白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

59 / 60
第十四章『鉄筆』(1938年 11月)

ガリ、ガリ。

 ヤスリの上に載せた蝋原紙(ろうげんし)を削る、鉄筆の乾いた音が四畳半の雑居ビルの一室に響いていた。

 三宅坂の地下資料室の冷気とも、白鶴の機内に満ちる高オクタン燃料の甘い匂いとも違う。

 粗悪な揮発油と、黒い油墨の刺すような臭気が部屋の空気を重く澱ませている。

 時子の爪の角は、すでに落ちない黒に染まっていた。

 ワンピースの袖を肘まで捲り上げ、鉄筆を固く握りしめて原紙に向き合う。

一文字歪めば、それだけで数百枚のチラシが無駄になる。

右手の指先の感覚は失せ、手首から肘にかけての筋が千切れるように痛んだ。

 ガリ版を刷り、枚数を数え、折る。

 公会堂の畳部屋を借りるため、数十銭の小銭を握りしめて区役所の窓口へ頭を下げに行く。

男の役人に「女が何の集会だ」と鼻で笑われ、邪険に追い払われそうになりながらも、予約の印を取りつける。

 父の「兵站」でも、小林の「資本」でもない。

 何ひとつ持たない女たちが、己の指先と足だけで硬い壁に爪を立てる、泥臭い手作業の山。

「……っ」

 鉄筆の尖端が滑り、右の親指の腹を突いた。

 微かな血の玉が湧き出し、黒いインクと混ざり合って赤黒く濁る。

時子は声を出さず、ワンピースの裾でそれを強く押し潰した。

「ほら、時子ちゃん。

一息つきな」

 ぬるい番茶の入った大きな湯呑みが、机の端に置かれた。

 振り返ると、太い黒縁眼鏡をかけた若い女性が立っていた。

 林久子(二十一歳)。

 木綿の男物ズボンにずんぐりとした体躯。

半纏を羽織った無骨な姿だが、眼鏡の奥の目は丸く、柔らかい。

「そんなに肩肘張ってたら、日が暮れる前に指が動かなくなっちまうよ。

ほら、少し休みな」

 久子が大きくて分厚い手で、時子の強張った肩をぽんぽんと叩いた。

 その掌の生暖かい湿り気に、時子の首筋の緊張が、ほんの少し緩みかける。

「……いえ、久子さん。

わたし、まだ刷れます。

休んだら、追いつけへん」

「いいから。

お茶飲んで、煎餅でもかじりな。若いんだからさ」

 久子が笑うと、眼鏡の奥の目尻が深く下がる。

「久子ぉ!」

奥の部屋から、雷鳴のような声が轟いた。

 ガラリ、と襖が跳ね上がる。

 市川房枝が立っていた。

 白髪混じりの髪を後ろで固く束ね、鉄眼鏡の奥から放たれる眼光は、刃物のように鋭い。

「甘やかしたら、いかんがね!」

 房枝が畳をドスドスと踏み鳴らし、時子たちの机の前へ歩み寄る。

「今ここで甘やかして蜜吸わせたら、後で現場に出て困るのはこの子自身だて!

世間の男どもはな、女の甘えを絶対に許さん。

一歩外へ出たら、誰も助けてくれんのだぞ!」

房枝の背筋は、直立不動の軍人よりも直角に伸びている。

「久子のその優しさはな、時にはただの毒になるんだが。

この子は覚悟してここへ来たんだろまい。

だったら、他の人間と同じように扱やぁ!」

久子は素早く黒眼鏡を指で押し上げ、口をきゅっと結んで背筋を伸ばした。

苦言を受け止めながらも、動じない重み。

房枝は時子の前まで歩み寄ると、膝を折り、爪の間の黒いインクと震える指先を冷たく見下ろした。

そして、折り畳まれた一枚のチラシをひょいとつまみ上げる。

「時子さん」

「……はい」

「紙の折り方が甘い。

端が二ミリずれとる」

カサリ、と房枝の手元で紙が乾いた音を立てた。

「そんな不揃いなチラシ、誰が真面目に読むか。

投げ捨てられておわりだて。

……全部折り直せ」

時子の視線が、房枝の指先にある二ミリの隙間に吸い寄せられた。

ズレ。

不揃い。

揃わへんもんは、届かない。

捨てられる。

機能しない。

死ぬ。

時子は息を吸い込み、背筋を真っ直ぐに伸ばすと、畳へ額が触れるまで深く頭を下げた。

「……はい」

畳の草の臭いと、自分の手にこびりついた油墨の匂いが混ざり合う。

時子は立ち上がると、再び鉄筆を握り直した。

傷ついた親指の腹から滲む血が、ヤスリの上の黒いインクに固く溶け込んでいく。

爪の隙間の黒い汚れは、もう拭っても落ちない。

時子は無言のまま、二ミリのズレもない正確さで、次の原紙へ鉄筆の刃先を深く突き立てた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。