白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第六章『血巡』(1938年 8月)

三宅坂。

 陸軍省、地下執務室。

 八月末の東京の猛暑を拒絶するように、ここは地下水と巨大な氷塊で異常なまでに冷やされていた。

 溶ける氷が木桶へ落ちる滴り音と、コンクリートの湿気、冷や汗の匂い。

 卓上に置かれた一枚の和紙。西日本白鶴文明の1938年度「裏収支表」だ。

「……歳入二十二億、歳出十五億。差し引き黒字、七億」

 永田鉄山は、眼鏡の奥の細い目をさらに細めた。

声に温度がない。

「見事な数字だ、石原。

だが、漕ぎ続けなければその瞬間に倒れる自転車だ。

……そして」

 永田は卓上の暗号電報を、冷たい指先で弾いた。

ワシントン駐在武官室からの緊急電。

『高オクタン価航空揮発油、および特殊鋼、工作機械の対日輸出を全面許可制とする』

 永田の不気味な目が、石原莞爾を刺した。

「血が止まったぞ。

洞庭湖で『白江航空』を立ち上げ、支那の空と水を買い叩いた報いだ。

西の胃袋を満たす油が途絶えた。物流が止まれば破綻するこの化け物を、どう回す」

 対面に立つ石原莞爾の表情は、削り出された石像のように動かない。

「大連と旅順を、今この瞬間をもって完全開放します。

遼東全域の無税港化です」

「……欧州を追われたユダヤの金と、工作機械の技術者を呑み込ませる気か」

「三井も三菱も挟みません。

関税なし。

ニューヨークの資本網に大連の巨大な利権を噛ませる。

制裁を叫ぶワシントンの喉元に、奴ら自身の金を流し込むまでです」

 永田は深く息を吐き、万年筆の先で卓上をコツコツと叩いた。

「ドイツを怒らせ、東の財閥を敵に回す劇薬だな。

……だが、油そのものは湧いてこんぞ」

「北樺太の原油は大連で精製しますが、半年で尽きる。

……ゆえに、南です。

バタヴィアのロイヤル・ダッチ・シェルから直接奪います」

「オランダか」

「多島海の防衛に怯えるオランダへ、白鶴の航空網と気象電信、天保山の規格部品を叩きつける。

見返りに高オクタン油の長期独占権を吐き出させます。

井上少将には、すでに水陸救難協定の法理を引かせてある」

 永田はせせら笑い、黒い判を書類へ叩きつけた。

紙が爆音を立てる。

「……オランダの油を、一滴残らず白鶴の規格で吸い上げてこい」

「は。

なお、西日本規格の標本として、時子を南太平洋へ同行させます」

「勝手にしろ」

 石原は胸ポケットに文書を収めると、鮮やかに敬礼を返して踵を返した。

 三宅坂の冷湿な暗闇から一転。阪急浜離宮大回廊は、眩い夏の光と潮騒の音に満ちていた。

 海風が吹き抜けるガラス張りのテラス席。

 小林一三はマルーン色の栗ペーストを満足そうに口へ運んでいる。

その横で、十四歳の時子は真鍮製の天突きを握り締め、ギギと力任せに押し込んでいた。

 突出口から四角く揃えられたトコロテンがニュルりと押し出され、漆黒の黒蜜の中へ落ちる。

 時子はそれを箸で豪快に引っ掛け、ツルリと喉奥へ滑り込ませた。

「おっちゃん、この黒蜜、甘さが重いわ。

もう少し酸味効かせな」

「アホ言いなはれ。

東京の人間は、この重たさに金を払うんですわ」

 小林が腹を揺らしたところへ、軍靴の足音とともに石原莞爾が姿を現した。

軍帽を卓上に置き、手拭いで首筋の汗を拭う。

「三宅坂は通しました。

米国の禁輸電報が、いい調味料になった」

「ハハハ! 流石やな。

危機を煽って自分らの欲しい規格を押し通す。

これぞ商売の基本ですな」

 その時。

 東京湾の沖合から、腹に響く重厚な地鳴りが押し寄せてきた。

 ズズズズ……と海面を叩く、巨大な四発エンジンの圧倒的な振動。

 潮風に乗って、焦げた高オクタンガソリンと、濃密な排気の香ばしい臭いが大回廊へ雪崩れ込んでくる。

 時子が箸を置き、無言で窓枠に手をかけた。

 夏の強い陽光を撥ね返し、海面を滑走してくる巨躯。

 軍用の汚い塗装ではない。

眩いばかりの純白の胴体。

その側面に、一本の途切れることのない深い阪急マルーンのラインが、機首から巨大な尾翼へ向かって一直線に走っていた。

『白鶴二型』試作一号機。

 白鶴一型の華奢な胴体を削り捨て、天保山で鋳造された巨大な艇体。

艇低に飛沫スプレー防止用の『かつおぶし』。

機首にはポーポイズ防止対策『かんざし』装備。

四基の『火星』エンジンが、住友の超ジュラルミンを震わせて咆哮していた。

 水飛沫を高く吹き上げ、浜離宮の沖合に静止したその化け物は、東京湾に浮かぶすべての軍艦をあざ笑うかのような圧倒的な洗練を誇っていた。

「……ごっつう、綺麗な面構えしてますな」

 小林一三は冷やし飴のグラスを傾け、純白の巨躯を、吸い込まれるような目で見つめた。

「白い服着て、中身はオランダの油を骨まで吸い上げる悪魔や。

……時ちゃん、あんたのトコロテンと同じやで」

 時子は冷たいガラスに額を押し付け、波に揺れる純白とマルーンの巨躯を、ただじっと見つめていた。

 その瞳には一切の不純物もなく、ただ「次に取り込むべき南の空」の広さだけが映っていた。

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