卓上の青インクの壺をかすかに揺らしている。
「……北海道の泥の中に追いやられ、油一滴すら掘れぬまま枯れていく我らの前で、海軍は長江の空路を小林一三と買い叩くか。
それが霞ヶ関のやり口か!」
掠れた声には、敗残の粘りつくような怨嗟と、陸軍の面目を潰された激怒が入り混じっていた。
執務机の奥、整然と書類が並べられた革椅子から立ち上がった男の白軍服には、微かな皺ひとつ無かった。
海軍省軍務局長、井上成美少将。
井上は無言のまま万年筆を卓上のスタンドへ戻した。
カチリ、という金属音すら立てぬ手元で一枚の薄紙の端を揃える。
指先の乾いた擦過音だけが、室内の息苦しい沈黙を切り裂いた。
「大佐。
大声を出す場所をお間違えではありませんか。
ここは海軍省です」
井上の声には高低がない。
静かな水面のように透き通っている。
「長江の水面は、陸軍省令の及ぶ地ではございません。
ロンドン条約第十五条、ならびに細則。
これは『不可侵の民間救難事業』でございます。
陸軍省側永田局長の手印も、閣議の判も、すべてここに」
大佐の首筋の筋が浮き出た。
卓に突いた拳が、じわじわと滑っていく。
「永田閣下が……
このような愚行を許すはずが……!」
「不服がおありなら、ジュネーヴへお申し立てを。
海軍省がお取次ぎいたします」
井上は帽子を手に取り、寸分の狂いもなく庇の角度を整えて頭に乗せた。
その眼光は、目の前に立つ陸軍大佐を人間としてすら認識していない。
大佐の喉がゴクリと鳴った。
陸軍の威勢も怒号も、井上の構築した海軍の冷たい法理の壁に跳ね返され、虚しく霧散するしかなかった。
香港。
ペニンシュラホテル最上階。
天井扇風機の真鍮の羽根が、キィ、キィと重い音を立てて湿気を引き裂いていた。
阿片の甘い残り香と、広東アヒルの焦げた脂。
国民政府財務部長、宋子文は、グラスの中の角氷をガリりと噛み砕いた。
吐き出された息が、高級ハバナ葉巻の煙を白く乱す。
「……一型か」
小林一三は答えず、絹の小切手帳を広げた。
万年筆の先が滑り、青いインクが数字を刻む。
その紙片を、氷の溶けかけたグラスの脇へ滑らせた。
「宋さん。
洞庭湖の泥水で波高二メートル。これに耐えられる脚は、一型しかありませんわ」
小林の指先が、テーブルの上で穏やかに折られた。
「二型を南京に渡してみなさい。一度分解したら最後、二度と元には戻せへん。
部品も、改修部材も、天保山から一型専用のものを送り込みます」
宋子文の煙草を挟む指が止まった。
小切手の角に落ちた水滴が、インクの数字を微かに滲ませていく。
「……整備工具は」
「うちの技師が箱ごと抱えて移住します」
小林の薄い唇が、静かに横へ伸びた。
「社長の名義はおたくで結構。
操縦士も南京の若者を使いなはれ。
……ただし、ネジ一つ、天保山の規格以外は噛み合いません」
真鍮の羽根が回る音だけが続いた。
宋子文は煙草の灰を銀の皿へ落とし、無言で小切手をポケットへ滑り込ませた。
洞庭湖。
赤けた夕もや。
濁った水面に、巨躯の「白鶴一型」が浮いていた。
ガソリン船の排気音が、水面を伝って低く響く。
横づけされた革張り客室の内側は、湿気でガラス窓が白く曇っていた。
陳誠少将は、洗いたてのハンカチを何度も握りつぶしていた。
卓上に広げられた『白江航空運航協定書』。
その端を、汗ばんだ指先が湿らせている。
だが、その手がピタリと止まった。
陳誠の血走った目が、石原莞爾の脇で無言で佇む十四歳の時子に注がれる。
不快感と激怒で、彼の頬の肉が引きつった。
「……石原将軍。ひとつ伺いたい」
陳誠の声が重く沈んだ。
「この会談は、重慶と南京、ひいてはわが国民政府の空の主権を賭けた極秘の軍略だ。
……なぜ、そのような支那の泥も知らん幼い女子供が同席している? 貴国は我々を愚弄しに来られたのか!?」
陳誠が卓を叩いた。
銀の灰皿が跳ね、乾いた音が室内に響き渡る。
対面に座る石原莞爾は、数珠を繰る手すら止めなかった。
数珠の玉がカチリと鳴り、冷酷な眼光が陳誠を静かに射抜く。
「愚弄、ですか」
一切の訛りを排した石原の低い声が、湿った室内を凍りつかせた。
「陳閣下。
これは飾りではございません。
天保山の工場でボルト一本の規格から身体に叩き込んだ、我が『白鶴』の眼であります」
「何……?」
「紙の上の協定書など、現場の湿気とネジの規格ひとつで無価値に変ずる。
この娘の目が不適合と判定すれば、貴国の航空隊は一機たりとも離水できません。
……貴国を対等な交渉相手とみなしているからこその同席であります。
礼を言われてもよろしいくらいだ」
陳誠が言葉を詰まらせ、激昂のあまり息を荒らげた。
時子は一切の感情を交えず、ただ制服のポケットの中で冷えたボルトのネジ山を指先となぞり続けていた。
陳誠の怒号も、首筋に浮き出た汗も、時子にとっては「規格に揃っていない不快なノイズ」でしかない。
阪急技研の技師が、無言で陳誠の手元から計算書を引き寄せた。胸から抜いた万年筆の朱インクが、カリカリと乾いた音を立てて数字を赤く塗り潰していく。
「陳閣下」
技師の声には、感情の起伏が一切ない。
「水温三十二度、湿度八十八パーセント。
空気密度が六パーセント落ち、出力が削がれます。
そこへその粗悪ガソリンを満載し、無謀に過給圧を掛け入れれば、離水前に異常爆発を起こしてピストンを打ち砕きます。
……一メートルたりとも浮きません」
赤く染まった紙が、陳誠の膝元へ押し戻された。
時子は陳誠の震える指先を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「……計算、三パーセント間違えてる。
湿度の分、引いてへん」
十四歳の少女の平然とした指摘。
陳誠の顔から一瞬で血の気が引いた。
軍人としての矜持も、大人としての尊厳も、冷酷な「規格と計算」の前にズタズタに引き裂かれていく。
陳誠の胸ポケットには、重慶からの直通電報が入っている。
『異議を挟むな』の一言だけが打たれた電報だ。
弾丸の一発も交わさぬまま、気温と、湿度と、少女の冷たい計算という見えない網の中に、大陸の空が丸ごと落ちていく。
陳誠は膝の上の赤インクを見つめたまま、喉の奥で息を詰まらせた。
石原莞爾が、初めて視線を上げた。
曇った窓の向こう、夕もやに沈む巨大な主翼を見ている。
「……四川から重慶まで鉄路を敷けば、三十年と三十億ドルを費やすことになる」
完璧な標準語で紡がれた冷徹な言葉が、静まり返った客室に落ちた。
「洞庭湖の水面を使えば、今日この瞬間から、重慶も成都も我々の『駅』に過ぎない」
莞爾の眼光には、勝利の感慨すら無かった。
ただ盤面の詰みを確認する作業のように、朱肉の箱の蓋を爪でコツンと叩いた。
「……判を」
陳誠の手が震え、押し付けられた朱肉が紙の上で歪んだ。
時子はポケットの中で、硬い鉄のネジ山を強く指先で圧した。
沈黙の中、爪の間に冷たい鉄の感触だけが残った。