浜離宮。
阪急大回廊。
潮風がガラス窓を震わせ、東京湾のギラついた水面が天井へ白い光を跳ね返していた。
白磁の皿に載っているのは、阪急マルーン色に妖しく光る洋菓子——阪急モンブランだ。
「おねえちゃん、早よ食べな。
クリーム溶けてきてる」
十四歳の時子は口の端に白クリームをつけ、スプーンを豪快に突っ込んだ。
合成バニリンの刺すような香りと、重厚な甘み。
麻布の湿った書斎と線香の臭いが、大量の糖分で強引に塗りつぶされていく。
十九歳の靚子は、不器用にスプーンをペーストへ向けた。
「……綺麗な赤ね。
お山のかたちなのに、どうしてこんな色をしているのかしら」
「おっちゃんの騙し絵やねん」
時子はスプーンの先でケーキの断面を冷たく指した。
「栗なんか二割も入ってへん。
あとは小豆の絞りかすとサツマイモ。
川に捨てる渋汁を梅酢で染めた、阪急電車の赤や。
クリームも綿実油の落とし子。
原価、五銭」
「五銭……?」
「地下の売店で十八銭、最上階のここで五十銭。
……でも、甘くて美味いやろ?」
時子に促され、靚子はそっとペーストを口へ運んだ。
濃厚な油脂の甘みが、冷たい質感とともに舌の上で跳ねる。
母を亡くしてから六年近く、何を噛んでも砂のようだった喉の奥へ、強烈な熱量が流れ込んできた。
「……ええ。すごく……甘いわ!」
麻布の暗い重圧が、舌の痺れとともにゆっくりと解けていった。
「時ちゃん!
ちょっとこっち来なさい!」
回廊の特等席からダミ声が響いた、小林一三だ。
卓上には帳簿と書類。
横では佐賀弁の老学者、大石和三郎が上空一万メートルの気象図面を広げている。
時子は靚子の手を引き、机の横へ立ち寄った。
「大連を自由港にする。
英米の商船を無税で叩き込んで、三宅坂の陸軍を干し揚げるんや」
小林が金の懐中時計をパチンと閉じる。
大石が偏西風の図面を細い指で叩いた。
「……問題は気象電信たい」
大石は図面から目を離さず、佐賀弁の細い声で静かに呟いた。
「上空一万メートルの風はな、嘘をつかん。
狂うのはいつも、地上の人間の手元たい。
黄海から渤海湾のデータを英文で打ち続けんとイカンが、うちの技師は油まみれで、まともな英語なんぞ書けぬ」
「三宅坂に隙を見せへん外交級の英文が要る。
……時ちゃん、誰かおらんかお父ちゃんに聞いてんか?」
「おっちゃん。
ここに最高の専門家がおる」
時子が後ろに立っていた靚子の背中をそっと押し出した。
靚子は背筋を伸ばし、着物の裾を静かに整えて深々と頭を下げる。
「はじめまして。
……井上靚子と申します」
小林の目が、眼鏡の奥で一瞬にして光った。
懐中時計を握る太い指が止まる。
「……軍務局長の、井上君の御息女か」
「はい。
父より外交公文書の手ほどきを受けております。
英文データの精査でしたら、滞りなく処理できます」
大石が眼鏡のツルを指先で押し上げ、初めて靚子の細い手元を凝視した。
その眼孔には、少女を人間としてではなく、精密な測定器として見定めるような冷たい光が宿っていた。
「……軍務局長の娘が引く線の美しさ。
これなら、陸軍の雑音も大気の乱れも、一文字たりとも混ざり込めん。
綺麗すぎる電信になるばい」
「……決まりや」
小林の手元で、冷酷な損益計算が完結した。
「『白江航空・暗秘気象翻訳顧問』。
表に名前を出さん幽霊になってもらう。
……井上君にはわしから直接電話を入れておく。
『心置きなく三宅坂で暴れろ』とな」
「……わたしが、父の背中を守る影になれるのですね」
「役に立つどころちゃう」
時子が靚子の手に自分の手を重ねた。
「おねえちゃんが精査した風のデータで、白鶴が飛ぶんや。
……麻布の静かな家で井上先生の無言に怯えてるより、裏部屋で騙し絵のモンブラン食べながら電信打ってる方が、ずっと合理的やん」
「ええ……喜んでお受けいたします、小林社長」
その瞬間、小林が破顔し、傍らの宣伝部員へ手を振った。
「よし!
宣伝部、カメラ持ってこい」
「は? ……カメラでございますか?」
「はよ、陸軍と海軍の血を引く男前の嬢ちゃんらが二人も揃ってるんや。
このモンブランの販促ポスター撮るに決まってるやろ」
「おっちゃん、名前出せへんってゆうたとこやん」
「名前なんか出せへん。
『阪急百貨店が贈る秋の雅味』や。
ハイカラな女学生と格式高いお嬢様がマルーン色のモンブランをつついてる写真一枚で、阪急の客が何千人押し寄せると思ってんねん。
……ほら二人とも、皿挟んで顔寄せ合って」
暗箱カメラが据え付けられ、マグネシウムの光が白く炸裂した。
レンズの向こう側で、代用油脂と小豆の渋汁で作られたケーキを挟み、二人の「影」が静かに見つめ合っていた。
数週間後。
梅田駅、各地大回廊のコンコースに掲げられた巨大なセピア色のポスター。
『美味にして経済的!
阪急が誇る 色の芸術品』
『一個 五拾銭(地下売店にて気軽な一角 十八銭も御座います) 阪急百貨店』
行き交う雑踏の頭上で、何も知らぬ群衆に向け、二人の少女が冷ややかに微笑み続けていた。