白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

57 / 82
第十二章『灰壁』(1938年 10月)

三宅坂。

 陸軍省軍務局長室。

 夕闇の西日が入る室内に、黒板のチョークの匂いと、乾燥したインクの匂いが澱んでいた。

 黒板に書かれているのは、文字ではない。

「師団別消費弾薬数」

「製鋼所稼働率」

「カロリー換算兵糧補給線」——国家という巨大な機械を動かすための、無機質な数値と数式だけだ。

「……本日の講義はここまでだ。帳面を閉じろ」

 永田鉄山は黒板拭きで白い数式を削り落とした。

 チョークの白い粉が、彼の軍服の袖口に静かに積もる。

 卓前のパイプ椅子に座っていた十四歳の時子は、万年筆を置き、パタンとノートを閉じた。

 ノートの紙面は、永田が板書した公度(規格)の体系で寸分違わず埋め尽くされている。

 父、石原の兵站も、小林の銭も、すべてはこの男が黒板に描く「規格」という枠組みの中に組み込まれていく。

時子は背筋を真っ直ぐに伸ばし、息を呑み込んだ。

完璧に理解したという無意識の誇らしさが、少女の頬を微かに熱くさせていた。

 永田は時子のノートに一瞥も与えず、卓上に広げられた別の書類——北樺太(オハ)の白黒地図と、原油掘削権の特許契約書案を引き寄せた。

 大連と舞鶴を裏で繋いだ石原莞爾が出向き、ソ連の喉元を締め上げるべき泥臭い現場だ。

 だが石原は白鶴二型で地中海へ飛んでいる。

その始末のため、永田自らが極寒の地へ出張らざるを得ない。

 時子は立ち上がり、ワンピースの皺を静かに伸ばした。

「……永田先生。

北樺太の交渉、わたしも同行させてください」

 永田の手が止まった。

光を含まない眼鏡のレンズが、ゆっくりと時子へ向けられる。

「理由は」

「いま習った『兵站補給の公度』

……現場で検証できます。

それに、わたしは二年前の大泊を知っています。

父直伝のロシア語も使えます」

 時子は一歩も退かず、永田の眼光を見つめ返した。

 永田は黒板拭きの粉を払い、卓上の地図へ視線を落とした。

「重しになれ」

「……え?」

「石原の娘として、ただの木偶(でく)のようにそこに座っていろ。

発言は一切許さん。

一言でも口を開けば、お前をその場で樺太の雪の中に棄てる」

「……承知しています」

「公度の狂った計測器に用はない。

帰れる保証も、守る気もない」

 明朝。

 阪急浜離宮大回廊、水上飛行場。

 黎明の鉛色の海に浮く白鶴二型が、二千キロの北天を一直線に切り裂いた。

 北樺太、オハ。

 空が低く垂れ下がり、港の海は重油の混ざった鉛色に死んでいた。

 ソ連側施設。

粗悪なマホロカの煙と、濡れた羊毛コートの酷い体臭が充満する灰色のコンクリート塊。

 会議室の長机。

 対面に着席したのは、大粛清の血の嵐をくぐり抜けてきたソ連通商代表部の高官たちだ。

 落ちくぼんだ眼孔の奥にあるのは、人間の感情を削ぎ落とした骸の眼だった。

いつ自分たちの首がすっ飛ぶかわからない恐怖の中で、生き残るためだけに他人の血を求める獣の気配。

 日本側の通訳官が、湿気た指先で固く書類を開こうとした。

その手が、微かに震えている。

 時子の背中に冷や汗が走った。通訳官の弱腰は、永田の言う「規格外の欠陥」だ。

 大泊で父がボリソフを呑み込んだあの光景が脳裏をよぎる。

この不甲斐ない官僚に喋らせれば、永田のシステムが傷つく。

自分が父の代わりとなって補正しなければならない。

 時子は永田の絶対命令を置き去りにし、背筋を正して息を吸い込んだ。

「Мы требуем соблюдения договоренностей.」

(協定の厳格な履行を求めます)

 父から叩き込まれた、軍人特有の硬質なロシア語。

 だが——。

 骸のような眼が、ゆっくりと時子へ向けられた。

 そこに浮かんだのは狼狽ではなく、冷酷な失笑だった。

「……ほう」

 高官が濁った声で痰を吐き捨てた。

「子供に軍人語を丸暗記させてハッタリをかますほど、日本軍部は焦っているのか。

まともな外交官すら立てられんほど困窮しているとみえる」

 隣のソ連官僚が、手元の資料へ容赦なく朱を入れた。

「子供の玩具に付き合う暇はない。

原油の引き渡し価格は、当初の二割増しだ。

嫌なら今すぐ失せろ」

 足元を一瞬で見切られた。

 暗記した言葉の硬さと、喉の奥に残る幼い発音が、日本の焦りと甘さを露呈させた。

数億円規模の国益が、一瞬でドブに捨てる絶望的な隙となって開く。

 時子の口の中に、かつて大泊で食べた栗餡の甘みが蘇り——次の瞬間、凍りついた鉄と重油のドロリとした苦味となって胃袋へ反転した。

顔から血の気が失せる。

 バツン!

 永田の手が一閃し、乾いた重音が卓を叩いた。

「下がれ」

 地底から響く声。

弁明の余地を破片ほども与えない刃。

 時子は喉を鳴らし、固まったまま椅子を引いた。

壁際のパイプ椅子まで後退し、膝を抱えて丸まる。

 永田は時子の存在を最初からゼロとして消去すると、ソ連高官たちを死人以上の冷徹さで見返した。

「価格の変更は認めん。

オハ東側坑区の送油管バルブ制御権、および舞鶴への直行給油船の優先接岸権——これらが滞れば、我が方はオハ北部の高圧送電線を即時遮断する」

 永田の声には熱も感情もない。事前に対ソ連用に組まれた不可避の兵站ロジックが、機械的に吐き出されていく。

 ソ連高官の眼の奥で、生きた狼狽の光が跳ねた。

 永田の放つ「国家の暴力」の前に怪物どもが呑み込まれていく。

時子が作ったノイズなど、永田という巨大なシステムの歯車によって、一瞬で踏み潰され、消去されていった。

 夜。

オハの殺風景な宿舎。

 木枯らしが窓枠をガタガタと揺らしていた。

 時子は部屋の隅に立っていた。手足の先端が凍りついたように冷たい。

 鍵が回る音がし、永田が入ってきた。

無言で扉を閉め、時子の正面に立つ。

「……お前は石原のネジだと思っていたが、ただの砂利だったな」

 叱責すら含まない、事実の宣告。

「小賢しい知恵で穴を埋めた気になったか。

お前が勝手に動いた分、国家の余計な手札を一枚切るハメになった」

 永田の冷たい目が、時子を見下ろす。

「お前はまだ、ただの不純物だ。

紙の上で万点を取った程度で、盤面が動くと思うな」

 それだけを言い捨て、永田は去った。

カチリと扉が閉まる。

 静寂。

 時子は床の上に崩れるように膝をついた。

 かつて父から教わったスキーの構え——後ろ足に重みを乗せる体幹——を試みようとしたが、ガタガタと震える膝が言うことを聞かず、床に倒れ伏した。

 黒板の上で学んだ知識も、小賢しいハックも、父譲りのハッタリも、男たちの巨大な「国家の規格」の前には虫ケラの悪あがきに過ぎなかった。

(……アカン。

こんな小手先じゃ、誰も守れへん。

何も変えられへん……!)

 時子は歯が折れるほど強く噛み締め、声もなく己の膝を拳で叩きつけた。

爪が皮膚に食い込み、血が滲む。

 男たちの戦場で、ハッタリではない「本当の構造」を握らなければ生き残れない。

 帰路。

白鶴二型の機内。

 時子は一度も外を見なかった。膝の上で固く握りしめた両拳の血の匂いだけを、ただじっと見つめ続けていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。