連続十八時間の低音波が、肋骨の奥で微かな悲鳴を上げ続けていた。
川西航空機が組み上げた巨躯に鎮座する、三菱製「火星」二千馬力発動機が四発。
住友金属が極秘裏に削り出した高張力耐熱鋼のクランク軸と超超ジュラルミンが、赤道直下の重圧に耐えて悲鳴のような爆音を吐き出している。
北樺太(オハ)から舞鶴へ直行輸入、精製された100オクタン高航空ガソリンを力任せに気化室へ流し込む。
高圧ブーストを掛けられたシリンダーが吐き出す排気の焦げた臭いと、耐熱オイルの生臭い熱気が、吸気口から機内へ逆流して粘りついていた。
白亜の胴体に、阪急マルーンの一閃。
赤道直下の重い空気を切り裂く機内は、吸気口から逆流する排気の焦げた臭いと、オイルの生臭い気化熱が粘りついている。
だが、真の重圧は外気ではない。
西日本経済と張学良三十万を丸抱えした巨大な「システム」そのものが、飢餓状態の獣のように燃料を求めて軋み声を上げていた。
小林一三は、脂の浮いた額をハンカチで乱暴に拭った。
「……北樺太の血(油)だけじゃ、もはや西日本と満州の胃袋は保ちまへん。
止まれば即死の自転車操業や。
この機内の熱気すら、そっくり焦げた金と油の匂いに思えてくる」
扇子を気怠く揺らす小林の横で、時子が炭酸水の瓶から口を離した。
「おっちゃん、扇ぎ方雑やで。
熱風こっち来る」
汗で皮膚に吸い付く紺色のワンピース。
その襟元を人差し指で広げ、時子は二重窓の外へ視線を投げた。
積乱雲の白い壁が、眼下の無数の島々を飲み込もうとしている。
陸軍省整備局長、石原莞爾は膝の上の海図から目を上げない。
煙草の匂いが一切しない清潔な指先が、南洋の血脈(ルート)をなぞる。
「……本国がドイツに怯え、南洋を支える力は底を突いた。
そこへ規格を打ち込む」
「油を金で買う時代は終わりですわ。
これからは『阪急』そのものを買わせる」
小林の唇の端が歪む。
疲労の底から、資本家の狂気が覗いた。
「バタヴィアの若い頭脳を、天保山のネジの規格で仕込む。
ホテルを建てて、総督府の連中に冷房と洋食の味を覚えさせる。
一度あの快適さを知れば、自ら網に絡め取られに来ますわ」
荷印(オランダ領インドネシア)総督府。
執務室。
木製ファンが、粘つくような湿気を天井から押し付けてくる。
濃密な薔薇の香水。
発酵したような葉巻の煙。
そして、ファンが回っても逃げない、白人特有の酸い体臭。
それらが渾然一体となり、室内の空気を黄色く濁らせていた。
植民地支配という旧弊なシステムが放つ、腐臭そのものだ。
マホガニーの卓の端。
時子が定規で測ったように折り畳んで置いた「真っ白なハンカチ」だけが、この狂おしい熱帯の淀みの中で、異質なほど無機質に浮き上がっている。
対面に座る総督ファン・シュタルケンボルフは、苛立ちを隠すように太い指で海図を叩き続けていた。
コン、コン、と乾いた音が落ちる。
「……ワシントンの禁輸網を破る理由がない。
提示価格も、我が方のリスクに見合わん」
通訳の湿った声。
総督の首筋を、玉のような汗が伝い落ちる。
小林が膝の上で扇子をパチンと閉じた。
「閣下。
欧州の足音、ここまでは聞こえまへんか」
コン、と海図を叩く指が止まる。
総督の青い瞳孔が、微かに揺らいだ。
その視線の泳ぎを、石原は見逃さない。
寸分の狂いもない、冷徹な軍事英語が室内の空気を凍らせる。
「ドイツ装甲師団が国境にいる。
本国が沈めば、ここは孤島だ。
数万の白人で、数千万の現地民を押さえ込めるか」
総督の分厚い喉仏が上下した。葉巻を持つ手が微かに震えている。
「……脅迫か」
「取引だ」
石原は即座に叩き斬った。
「白鶴の警備網と教育機関で、現地民を『使える部品』に変える。油の代金は、あんたらの延命だ」
沈黙。
総督の顔に脂が滲む。
一歩も引けない白人の矜持と、本国消滅の恐怖が、首の皮一枚で拮抗し、決裂へ向けて軋みを上げていた。
その時。
時子が、テーブルの端の真っ白なハンカチにそっと人差し指を添えた。
ただそれだけの動作。
だが、その純白の異物感に、総督の視線が強制的に引き寄せられる。
「He means stability, not urgency.」
ガラスを叩き割るような、透明で硬質な音だった。
井上成美の狂気すら滲む薫陶が、その一音一音に宿っている。完璧に統制された、氷のように冷酷な発音。
切迫した侵略(urgency)ではない。
永続する支配の安定(stability)。
帝都の政治学を身体化した少女の目が、総督の胸底にある「恐怖」の正体を正確に射抜いていた。
総督の瞳孔が、カッと見開かれる。
ポロリと。
太い指先から、葉巻の長い灰が海図の朱線の上に崩れ落ちた。
買い叩きではない。
この得体の知れない東洋のシステムは、自分たちの生存の恐怖すら「規格化」して買い取ろうとしている。
その事実が、総督の背骨を粉砕した。
総督は深く息を吐き出し、肥満した体を椅子の背もたれに預けた。
湿った眼鏡を外し、手の甲で雑に顔を拭う。
「……条件を、聞こう」
その夜。
ホテル・デ・インデン。
テラス。
ぬるい夜風が、焦げたピーナッツソースと下水の匂いを運んでくる。
紺色ワンピースに着替えた時子が、サテーの串を噛み切った。
「……まっず」
すぐに露骨な顔で眉をひそめ、皿に串を投げ出す。
「甘すぎるわ、これ」
小林がビールグラスを置き、喉の奥でくくっと笑った。
「ハハハ、時ちゃんにはお気に召しませんか」
小林は皿に広がった、泥のように赤黒い甘いソースを人差し指で掬い取った。
ゆっくりと口へ運び、舌で舐めとる。
くちゃ、と微かな音が鳴る。
ソースを舐めつくした小林は、ナプキンで指を拭いながら、眼下のバタヴィアの街並みへ視線を落とした。
暗がりの中、現地民の苦力たちが荷車を引いて這いずり回っている。
その姿は、阪急の給与で縛り付けた満州三十万の兵士たちと何ら変わらない。
搾取の形が違うだけだ。
小林の深く長い吐息が、夜気に溶けた。
「……勝ってはおらんが、切られもせんでしたな、石原さん」
「勝つ必要はねな、小林さん」
石原のふと漏らした庄内弁の濁りに、小林が満足そうに顎を引く。
「時を稼げばええ。
時間が経てば、白鶴の規格が勝手に呑み込む」
窓の外、バタヴィア港の漆黒の海。
潮波に揺れる白鶴二型の白亜の馬腹と阪急マルーンの一閃が、月光を鈍く弾いていた。
エンジン音のない巨大な鉄の塊が、闇の中で静かに息を潜めている。
際限なく油を啜り続ける怪物が、次の獲物を待っていた。
時子は石原の腕に深く体を預け、すでに小さな寝息を立てていた。
紺色ワンピースの胸元が、規則正しく上下している。
石原はその横顔をじっと見つめた。
(火は……この子さ、戦争の火だけは覚えさせね)
少女はすでに、巨大な兵站という暴力の核心に組み込まれている。
その矛盾に蓋をするように、石原は目を伏せた。
数日後。
三宅坂。
陸軍省整備局の極秘綴りに、一枚の復命書が追加される。
『件名:荷印石油特別工作ニ関スル件』
『追記:昭和十三年九月、荷印交渉ニ於テ帝国ハ時ヲ稼ギタリ』