白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第十章『旅影』(1938年 10月)

洞庭湖の夕もやは、腐った魚と川泥の匂いがした。

 水面に浮かぶ二艇のハルが、波に揺れて鈍く擦れ合う。

 先発する一型の客室内は座席が残らず叩き折られ、無塗装のドラムタンクが鉄の肋骨のように剥き出しで並んでいた。

耐油ゴムの焦げた匂いと、生ガソリンの刺すような気体が薄暗い機内に充満している。

 一型が四発の火星エンジンを絞り出した。

水煙が叩きつけられ、泥水がガラスを汚す。

爆音の残響を置き去りに、一型が西の暗闇へ消えた。

過荷重のハルが水を切り裂く速度は重く、鈍い。

 二時間後。

二型の客室内。

 石原莞爾は操縦桿に視線すら向けず、革椅子の膝上で羊皮紙の計算尺を滑らせていた。

爪の先に残る黒い鉛筆の粉。操縦席の阪急技研の男三人は、汗で湿った襟首を固く絞め直し、沈黙のまま計器の針を見つめている。

「出せ」

 石原の低い声は、エンジンの重低音に一瞬で呑み込まれた。

 タクラマカン砂漠東端。

ロプノール。

 時速三百二十キロで一型を追い抜いた二型が、滑らかな尾引を引いて氷点下の塩湖に着水していた。

ハッチが開くと、刃のような風が機内を削り取る。

二型の技研乗組員が暗闇の塩湖で指向性信号を点滅させた。

 三十分遅れで、死ぬほどの過荷重を抱えた一型が湖面を捉えた。

水底に固着した塩の結晶層が艇底を狂おしく打ち叩く。

パリパリッ、と耳膜を突く破断音が夜の塩湖に弾けた。

「艇底、外板がいった!

浸水来るぞ!」

 叫び声とともに、足元から冷たい塩水が床板を濡らした。

補強リベットの頭が二本、跳ね飛んで闇へ消える。

 防毒マスクを被った男たちは振り返りもしない。

足首を侵す凍てつく塩水に靴底を浸したまま、極太の耐油ホースを二型へねじ込む。

 手動高圧ポンプの重い鉄音が響く。

高濃度四エチル鉛の毒液を含んだガソリンが濡れた手袋に染み込み、凍りついた皮膚をバリッと剥ぎ取った。

誰も声を上げない。

阪急から支払われる高額な手当と家族の保障——その代償としての血と肉の摩耗。

荒い息遣いと、油と塩の匂いだけが充満していた。

「完了!」

 一型は浸水するハルを抱えたまま、十五分で再び夜空へ滑り出した。

 パミール高原。

標高六千メートル。

 気圧が半分にまで跳ね上がり、薄い空気に気化器が喘ぐ。

 過給機の二速インペラが毎分二万回転の悲鳴を上げ、四発の火星エンジンが強烈なノッキングを起こしてシリンダーを激しく震わせた。

過剰に添加された四エチル鉛と筑豊産ベンゾールの混合燃料が、減圧下で早早爆発を起こしかけている。

 魔の鞍部に差し掛かった瞬間、山塊の冷気が巨大な大槌となって機体を上方から叩き伏せた。

 猛烈なダウンバースト。

 高度計の針が逆回転し、視界が黒く歪む。

艇体が垂直に叩き落とされた。胃袋が押し上げられ、肺の酸素が吹き飛ぶ。

 吸気圧が急激に底を突き、右第2エンジンのシリンダーが失火の吐息を漏らした。

焼き付きの焦げ臭いオイル臭が操縦席へ吹き込む。

「ノッキング限界!

過給機、焼き付きます!」

 機長が絶叫するより早く、副操縦士が手元のアシスト弁を力任せに蹴り倒した。

 阪急技研が極秘に仕込んだ「水・メタノール高圧噴射装置」の電磁弁が開放される。

吸気管へ噴射された冷却液が熱を奪い、爆発限界の過給圧を力づくで押し戻す。

火星エンジンが重厚な咆哮を叩き返し、四枚のプロペラが薄い空気を力任せに噛み直した。

 ピキキッ、と主翼の最深部、超々ジュラルミンの縦桁が狂風のねじれに悲鳴を上げ、客室の天井がたわんだ。

膝から落ちた計算尺が床を滑っていく。

 落下する死の真空。

酸欠の暗闇の中で、石原の体流が逆流した。

 脳裏の底で、生温かい匂いが弾ける。

 ——時子だ。

 夜中に泣きじゃくり、おねしょをして自分の服まで濡らした幼い少女。

重く、湿り、生温かい小便の匂い。

石原はその濡れた娘を抱き上げ、着替える間すら惜しんで、第四師団の商人上がりどもが待つ陣頭へ歩み出た。

「とーちゃ」と首にしがみつく細い腕の不器用な力。

あの泥臭く、逃げようのない生の重み。

 腰骨がシートに叩きつけられた。

 急降下が止まり、二型の機首が超々ジュラルミンの復元力で雲海を切り裂いて持ち上がった。

川西の鍛冶屋が打ち込んだ肉厚の骨組と、過給圧に耐え抜いた鍛造シリンダーがパミールの魔風を押し返したのだ。

 石原は揺れの中で姿勢ひとつ崩さず、足元に転がった計算尺を拾い上げると、窓の外の黒い山塊を見つめて短く吐き捨てた。

「……川西の鍛冶屋コ笑う奴ァ、死ねばいい。

小林さんが囲い込んだ板金仕事ァ、パミールの風より強情だ」

 黒海東端。

バトゥミ沖。

 一型のハルは海水を含んで重く沈みかけていた。

一型の機長は無言で耐油ホースを伸ばし、自艇に残るガソリンの八割を二型の腹の中へ搾り出した。

 ガソリンを抜かれ、極限まで軽量化した一型に残されたのは、超々ジュラルミンの自重の軽さに頼り、ローマまで滑空同然で滑り込むための余剰ゼロの燃料のみ。

 ガソリン中毒で目を血走らせ、吐瀉物を胸元に散らしたクルーが、タラップの石原に向かって濡れた手袋のまま力強く敬礼を送る。

血と吐瀉物の匂いのする沈黙。

 地中海。

 波飛沫がフロントガラスを白く叩く。

 マルタとジブラルタルを結ぶ英地中海艦隊の警戒網——監視船の強力な双眼鏡と、短波無線方向探知の死角を突く高度二十メートルの海面這い飛行。

海塩の飛沫が四発のプロペラを白く研磨していく。

 ローマ郊外。

ブラッチャーノ湖。

 二型の右第1エンジンがエアを噛み、ノッキングを起こした瞬間、白亜の舟底が鏡のような湖面を捉えた。

後続の一型もまた、全エンジンが沈黙した風車回転のまま、二型の影のように湖面へ滑り込んできた。

 極東からの死行を終えた、完全なる燃料ゼロ着水。

 夜霧が粘りつくヴィーニャ・ディ・ヴァッレ基地。

 二台の黒塗りアルファロメオの脇で、外相ガレアッツォ・チアーノがトレンチコートの襟を立てて立っていた。

その手には、イスタンブールの阪急通信線を経由し、一時間前にローマの外務省暗号課が受信した極秘電信が握られている。

『極東ヨリ飛行艇二艇来タル。

着水後、百オクタン相当航空燃料及ビ潤滑油ノ即時給油ヲ要ス。

着水進入ウインドウ、深夜一時三〇分ヨリ二時〇〇分。

極秘受領ヲ乞ウ——西日本外交部』

 駐伊日本大使館も軍部も関与せぬ打電。

イタリア空軍の将校らは「東洋の虚報だ」と唾を吐いたが、チアーノだけは不気味な予感に背筋を凍らせていた。

「百オクタンだと……?

我が王立空軍すら八十七オクタンで喘いでいるのだぞ。

アメリカのアルキレーション・プラントすら持たん極東の猿が、どうやってそのアンチノック性を叩き出した?

軍の補給線すら使わず、どこからどうやってパミールを超えてきた……?

この怪物は、我が国に存在もしない血を要求して着水する気か」

 深夜一時三十五分。

 北の暗雲を切り裂き、重厚な金属の唸りが空を圧した。

警戒サイレンが吹き鳴らされる暇もなく、湖面を割って二艇の白亜の巨躯が滑走した。

激しい水煙が夜闇に舞い上がり、波紋が火山湖の岸壁を激しく叩く。

 濡れたハッチが開き、吐き出されたのはガソリンと胃液の匂い、そして血走った目の男たちだった。

遅れてタラップを降りてきた石原莞爾の軍帽の庇から、冷たい夜露が滴り落ちる。

背後には、青ざめた通訳官が死人のような足取りで従っていた。

 チアーノは刺すような視線で石原の顔を凝視した。

「……無断侵犯だ。

大使館も軍部も知らん。

ここで銃殺しても、世界は誰も文句を言わんぞ」

 通訳官の唇がガタガタと震え、引きつった日本語を石原の耳元に漏らす。

 石原は冷え切った湖面を見つめたまま、一型——艇底を壊し、塩水に濡れた巨大な白亜のハルを顎でしゃくった。

「通訳。そのまま伝えろ」

 石原の声には不敵な笑みすら混じっていない。

ただの兵站の清算だ。

「壊れた一型ァ、ここに置いでいく。

大日本帝国川西航空機の誇る四発大型飛行艇の全構造……

イタリア王立空軍への『技術供与』として進呈する、とな」

 チアーノの目が見開かれた。世界のどこも手に入れていない超々ジュラルミンの巨躯。

それが今、自国の湖の上に無償で転がり込んできたのだ。

「ただし——」

 石原の視線がチアーノの胸元を射抜く。

「二型に、おめぇたちの出せる一番強い油、満タンに注ぎ込め。

八十七でも添加剤混ぜでも構わん。

二型が跳べるだけの血、出せ。

帰りの足ァ、こっちで整えてある」

「……どうやって百オクタンの爆発に耐えてパミールを越えた」

 チアーノの掠れた問いを通訳が拾う。

石原は鼻で短く笑った。

「オハの泥油に、アメリカから引っ張った四エチル鉛と筑豊の毒を死ぬほどぶち込んで、水とメタノールで爆発を力づくで抑え込んだだけだ。

機械の悲鳴なんぞ、金と鉛で揉み消した」

 チアーノの背中に冷たい汗が流れた。

 領空侵犯の東洋人が、自国の軍事基地で兵器の投棄と燃料の徴発を同時に成立させている。

大使館も外交協定も踏み越えた、巨大な私設兵站の力技。

 石原は手袋をはめた指先で、静かにヴェネツィア宮殿の方向を指した。

「……無駄口叩くなと伝えろ。

ドゥーチェに、地中海の胃袋売りに来た、とな」

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