夜十時。
ローマ。
ヴェネツィア宮殿。
ファシスト党の黒シャツ隊が固める長廊下に、二つの足音が乾いて響いていた。
石原莞爾の軍靴の音と、通訳官の湿った革靴の音だ。
通訳官の額から噴き出す冷や汗が、抱え込んだ革鞄の表面に黒い染みを作っていく。
『Sala del Mappamondo(世界地図の間)』。
広大な大理石の床。
入口から最奥の執務机まで、六十メートルを超える暗闇が広がっていた。
卓上燈の淡い光の下、その男が腕を組み、太い頸筋を剥き出しにして座っていた。
ベニート・ムッソリーニ。
石原は靴音を歪めることなく、直進した。
六十メートルの暗闇を淡々と踏み潰し、執務机の正面、わずか二メートルの距離でピタリと足を止める。
ムッソリーニは動かない。
数秒の沈黙の後、ゆっくりと眼の輪郭を歪め、劇場で観客を呑み込むような、低く重厚な声を発した。
イタリア語の響きが、大理石の壁に重く反響する。
「……極東の野蛮人が、無許可の巨大な鉄塊で我が湖を汚した。
駐ローマ大使を呼ぶまでもない。この部屋の床を、お前の血で染めるのに三分もいらん」
通訳官の喉が鳴り、必死に声を殺して訳した。
石原はマホガニーの卓上に漂う濃密な煙草の脂臭さを吸い込み、冷ややかに鼻で笑った。
「……小芝居はいらんと言え」
石原は低く言い捨てた。
「私を殺して済むなら、湖で沈めている。
……ドゥーチェ、あんたの胃袋は、いま干上がっとるはずだ」
ムッソリーニの巨体が、ゆっくりと椅子の背もたれから離れた。太い両手を卓上につき、身を乗り出す。
その眼光は、相手の肉の硬さを確かめる猛獣の冷酷さに満ちていた。
「胃袋だと?
エチオピアを足蹴にし、英米の制裁を嘲笑った我が国家に向かって、その軽薄な口を利くか。
我が国には二千年の歴史と、地中海を制する無敵の軍隊がある。
見知らぬ東洋の兵卒のハラの探りに、我が帝国が動じるとでも思うのか」
「歴史でガソリンは買えん」
石原は一歩前へ踏み出し、通訳官の鞄から一束の羊皮紙を取り出させると、大理石の卓上へ叩きつけた。
「第一の算術だ」
羊皮紙に押された、
「満州興業」
「阪急技研」
「小林一三」
「井上成美」
「近衛文麿」
「永田鉄山」の朱印。
そして、英文と露文で刻まれた膨大な算術数値の目録。
ムッソリーニの太い指先が、紙片を拾い上げた。
ナチス・ドイツの追撃を逃れ、大連へ流れてきた欧米ユダヤ人投資家たちの暗黒口座目録。
三億ドルの外貨と、最新鋭の航空油圧、冶金技術の算術表。
独裁者の太い眉の奥で、光が走る。
瞳が、紙面の数値片端から舐めつくす。
「……大連の金と、脳だ」
石原は冷たく畳みかけた。
「先月、あんたが制定した『人種法』——ユダヤを追放するあの無謀な小芝居を、裏で骨抜きにしろ。
ナチスの真似をしてユダヤの首を絞めれば、ロンドンとニューヨークの金融街から逆襲され、イタリアの船団は石油一樽買えずにスエズで死ぬ」
ムッソリーニの唇が歪んだ。
彼は紙片を爪が白くなるほど強く握りしめた。
「……ヒトラーとの同盟を反故にし、ユダヤの金で生き延びろと? ベルリンが黙っていると思うか」
「ベルリンには『イギリスのスエズ防空網を密かに測量する試走機だ』と偽電を打ってある。
奴らは今頃ロンドンの地図を睨み回しておるよ」
石原は間髪を容れず、二枚目の資料——漆黒の紙に金文字で刻まれた「欧州戦線、完全中立宣言書」を卓上へ叩きつけた。
「第二の算術、アンコーナだ」
石原の指先が、大理石の世界地図——アドリア海の奥深い港を強く突き刺した。
「欧州で大戦が起これば、英海軍はジブラルタルとスエズを締め上げる。
ジェノヴァもナポリも死港だ。
だが、アドリア海の奥にあるアンコーナだけは死なん」
石原の指先が、アンコーナから北イタリアへとなぞる。
「東京の愚連隊とベルリンが求める三国同盟など、西日本が踏みつぶす。
我が国は近く『完全中立』を宣言する。
大連からアジアの大豆と石油をアンコーナへ流す。
イタリアが中立を守り、アンコーナをハブとして地中海の闇物流を独占しろ。
英独が泥沼で潰し合おうが、我々だけが両方から巨大な富を肥やす。
……ヒトラーの心中相手になって沈むか。
アンコーナを握り、真の覇者になるか。
選べ、ドゥーチェ」
重苦しい静寂。
ムッソリーニは身体を大きく沈め、背もたれに寄りかかった。
太い両指を組み、じっと卓上の算術目録を見つめる。
「……フ……フハハ……!」
ムッソリーニの喉の奥から、低く太い笑いが漏れた。
笑い声は大理石の壁に重く反響し、やがてピタリと止まった。
「……見事な毒肉だ、日本の将軍。
英米を騙し、ナチスを担ぎ、我が国を闇の巨大倉庫にするか」
ムッソリーニは卓上の重厚な万年筆を掴むと、一切の手ぶれもなく黒インクを叩きつけた。
「Benito Mussolini」
万年筆を卓上へ放り投げると、背後のチアーノへ冷酷な目を向けた。
「チアーノ、今夜の件を知る近衛兵と基地の技官を、全員今すぐ東アフリカの熱病地帯へ転属させろ。
口を滑らせた者は、その場で射殺だ」
「は……はっ!」
ムッソリーニは再び身を乗り出し、卓上に両肘をついて石原を見据えた。
「協定は成立だ。
……だが、最後に一つ答えろ。
国家の枠組みを踏みにじり、世界の仕組(カラクリ)を裏から食い破ってまで、お前は何を望む?
地中海の覇者か?
世界の支配なのか?」
通訳官がかすれた声で訳し終える。
石原莞爾は、軍靴の踵を静かに揃えた。
その眼光には野心も権力欲もなく、ただ研ぎ澄まされた絶対的な冷気だけがあった。
「……娘だ」
短い一言だった。
ヴェネツィア宮殿の暗闇の中で、卓上燈の炎が微かに揺れた。
ムッソリーニの太い頸筋の脈が、ぴたりと動きを止める。
独裁者の分厚い唇が、静かに横へ裂けた。
恐怖ではない。
理解を超えた本物の怪物に出会った男の、乾いた笑みだった。
「……失せろ、日本の狂人」
ムッソリーニはそれ以上何も言わず、万年筆のキャップを静かに閉めた。
石原は一礼もせず踵を返した。
大理石の長廊下に、二つの足音がカツン、カツンと乾いて遠ざかっていく。
ヴェネツィア宮殿の外階段を降りた途端、漆黒のフィアットが滑り込んできた。
ドアが開くと、ねっとりとした蜜蝋と古書の匂いが濡れた夜気に混じる。
黒い修道衣の財務官は無言のまま、膝の上で湿った皮表紙の帳面を開く。
手振れする小燭台の光の下、掠れた文字と数字の列へ赤蝋が滴り、重い真鍮印が叩きつけられた。
「東京の判子など一文の価値もない。
その暗号口座で算術を締めろ」
石原が朱肉の擦れた手形を放り投げると、帳面を抱え込んだ。
車がローマの街並みを抜け、北へ四十キロの夜霧を切り裂いてブラッチャーノ湖へ着いた時には、イタリア軍のトラックが泥を撒き散らして止まっていた。
兵士が降ろす木箱を、ツナギを油と汗で濡らした阪急技研と川西の男たちが力まかせに奪い取る。
「二型が冷え切るまでに、三十六時間だ。
ブツも金もすべて腹へ叩き込め」
石原の低い声が跳ぶ。
鋳物の冷たさを残す過給機、濡れ布を突き破る純金インゴットの無機質な重み。
ドラム缶が擦れ合い、生ガソリンと機油の刺すような臭気が夜気に満ちる。
一箱担ぎ込むたびに二型の艇体がゴボリと音を立て、不気味に水圧を押し返した。
手振れする懐中電灯の下、計算尺を追う技師の眉間から濁った汗が落ちる。
タラップの踏み段に外套を濡らした石原は、一度も瞼を閉じることなく見つめ続けた。
ブラッチャーノ湖の夜明けは、冷たい霧とともに明けた。
湖の水面に、ハル(艇底)を砕かれた白鶴一型が静かに浮かんでいた。
イタリア空軍の技術将校らが取り囲む前で、技研の男たちが淡々と銘板を削り落とし、書類をドラム缶の中で燃やしていく。
耐油ゴムの焦げた黒煙が寒気に立ち昇る。
カスピ海でガソリンを限界まで絞り出され、塩水を吸い上げたこの飛ぶ燃料庫は、「極秘技術評価機」の名目でイタリア軍の手へ渡り、渡航の痕跡一切とともに闇へ消えた。
二型のタンクには、イタリア空軍が死蔵していた八十七オクタンに添加剤を限界まで混ぜ合わせた高オクタン燃料が惜しみなく流し込まれる。
ガソリン中毒で血を吐き、皮膚を黄色く変色させた一型のクルーらを客室の床へ寝かせ、二型は単機で暗い水面を蹴った。
地中海から中東上空。
地球を覆う未知の風帯——「偏西風」。
機内の温度計はマイナス四十度を指し、防寒服の隙間から凍傷の痛みが狂気のようにクルーを襲う。
酸素マスクの吸気口が結晶化した氷で詰まり、技師が呻き声を上げて崩れ落ちた。
だが、イギリス領空を守る王立空軍の防空限界高度は七千メートル。
その遥か頭上を、二型は過給機の高空性能を極限まで絞り、低くくぐもった発動機音を引いて高高度偏西風の巨大な「風の川」に乗った。
スエズもパレスチナも、漆黒の雲海の下で通り過ぎていく。
アラビア海。
オマーン湾沖。
赤銅色の太陽が、公海の波間に狂暴な熱を撒き散らしていた。
そこに揺れていたのは、機関故障を装って漂流する一隻の黒い鉱石船——山下汽船の偽装油槽船だ。
船尾から排出された黒い重油が波を殺し、海面に滑らかな黒い帯を作っている。
二型はその油の帯へ滑り込み、重々しく着水した。
「早くしろ! アース打て! アースだ!!」
甲板でハチマキを締めた山下汽船の男たちが怒号を上げる。
船尾から太い索条とともに、太い銅のアース線が二重に叩きつけられた。
海風と摩擦で帯電したジュラルミンの艇体に触れた瞬間、バチッと青白い火花が散る。
クルーが血走った目でそれをクリートへ固縛した。
四十度を超える乾燥熱風。
八十七オクタンの高揮発性燃料は、ドラム缶から出た瞬間に気化しようと激しく泡立った。
「ベーパーロックだ!
燃料パイプに気が噛むぞ!」
「氷だ! 氷で配管をしごけ!!」
甲板の男たちが、氷室から担ぎ出した巨大な氷の塊を給油パイプへ力まかせに叩きつけ、溶けた冷水を高圧ポンプへ浴びせかける。
気泡が抜ける甲高いバキューム音が、熱風の中に響いた。
男たちは海水で滴るほど濡らした厚手の雑巾を給油口の根元に力まかせに巻きつけると、高圧ホースを荒々しく突っ込んだ。
唸りを上げてガソリンが二型の胴体へ叩き込まれていく。
重油と高オクタンの甘く刺すような匂いが熱風に充満し、クルーの濡れた皮膚をジリジリと焼き焦がした。
「水平線に影!
イギリスの巡洋艦です!」
見張り員の叫びとともに、船長が赤い手旗を猛然と振った。
「離水! 索条を外せ!」
斧が太いロープを断ち切る。
二型は重油の水飛沫を巻き上げ、満載のガソリンとともにインド洋の灼熱の空へ駆け上がった。
英海軍が臨検に踏み込んだ時、そこには油に塗れて機関を修理する、ただの日本の泥船が一隻浮かんでいるだけだった。
バタヴィア。
タンジュン・プリオク港。
ねっとりとした熱帯の湿気と、腐った椰子油の匂いが鼻をついた。
「阪急白鶴航空、南洋民間試走機」——色あせたペンキの看板を掲げた二型は、青空の下、堂々と港湾の中央に着水した。
オランダ領東インド総督府の港務官らは、小林一三の裏ルートから届いた裏工作資金の重みに破顔し、一切の臨検を免除した。
ロイヤル・ダッチ・シェルの給油船が横付けされ、黄色いガソリンが冷たいうねりを立てて二型へ買い付けられていく。
小林一三が敷いた銭のレールの上を、西日本の翼は何の障害もなく滑っていく。
シンガポールの英国情報部(MI6)が「バタヴィアに謎の巨機あり」と電報を打った時には、二型はすでに南シナ海の雲海を切り裂き、台北の淡水港を目指して離水した後だった。