白鶴物語   作:石原時子

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第四章 『はくつる』(1928年 8月)

 

 兵庫県武庫郡鳴尾村。

 重く湿った潮風の中に、冷えたシャンパンの酸っぱい匂いと、日焼け止め油の甘い脂臭さが混ざり合っていた。

 天幕の下、冷えた氷桶からシャンパンの泡が静かに吹きこぼれている。

 四歳の時子は、潮水で湿った素足の指先で砂を握りつぶしながら、砂浜に落ちている白い小さな貝殻だけを、だまって拾い集めていた。

「陸に滑走路など要らんのだよ、石原君」

 山本五十六がグラスを指先で揺らし、沖合の波間に漂う巨大な影を顎でしゃくった。

 川西航空機が極秘裏に磨き上げた、『さくら号』の治具を流用した双発大型飛行艇。

 ジュラルミンの骨組に上質の羽二重布を張り巡らせた主翼の下、優美な艇体の客室床下には、山本との密約通り、爆弾懸架用の重ボルトの頭が、黒々とした塗料の下で鈍く光っている。

「平時は優雅な客船だ。

だが水の上に置けば、瀬戸内海すべてが滑走路に化ける。

有事には数時間で長距離哨戒爆撃機だ」

「軍縮条約を嘲笑う二重構造……」

石原は下腹部の疼きを押し殺し、薄い唇を吊り上げた。

「小林さん、これなら海軍の委託補助金を名目に、大蔵省の目を盗んで川西へ金を流せますな」

 その時、沖合の飛行艇の四百五十馬力エンジンが地鳴りのような爆音を吐き出した。

 猛烈な風圧が砂浜を叩き、真夏の太陽を浴びた海水が、白い飛沫となって天幕まで吹き抜ける。

 重鉄の塊が波を切り裂き、瀬戸内海の青い海面に巨大な『V』の字を刻みつけた。

 水面の吸着力を力ずくで断ち切り、純白の巨翼が青空へ垂直に舞い上がっていく。

 強烈な振動が砂浜を揺らした。

時子は素足で砂を蹴ると、石原の軍靴にしがみついた。

石原が抱き上げると、幼い腕が石原の首にしがみつく。

泣き声一つ上げず、空へ吸い上げられていく白き影を、凝視していた。

「……しろい、つる」

ぽつり、と鈴を転がすような声。

小林一三がステッキを砂に深く突き立て、低く鼻を鳴らした。

「白鶴、ですか。

……灘の酒のようでよろしいな。

陸では一歩も動かんかった鉄の塊が、水に浮かせただけで化けた。ええ商売や」

 小林は背を向け、砂を蹴って車へ戻っていく。

山本は煙草を指で押しつぶし、上空で旋回する白い翼を冷たく睨み据えていた。

 

 

 車が池田の白梅館へ着くと同時に、玄関から飛び出してきた使用人の顔は泥のように蒼白だった。

「旦那様、石原様の奥様が……! お庭で血を吐いて倒れられまして……!

いま急ぎ病院へ……」

 石原の息が止まった。

公文書偽造の罪、三・一五の獄死者の娘を抱え込む毒、そして大資本家の手に落ちた恐怖。

冷血な参謀の仮面の下から、不様な「夫」の狼狽が噴き出す。

「石原さん、車を使いなはれ」

小林の冷ややかな声。

石原は腕の中の時子を強引に地面へ下ろすと、地面に足を奪われそうになりながら、転がるように車へ飛び乗った。

軍靴が砂利を汚らしく散らした。

 静まり返った白梅館の居間に、山本五十六と小林一三、そして四歳の時子だけが取り残された。

 時子は父の去った車道を見送ることもなく、絨毯の上にペタリと座り込んだ。

小林が用意させた木製の積み木箱から、白木の立方体を一握り、畳の上へぶちまける。

「……陸軍の異端児も、女房の血には勝てませんな」

山本がタバコを噛み下した。

「いや……

あの妻も夫の狂気を背負うておる。

自爆したようなものですな」

二人の冷ややかな視線が、床の幼女に注がれる。

時子は、赤や緑の三角、円柱の積み木には目もくれず、それらを乱暴に脇の暗がりへ押しやった。

手に取ったのは、同じ形、同じ白木で作られた立方体のみ。

小さな指先が、微かなズレを嫌うように動く。

板目に沿わせ、カチリ、カチリと音を立てて、一ミリの狂いもなく一直線に繋いでいく。

幼子の曖昧さなど微塵もない。

爪の間に泥を溜めた小さな指先が、正確な機械のように積み木を『揃えて』いく。

「時ちゃん。

もっと高く積み上げなさい。

お城の方が綺麗ですよ」

小林が膝をつき、赤く塗られた綺麗な円柱を差し出した。

時子の手が、ピタリと止まった。

こぼれ落ちそうな真っ赤な頬を硬く膨らませる。

小林の差し出した円柱を、指先で『汚物』のようにツンと押し弾いた。

円柱が転がり、絨毯の隅へ消える。

時子は残された白木の立方体を握りしめ、吸い付くような手つきで直線の一番端へ隙間なく押し当てた。

「……みんないっしょ」

感情の欠片もない、乾いた声。

「……けんか、いや」

形が違うものは弾く。

不揃いなものは排除する。

同じ規格の白だけを、同じ間隔で、どこまでも一直線に並べ尽くす。

指先が刻むその冷徹な規則性に、居間の熱気が凍りついていった。

最後の一個を並べ終えると、時子はゆっくりと顔を上げた。

感情の揺らぎない黒目が、膝をつく小林一三の眼孔を、至近距離から射抜いた。

小林の手が、ステッキの柄の上で硬直した。

額から、冷や汗が一すじ、頬を伝って落ちる。

山本もまた、息を殺していた。

小林はゆっくりと立ち上がり、掠れた声で吐き捨てた。

「……山本さん。

えらい怪物を引き取りましたな、あの男は」

庭の蝉時雨が、ピタリと止んだ。

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