白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第五章『鶴子』(1938年 8月)

竹芝。

阪急浜離宮大回廊。

 海面に突き出た鋼鉄の脚組みを、真夏の潮風が叩いている。

 強烈なアーク灯が焚かれ、青白い光の束が、四発の火星エンジンから吐き出される濃密な排気ガスを、白く浮き立たせていた。

三脚の上に鎮座するのは、阪急技研と住友化学が総力を結集して組み上げた『国産天然色第一号(阪急カラー)』の巨大な撮影機だ。

現像液の酸っぱい臭いが、ガソリンと潮の匂いを押しのけて鼻腔を突く。

 海面に揺れる離水前の白鶴一型。

白亜の胴体、アクリル硝子窓、冷房を完備した一等客室型。

その奥で、時子は紺色のワンピースの襟元を苛立ちまぎれに指でつまんでいた。

「……何やねん。

『鶴子』って。

……千鶴ならまだしも、阿呆みたいやん。

ツルツルテンみたいやんか」

 姿見の鏡に映った自分の顔を苦々しく睨みつけ、白磁の器に盛られた大豆アイスへ銀のスプーンを乱暴に突き立てた。

隣の革張りソファでは、井上靚子が必死に口元をハンカチで押さえている。

「時子ちゃん、ふっ……ぐぅ……でも、もう撮影は始まってますし、さ、最後まで頑張りましょう?」

「そんなこと言って、おねえちゃんかて笑ってるやんか!」

「それは……

時子ちゃんの感想が、ふっ、くく……あ、あまりにおかしいからですわ」

 靚子は上品なハンカチで口元を拭い、必死に笑いを噛み殺した。

父、井上成美から叩き込まれた完璧な背筋、指先の角度、口元を隠す動作の隙間から、十九歳の素顔が漏れ出る。

「本番行くぞ!

天保山離水から大連到着まで、阪急カラーのノリを見せたれ!」

 外から監督のダミ声が飛んできた。

重々しいハッチが閉じられ、気密弁がプシューと音を立てて噛み合う。

 アーク灯が一斉に光量を増した。

四発エンジンが腹の底を揺らす低音を吐き出し、海面が狂ったように震える。

巨大な水飛沫が左右へ弾け飛び、純白の機体が水面を離れて空へ舞い上がった。

 雲上四千メートル。

黄海の上空。

 下界の酷暑が嘘のように、客室には冷涼な空気が満ちていた。

硝子窓の向こうには黄金の雲海。

阪急百貨店から派遣された客室給仕が、足音を殺して銀のトレーを運んでくる。

冷製コンソメスープ、極限まで薄く切られた但馬牛のローストビーフ、冷えたマルーン色の大豆アイス。

「……美味しいけど、これ、機内食の味ちゃうな。

百貨店の食堂の味や」

 時子が銀フォークでローストビーフを噛み切る。

客室マイクから監督の鋭い声が飛んだ。

「鶴子ちゃん、顔!

もっと優雅に!

おねえさまを見習って!」

 隣の靚子はすでに一切の音を立てず、正確な角度でスープを口へ運んでいた。

そして視線をわずかに落とし、完璧な手つきで英文の『白鶴大連航路案内』をめくってみせる。

時子も慌てて背筋を伸ばし、口元に完璧な笑みを作った。

 国産カラーフィルムの感光乳剤が、銀器の輝き、冷房の吐き出す白い気体、そして二人の可憐な動作を、恐ろしいほどの鮮やかさで焼き付けていく。

「見なはれ、この絵を」

 客室の最奥で、小林一三が冷やし飴のグラスを傾けた。

氷がカランと音を立てる。

「天保山を出て僅か六時間。

揺れもせず、冷房の効いた部屋で極上の洋食を喰い、窓の外には黄海が広がる。

……このフィルムを見せられた大衆はな、『阪急の規格に乗れば、誰でもこの富に手が届く』と錯錯するんや。

東日本の貧乏くさい白黒世界を、この色彩で焼き尽くしてやるんや」

 夕刻。

白鶴二型は滑らかに高度を下げ、大連港の水上へ滑り込んだ。

 二重窓の向こうに広がるのは、夕日に赤く染まる阪急軍艦ホテル山城の全景と、無税港の熱気に沸く大連の街並み。

満州興業の大豆金が化けた近代都市だ。

 タラップが架かり、乗降口が開く。

『おねえさま』の桜色の帯と、『鶴子』のワンピースが大連の乾いた潮風に跳ねた。

二人は並んでタラップを降り、カメラに向かって眩しい笑顔を向けた。

 数日後。

阪急浜離宮大回廊。

奥の特別試写室。

 室内は静まり返っていた。

ガラス張りのテラス越しに東京湾の潮騒がかすかに届く。

映写機がカタカタと重厚な回転音を立て、暗闇の中に一本の太い光の束を走らせていた。

現像薬品の匂いと冷気が漂う。

 最前列の革椅子で、海軍省軍務局長、井上成美少将と、陸軍省整備局長、石原莞爾少将が並んで座っていた。

二人とも微動だにせず、ただスクリーンの光線に顔を白く浮き立たせている。

 銀幕に映し出されているのは、眩い黄海の空と、雲上の贅食。そして、軍艦ホテル山城を背に並ぶ『おねえさま』と『鶴子』だ。

「……見事な色彩ですね、石原さん」

 井上成美が、膝の上の白手袋を重ねたまま静かに口を開いた。

「わが娘ながら、実に隙のない所作です。

匙(さじ)を運ぶ角度から首の傾げ方まで、私が教え込んだ通りに演じて見せている。

小林一三という男は、人間の気品すらも規格化して商品にするのですね」

 石原莞爾はフィルムの薬品臭を鼻腔に受けながら、胸の前で重々しく腕を組み、じっと画面を見つめていた。

「……小林さんの描ぐ絵だの。

毒が回っでら」

濁った庄内弁が映写機の駆動音に混ざる。

「天保山から大連までの豊かな演出一つまで、大衆さ『白鶴という幻影』を買い取らせっための計算だの。

……井上さん、あんたの娘も、おれの娘も、すでにあの宣伝映画の生贄ださ」

「ええ」

 井上成美は眼鏡の奥の目をわずかに細めた。

「ですが石原さん。

この『幻影』に日本中の大衆が酔いしれ、一円の映画料を落とすことで、大連の無税港に金が集まり、三宅坂の過激派の喉元が絞まる。

……娘たちが天然色の光の中で贅沢を演じるだけで軍費が湧くのなら、これほど効率の良い兵站はありません」

 画面が切り替わり、夕焼けに染まる大連港の全景が投射される。

強烈な赤とオレンジのグラデーションが、暗闇の中に並ぶ二人を血の色で染め上げた。

 窓ガラスに額を押し付け、冷ややかに海を見下ろす時子のアップでフィルムが終わる。

「……南太平洋さ行かせる。

時子には、あの油の臭いを直に嗅がせる。

こんな絵の具の匂いに酔ってたら、死ぬださけ」

「結構ですね」

 井上成美も整然と立ち上がり、白手袋をはめ直しながら冷淡に締めくくった。

「靚子には影のまま、英文電信の解読を続けさせます。

……娘たちが作った幻影の裏で、私たちは実物の血と油を回収いたしましょう」

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