すっ……
と足袋の裏が檜(ひのき)の床をすべる。
両腕をゆるやかに広げ、天に帰る天女の舞を模す。
扇の角度。
落とした視線。
膝の折れ。
寸分の狂いもない。
東京。
近衛邸の能舞台。
足拍子が、トンと澄んだ音を立てて静寂を穿った。
「……そこまで」
謡(うたい)を止めた近衛文麿が、扇を静かに畳んだ。
長身を折り曲げるように佇み、濁りのない双眸で舞台上の時子を見つめている。
「時子や」
「……はい」
時子は面(おもて)を伏せたまま、息を整えていた。
汗が額から垂れ、ワンピースの白い襟を濡らす。
「どこか、狂っておりましたでしょうか」
「狂いはない。型は完璧だ」
近衛の声には、一切の熱がなかった。
国家の頂に立つ男特有の、すべてを冷ややかに見下ろす眼差し。
「……だが、君の天女には翼がない。
この公爵家の舞台も、私の教える型も、君にとってはただの綺麗な籠だな。
……何に怯えて、誰の顔色を窺って舞っている?」
時子は答えなかった。
近衛は着物の裾を静かに払い、背を向けた。
「自分を殺して舞う型は、見ていて退屈だ。
今日は終わりにする」
麻布。
井上邸。
冷めていく紅茶の香気が、薄暗い応接間に漂っていた。
時子はソファに深く腰掛け、カップの縁を指先で追っていた。
「……おねえちゃん。
近衛先生に『退屈だ』って言われた」
静かに紅茶を注ぎ足したのは、井上成美の娘、靚子(せいこ)だった。
時子より五歳年上の彼女は、ティーポットを置くと、息を殺して時子の隣に腰掛けた。
「近衛様は……
どなたに対してもお冷たい方ですから」
「ううん。当たってるねん」
時子は膝の上のスカートを強く握りしめた。
爪が布地を白く歪ませる。
「とうちゃんの戦争も、小林のおっちゃんの金も、井上先生の政治も……
全部すごすぎて、わたしには何もない。
バタヴィアで英語を話した時も、大人のあつらえた舞台の上で踊ってただけ。
わたし自身は、ただの空っぽの箱なんや」
靚子は黙って時子の手の上に、己の手を重ねた。
ふたつの指先が触れ合う。
冷たい。
どちらの手も、血の通った「自分の暮らし」を知らない手の冷たさだった。
靚子は立ち上がると、鍵のかかった書架の奥から、埃をかぶった冊子を一冊引き抜いた。
「お父様に見つかったらお叱りを受けますけれど……これ。
読んでみて」
表紙に刻まれた、歪だが力強い墨文字。
『婦人界』。
「男の人たちが動かす大きな世界の外側でね、泥をかぶって立っている人がいるの。
時子ちゃん……これ」
ページを繰る。
軍隊も、資本も、男の庇護もない。
法という壁の前にたった一人で立ち、罵声と汚物を投げつけられながら「女の足で立て」と叫ぶ文章。
——市川房枝。
時子は喉の奥で、小さく息を呑んだ。
「……おねえちゃん。
これ、借りていってもええ?」
「もちろん。
でも気をつけてね、時子ちゃん。
……絶対に、見つからないように」
ふたりは短い目配せを交わした。
そこには言葉以上の、冷たい家系に縛られた者同士の暗黙の線が走っていた。
神田。
雑居ビルの狭間。
煤煙の匂いと、腐った油の臭気が路地に充満していた。
紺色ワンピース姿の時子は、供も連れず、木造雑居ビルの軋む階段を上がっていた。
白鶴も、阪急も、三宅坂の護衛もない。
ただの十四歳の少女として踏みしめる神田の街角は、刺すように冷たかった。
「婦人問題研究所」
はげかかったペンキの看板。
時子はドアノブを掴み、押し開けた。
ガラガラと音が鳴る。
粗悪な紙とガリ版印刷の焦げ臭いインクの匂い。
積み上げられたチラシの山。
その奥の粗末な机で、鉄眼鏡をかけた背の高い女が、執念深い音を立てて万年筆を走らせていた。
市川房枝。
カリカリという執筆音が止まる。
房枝は顔を上げると、眼鏡の奥の鋭い目で、時子の足元から襟元までを一瞬で射抜いた。
「……誰だね。
見かけん顔だが、何の用だ」
無骨で太い、名古屋弁の重い響き。
時子は背筋を伸ばし、房枝の目を正面から見つめ返した。
「いし……石野時子と申します。
市川房枝先生とお見受けしました。
お話を聞かせていただきたく、参りました」
房枝は椅子を大きく軋ませて立ち上がった。
骨太な身体。
運動と街頭演説で焼き切れた皮膚の硬さ。
房枝は荒い足音を立てて歩み寄ると、時子の目の前に仁王立ちになり、その服と足袋をねっとりと見分めた。
「洋服の仕立てと足袋の白さが上等すぎるがね。
……三宅坂か?
それとも天保山の匂いか?」
時子の肩が、微かに跳ねた。
「あんたのその目、男の威光に守られて、男の顔色窺って生きてきた人間の目だて。
教える?
人に教えてもらう時点で、あんたはまだ誰かの甘やかしの中にいるがね。
ここはお稽古所じゃないんだ。
……うちにそんなお嬢ちゃんのお守りをする暇なんかないがね。
自分の家に帰りな」
シッ、と無造作に腕を放り出される。
時子の身体がよろめいた。
だが、時子は倒れる間際、右足の靴底で木目の床を強く、力任せに踏みつけた。
ドスン、と乾いた重音が窓ガラスを振動させる。
時子はワンピースの袖を無雑作に肘まで捲り上げた。
房枝の返答も、許しも待たない。
時子は足音を殺して部屋の隅へ歩み寄ると、積み上げられたガリ版刷りの鉄筆と、真っ黒な油性インクのローラーを力まかせに掴み取った。
白く柔らかい指先に、ベタリと刺すような黒インクがこびりつく。
「教えてもらわんでもいいです」
時子の声が、低く、太く変わる。
「……勝手に盗みます」
鉄筆が鉄板の上で、キイキイと耳鳴りのような不快な音を立てて原稿を削り始めた。
房枝は眼鏡の奥の目を細め、腕を組んだまま、自分の机の原稿を削り散らかす十四歳の背中をじっと見つめた。
ガリ版の焦げ臭いインクの匂いの中、カリカリという鉄筆の音だけが、雑居ビルの一室に冷たく響き続けた。