三宅坂。
陸軍省軍務局長室。
秋の冷気が硝子窓を叩いていた。
室内に漂うのは、乾燥した紙とインクの匂い、そして淡々と重ねられる公文書の擦れる音だけだ。
軍務局長、永田鉄山中将は、卓上に広げられた「欧州航空情勢視察ノ件」の末尾に、黒インクの万年筆で粛々と修正を加えている。
「白鶴試作二号機の損失は、阪急技研の四ヶ月分の予算に相当する」
永田は視線を書類から上げず、平坦な声で言った。
「大蔵省と会計監査院への手当ては、どう整えている」
卓前に直立する石原莞爾少将は、軍服の折り目ひとつ乱さず、直立不動の姿勢を保っていた。
「はっ、小林社長が『白江航空』の民間渡航費名目で全額担保しております。
陸軍省の歳出には一文も響きません」
「……結構」
永田は万年筆のキャップをパチンと閉め、眼鏡の奥の冷ややかな目を初めて石原に向けた。
憎悪も期待もない。
「パミール越えの想定致死率は六割を超える。
貴様が屋根の露と消えれば、関東軍と第四師団を繋ぐ最大の結節点が失われる。
無事にベルリンへ到達すれば、我が方の総動員計画に地中海の物流網が組み込まれる。
……どちらに転んでも、官僚組織としての手続はすでに完了している」
「……閣下の手配には、感服いたす次第であります」
「私情は挟まん」
永田は渡航許可書に淡々と局長印を押し、朱肉の匂いが漂う紙面を差し出した。
「書類は通した。
早く行け。
職務を定刻通りに消化するのが、我々の仕事だ」
深夜二時。
阪急浜離宮大回廊。
水上飛行場。
湿った潮風の中に、重油と高辛烷(オクタン)価揮発油の刺すような匂いが立ち込めていた。
海上に浮かぶ白鶴二型。
四発の火星エンジンを抱えた白亜の巨躯が、黒い波間に揺れている。
岸壁の街灯の下、テイ子は小紋の手ぬぐいを握りしめたまま、微動だにしない。
視線は夫の足元、潮風に濡れたアスファルトの点検痕だけに注がれていた。
声を出せば割れる。
泣けば足を開く。
それが分かっているからこその、死んだような沈黙だった。
石原莞爾は胸ポケットから、羊皮紙の分厚い封筒を取り出した。
山下奉文の私印が押された、大連経由の軍事裏手形だ。
山下の荒い朱肉の匂いが、夜風に混じる。
石原はそれを言葉もなく、時子のワンピースの胸ポケットへ深く突っこんだ。
時子の体が、ビクと跳ねた。
ワンピースの薄い布地越しに、分厚い角が肋骨を圧迫する。
そこに残る、父の皮膚の熱。
「……とう、ちゃん」
時子の喉から、押し殺した声が漏れた。
こらえようと食いしばった歯の隙間から、しゃくりあげる息が漏れ出る。
ワンピースの袖の中で握りしめた拳がガタガタと震え、瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出して白い頬を伝う。
「……西の兵站を、お前に預ける。
……頼む」
石原の声は短く、低かった。
父親顔と将官の顔が交錯する。
時子は袖で乱暴に涙を拭ったが、溢れ出る水分は止まらない。しゃくりあげながら、真っ赤になった目で石原を正面から睨みつけた。
「……わたしを、誰や思ってるん」
声が震え、涙で詰まる。
それでも時子は逃げずに父の目を見据えた。
「さっさと行って……
無事に帰ってこい!
嘘ついたら、許さへんからな!」
一瞬。
石原の口元がかすかに歪んだ。
それが笑みだったのか、苦痛だったのかは暗がりで判別がつかない。
石原は時子の頭を一度だけ強く撫でると、二度と振り返らず、タラップの鉄の踏み段を重い足音で踏み鳴らして闇の中へ駆け上がった。
ハッチが重々しい音を立てて閉まる。
セルモーターの甲高い噛み合い音が響き、四発の火星エンジンが初爆の黒煙とともに轟音を上げた。水煙を猛烈に巻き上げ、夜の海を滑走し始める。
時子は駆け出さなかった。
だが、胸ポケットの封筒を破れんばかりに握りしめ、消えていく白亜の影を、視界が涙で途切れるまで見つめ続けた。
三宅坂。
陸軍省。
白鶴二型が放つ重低音が、遠くから軍務局長室の硝子窓を低く震わせた。
永田鉄山は窓の外を見することすらなく、卓上の次の書類——第十師団の兵站補給計画書——へ淡々と判を押し続けていた。
外で何が飛ぼうが、誰が死に赴こうが、行政の歯車は一秒たりとも止まらない。
その揺るぎなき冷酷さこそが、統制派の怪物、永田鉄山の本質だ。
夜空へ駆けあがった白鶴二型は、東京の街の灯りを眼下に見下ろしながら、一直線に南西へ機首を向けた。
東シナ海の上空。
満月が照らす雲海の中を、高度四千メートルで水平飛行に移る。
操縦席の石原莞爾は、一切の感情を削ぎ落とした顔で高度計と燃料計の目盛りを見つめていた。
台北。
淡水港でのわずか四十分の暗闇給油。
阪急技研の作業員たちが無言で手押しポンプを漕ぎ、高辛烷価揮発油を流し込み、淡水川の水面を蹴って再び離水する。
大陸へ入ると、空気の匂いが変わった。
高度を下げ、中国内陸部へ侵入するにつれ、操縦席の隙間から滑り込んでくるのは、川の生臭い湿気と、夜風に混じる重油の匂いだ。
洞庭湖講和以降、この長江流域から戦火は消えていた。
眼下に広がる黒々とした川面には、阪急と満州興業の印をつけた水上発着場が点在し、治安維持の名目で配置された第四、第十師団の哨戒艇が静かに水警灯を点滅させている。
かつての敵地は今や、西日本資本の血流が脈打つ巨大な「無風地帯」と化していた。
赤けた夕もやが立ち込める、洞庭湖。
どこまでも広がる泥色の水面。
四発のエンジン音が静かな滑空音へと変わり、巨大な舟型薄板(ステップ)が水面を捉えた。
バリバリバリと猛烈な水飛沫を巻き上げ、白鶴二型は滑らかに洞庭湖の水面を滑走し、停止した。
ハッチが開くと、熱帯の生温かい湿気が室内に流れ込む。
給油船が手際よく横づけされ、氷を敷き詰めた冷気が白く棚引く特設貴賓艇の準備が、すでに西日本の手によって整えられていた。
石原莞爾は軍帽を深くかぶり直し、タラップの先、冷や汗を拭いながら待つ国民政府特使、陳誠の姿を冷たく見下ろした。
ユーラシア大陸の第一の「水鏡」——洞庭湖は、いま完全に西日本の駅となっていた。