白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第十三章『羽衣』(1938年 11月)

すっ……

と足袋の裏が檜(ひのき)の床をすべる。

 両腕をゆるやかに広げ、天に帰る天女の舞を模す。

 扇の角度。

落とした視線。

膝の折れ。

 寸分の狂いもない。

 東京。

近衛邸の能舞台。

 足拍子が、トンと澄んだ音を立てて静寂を穿った。

「……そこまで」

 謡(うたい)を止めた近衛文麿が、扇を静かに畳んだ。

 長身を折り曲げるように佇み、濁りのない双眸で舞台上の時子を見つめている。

「時子や」

「……はい」

 時子は面(おもて)を伏せたまま、息を整えていた。

汗が額から垂れ、ワンピースの白い襟を濡らす。

「どこか、狂っておりましたでしょうか」

「狂いはない。型は完璧だ」

 近衛の声には、一切の熱がなかった。

国家の頂に立つ男特有の、すべてを冷ややかに見下ろす眼差し。

「……だが、君の天女には翼がない。

この公爵家の舞台も、私の教える型も、君にとってはただの綺麗な籠だな。

……何に怯えて、誰の顔色を窺って舞っている?」

 時子は答えなかった。

 近衛は着物の裾を静かに払い、背を向けた。

「自分を殺して舞う型は、見ていて退屈だ。

今日は終わりにする」

 麻布。

井上邸。

 冷めていく紅茶の香気が、薄暗い応接間に漂っていた。

 時子はソファに深く腰掛け、カップの縁を指先で追っていた。

「……おねえちゃん。

近衛先生に『退屈だ』って言われた」

 静かに紅茶を注ぎ足したのは、井上成美の娘、靚子(せいこ)だった。

時子より五歳年上の彼女は、ティーポットを置くと、息を殺して時子の隣に腰掛けた。

「近衛様は……

どなたに対してもお冷たい方ですから」

「ううん。当たってるねん」

 時子は膝の上のスカートを強く握りしめた。

爪が布地を白く歪ませる。

「とうちゃんの戦争も、小林のおっちゃんの金も、井上先生の政治も……

全部すごすぎて、わたしには何もない。

バタヴィアで英語を話した時も、大人のあつらえた舞台の上で踊ってただけ。

わたし自身は、ただの空っぽの箱なんや」

 靚子は黙って時子の手の上に、己の手を重ねた。

 ふたつの指先が触れ合う。

冷たい。

どちらの手も、血の通った「自分の暮らし」を知らない手の冷たさだった。

 靚子は立ち上がると、鍵のかかった書架の奥から、埃をかぶった冊子を一冊引き抜いた。

「お父様に見つかったらお叱りを受けますけれど……これ。

読んでみて」

 表紙に刻まれた、歪だが力強い墨文字。

『婦人界』。

「男の人たちが動かす大きな世界の外側でね、泥をかぶって立っている人がいるの。

時子ちゃん……これ」

 ページを繰る。

 軍隊も、資本も、男の庇護もない。

 法という壁の前にたった一人で立ち、罵声と汚物を投げつけられながら「女の足で立て」と叫ぶ文章。

 ——市川房枝。

 時子は喉の奥で、小さく息を呑んだ。

「……おねえちゃん。

これ、借りていってもええ?」

「もちろん。

でも気をつけてね、時子ちゃん。

……絶対に、見つからないように」

 ふたりは短い目配せを交わした。

そこには言葉以上の、冷たい家系に縛られた者同士の暗黙の線が走っていた。

 神田。

 雑居ビルの狭間。

煤煙の匂いと、腐った油の臭気が路地に充満していた。

 紺色ワンピース姿の時子は、供も連れず、木造雑居ビルの軋む階段を上がっていた。

白鶴も、阪急も、三宅坂の護衛もない。

ただの十四歳の少女として踏みしめる神田の街角は、刺すように冷たかった。

「婦人問題研究所」

 はげかかったペンキの看板。

時子はドアノブを掴み、押し開けた。

 ガラガラと音が鳴る。

 粗悪な紙とガリ版印刷の焦げ臭いインクの匂い。

積み上げられたチラシの山。

 その奥の粗末な机で、鉄眼鏡をかけた背の高い女が、執念深い音を立てて万年筆を走らせていた。

 市川房枝。

 カリカリという執筆音が止まる。

 房枝は顔を上げると、眼鏡の奥の鋭い目で、時子の足元から襟元までを一瞬で射抜いた。

「……誰だね。

見かけん顔だが、何の用だ」

 無骨で太い、名古屋弁の重い響き。

 時子は背筋を伸ばし、房枝の目を正面から見つめ返した。

「いし……石野時子と申します。

市川房枝先生とお見受けしました。

お話を聞かせていただきたく、参りました」

 房枝は椅子を大きく軋ませて立ち上がった。

 骨太な身体。

運動と街頭演説で焼き切れた皮膚の硬さ。

 房枝は荒い足音を立てて歩み寄ると、時子の目の前に仁王立ちになり、その服と足袋をねっとりと見分めた。

「洋服の仕立てと足袋の白さが上等すぎるがね。

……三宅坂か?

それとも天保山の匂いか?」

 時子の肩が、微かに跳ねた。

「あんたのその目、男の威光に守られて、男の顔色窺って生きてきた人間の目だて。

教える?

人に教えてもらう時点で、あんたはまだ誰かの甘やかしの中にいるがね。

ここはお稽古所じゃないんだ。

……うちにそんなお嬢ちゃんのお守りをする暇なんかないがね。

自分の家に帰りな」

 シッ、と無造作に腕を放り出される。

 時子の身体がよろめいた。

 だが、時子は倒れる間際、右足の靴底で木目の床を強く、力任せに踏みつけた。

 ドスン、と乾いた重音が窓ガラスを振動させる。

 時子はワンピースの袖を無雑作に肘まで捲り上げた。

 房枝の返答も、許しも待たない。

時子は足音を殺して部屋の隅へ歩み寄ると、積み上げられたガリ版刷りの鉄筆と、真っ黒な油性インクのローラーを力まかせに掴み取った。

 白く柔らかい指先に、ベタリと刺すような黒インクがこびりつく。

「教えてもらわんでもいいです」

 時子の声が、低く、太く変わる。

「……勝手に盗みます」

 鉄筆が鉄板の上で、キイキイと耳鳴りのような不快な音を立てて原稿を削り始めた。

 房枝は眼鏡の奥の目を細め、腕を組んだまま、自分の机の原稿を削り散らかす十四歳の背中をじっと見つめた。

 ガリ版の焦げ臭いインクの匂いの中、カリカリという鉄筆の音だけが、雑居ビルの一室に冷たく響き続けた。

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