白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第八章『素麺』(1938年 9月)

阪急浜離宮大回廊。

 鋸の目が残る青竹の青臭い匂いと、融けた氷塊が板間に落ちるバシャという重い音。

「冷たいうちに食べなはれ。

初秋の東京へ送る、阪急特選『播州素麺』や」

 小林一三の軽妙な声が回廊に響く。

 梅田の倉庫で抱え込んでいた二銭の余剰在庫が、青竹と六甲の湧き水というお仕立てひとつで、東京の官僚や海軍高官の口へ二十五銭となって吸い込まれていく。

 竹樋の冷水に、井上靚子が塗りの箸をすっと突っ込んだ。

「……つかめないわ」

 十四歳の時子が、つゆの猪口を両手で抱えたまま、冷たい水面だけを見つめている。

「おねえちゃん、間が悪いわ。

来るって分かってる場所に、先に箸を置いとくねん」

 隣で白手袋の指を静かに組んだ海軍少将、井上成美が目元をかすかに緩めた。

「……先手を打つ、でございますか」

その時。

「話にならん。

電波を打つ以前に破産するわ」

 八木秀次が冷徹に言い放ち、眼鏡のツルを押し上げた。

「僕の指波(指向性空中線)で超短波を当て、反射を拾うのはえぇ。

せやけど大石さん、南洋の空全体へ高価な真空管と蓄電池を積んだ観測気球を何千個ばら撒く気や。

一個いくらすると思ってますねん」

 ジャラ、と小林一三が手元のそろばんを弾く。

「八木先生、うちの素麺の粗利で買える観測気球は、せいぜい百個が限度ですな」

「黙らんか、八木!」

 大石和三郎が卓を叩いた。

老骨の青筋が浮き上がる。

「九二〇の地獄ば知らん理学士が!

南洋の積乱雲は垂直降下で気流ば圧殺すったい!

点の観測情報数個で『面』の風が見ゆっか!

白鶴が空中分解してからじゃ遅かたい!」

「せやから、その『面』を追う金を誰が出すと言っとるんだ!」

 八木が箸を振り回し、冷たい水飛沫が跳ねた。

 大石の目が見開かれる。

 上空一万メートルに眠る、悪魔のような西風の奔流(ジェット気流)。

自分と時子だけが知る絶対の領域。

だが、下層の風系すら拾えず不毛な銭金の話に叩き落とされている苛立ちが、佐賀の親父の荒い息となって鼻腔を抜ける。

「……綺麗に配ろうとするからアカンねん」

 時子の冷ややかな声が、竹樋の水音を切り裂いた。

 時子は箸の先を、冷水へすっと突き立てた。

 流れてきた素麺の束が箸に引っかかり、水流に揉まれて解け、横へ一気に押し広げられて青竹の狭い幅を完全に塞ぐ。

 行き場を失った冷水がぐっと盛り上がり、竹樋の縁ぎりぎりまで水面が迫った。

溢れ出す一歩手前の表面張力が、ぷるりと震える。

回廊から一切の音が消えた。

「風船割って、住友のアルミの屑、空に撒いたらええやん。

駅前でビラ配るんと一緒や。

風が勝手に南洋一面に流してくれる。

そこへ八木のおっちゃんの指波、ぶつけたらええのとちゃうん?」

 竹の縁を洗う水のせせらぎだけが、静寂に残った。

 八木の顎が固まる。

「……屑やと?

学問を何やと思っとる。

観測機も積まん風船など——

待てや」

 八木の声が途中で掠れた。

右手はすでに胸ポケットから銀色の計算尺を引き抜いていた。

 ジャッ、と目盛りが刻む金属音が走る。

指先が高速で往復した。

真鍮と脂汗の焦げるような匂いが立ち昇る。

「……半波長に切ったアルミ箔を散布させれば、超短波は跳ね返る。

観測機器を積む装置を

『甲気球』

……このただのアルミ散布体を

『乙気球』とするなら……!」

 大石が身を乗り出し、机を叩いて割り込んだ。

「甘いわ八木!

南洋のスコールとド刺しの下降気流を舐めるな!

雨煙の中で濡れたアルミ箔など、一瞬で水滴が付着して重くなり、海底に叩き落とされて終わりたい!」

「濡れて重くなるなら、水滴を弾かせればよろしい」

 小林一三が手帳を開き、卓の上に軽く置いた。

静かな所作だが、そこには巨額の資本を動かす者特有の絶対的な圧力が宿っている。

静かな所作だが、そこには巨額の資本を動かす者特有の絶対的な圧力が宿っている。

「白江航空の白鶴を増産しておりますからね、超ジュラルミンの機体を裁断するたび、耳切りが山と出ます。

本来なら加工硬化して使い物にならん廃材ですが、阪急技研の低温焼鈍で一度硬性を殺し、住友の連続圧延機へ叩き込ませている」

 小林は言葉を切り、そろばんの玉を一つ、カチリと弾いた。

 回廊に冷ややかな静寂が落ちる。

八木も大石も、呼吸を忘れたように小林の手元を見つめた。

国家規模の連続圧延ラインを、端材の再処理のためだけに専属で回す——その常軌を逸した工廠規模と資金力の暴力に、両学者の喉が引き結ばれる。

 ふっと小林の目元が緩んだ。

「ミクロン単位まで引き延ばした箔の表面に、石油の精製屑から引いた蝋を薄膜塗布させます。

完全撥水……南洋の猛烈なスコールの中でも、三十分は空中を漂いますな」

 八木の目がギラリと光った。

計算尺のカーソルがカチリと音を立てて止まる。

「……いける。

白鶴の機首に積んだ我が九二式パルス送信機とブラウン管受像機なら、連続波やなく位相差のドップラー移動として捉えられる!

点の解像度不足を、このアルミの人工反射幕が埋める……!

反射膜の移動ベクトルから、陰極線管の上に風の『面』が完全な輝点群として浮き上がる!」

 学士院のプライドが、大阪の銭と実利の力技に削ぎ落とされ、悪魔的な計算へと昇華していく。

 大石和三郎の老眼鏡の奥で、瞳孔がキュッと収縮した。

 荒い吐息が、堰き止められた竹樋の水面を細かく揺らす。

(……高価な観測器など要らん。

撥水したアルミの屑を放り込む……!)

 下層の不連続線へ、そして上空一万メートルの『あの怪物』の入り口へ。

 大石は時子を見た。

少女の、光を映さない冷たい瞳。

 老いた気象学者の喉の奥で、掠れた息が洩れた。

「……八木」

 大石の声から佐賀弁の濁りが消えた。

乾燥した切っ先のような標準語が響く。

「乙気球で撒いた箔は、三十分で十海里の反射幕になる。

そこに白鶴のパルス指波を叩きつければ……風の骨組みが浮き上がる」

 ふたりの学者はもう時子を見ていない。

不躾な足蹴で常識を叩き割られ、目の前に転がり出た真実の構造に食らいついている。

「……気味が悪い娘さんだ」

 八木が握りしめた計算尺の指関節が、白く浮き立っていた。

 井上成美が白手袋を嵌め直し、胸ポケットから静かに畳まれた書類を出す。

「……では、その乙気球を撒く足を、私がお手配いたしましょう」

 井上の澄んだ敬語が流れる。

「昭和十一年十二月に条約が失効して以来、廃棄予定のまま放置されている老朽の樅型駆逐艦がございます。

これを海軍省の雑役船処分枠から、手続き上『標的艦』名目で阪急ドックへ払い下げます。

主砲を降ろし、大量の乙気球投射機と通信空中線を組めば、立派な洋上気象観測艦となります」

 井上の薄い唇が、かすかに吊り上った。

「燃料は天保山の扶桑と大連に着底させた山城の着底浮体から直接補給させます。

海軍省の手続きだけで完結する……三宅坂の陸軍には一言も通さぬ、我らだけの洋上要塞網でございます」

 部屋の奥で、石原莞爾が湯呑みを静かに置いた。

 カタン、と低い音が響く。

 石原は時子の頭にポツリと大きな手を置いた。

その眼光はすでに南洋の空を通り抜け、ユーラシア大陸全体の兵站線を射抜いている。

「扶桑と山城の要塞着底浮体に、洋上観測艦、そして白鶴の電探網……。

これでボーキサイトとゴムの南方資源回廊すら、完全に我々の航空物流網(システム)へ組み込まれるな」

 石原は手帳を開き、鉛筆の芯を力強く叩きつけた。

「オハの石油と南洋のアルミ原料を独占し、西日本の兵站を完璧に固める。

……資源を絶たれた三宅坂と東京の連中が干上がるのは、もはや時間の問題だ。

小林さん、この白鶴気象要綱を仕立てましょう。

海軍実務派をこれで完全に抱い込みます」

 ガラガラと、竹樋を冷水が走る。

 時子が突っ込んでいた箸を引くと、堰き止められていた水と素麺が一気に下流へ流れ去った。

 井上靚子が、すっと箸を落とした。

 流れてくる少し手前。

事前に水底へ沈められた箸先が、滑ってきた素麺の束を狂いなく捉える。

「……こうね、時子ちゃん」

 靚子が小さく、可憐に笑った。

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