ガリ、ガリ。
ヤスリの上に載せた蝋原紙(ろうげんし)を削る、鉄筆の乾いた音が四畳半の雑居ビルの一室に響いていた。
三宅坂の地下資料室の冷気とも、白鶴の機内に満ちる高オクタン燃料の甘い匂いとも違う。
粗悪な揮発油と、黒い油墨の刺すような臭気が部屋の空気を重く澱ませている。
時子の爪の角は、すでに落ちない黒に染まっていた。
ワンピースの袖を肘まで捲り上げ、鉄筆を固く握りしめて原紙に向き合う。
一文字歪めば、それだけで数百枚のチラシが無駄になる。
右手の指先の感覚は失せ、手首から肘にかけての筋が千切れるように痛んだ。
ガリ版を刷り、枚数を数え、折る。
公会堂の畳部屋を借りるため、数十銭の小銭を握りしめて区役所の窓口へ頭を下げに行く。
男の役人に「女が何の集会だ」と鼻で笑われ、邪険に追い払われそうになりながらも、予約の印を取りつける。
父の「兵站」でも、小林の「資本」でもない。
何ひとつ持たない女たちが、己の指先と足だけで硬い壁に爪を立てる、泥臭い手作業の山。
「……っ」
鉄筆の尖端が滑り、右の親指の腹を突いた。
微かな血の玉が湧き出し、黒いインクと混ざり合って赤黒く濁る。
時子は声を出さず、ワンピースの裾でそれを強く押し潰した。
「ほら、時子ちゃん。
一息つきな」
ぬるい番茶の入った大きな湯呑みが、机の端に置かれた。
振り返ると、太い黒縁眼鏡をかけた若い女性が立っていた。
林久子(二十一歳)。
木綿の男物ズボンにずんぐりとした体躯。
半纏を羽織った無骨な姿だが、眼鏡の奥の目は丸く、柔らかい。
「そんなに肩肘張ってたら、日が暮れる前に指が動かなくなっちまうよ。
ほら、少し休みな」
久子が大きくて分厚い手で、時子の強張った肩をぽんぽんと叩いた。
その掌の生暖かい湿り気に、時子の首筋の緊張が、ほんの少し緩みかける。
「……いえ、久子さん。
わたし、まだ刷れます。
休んだら、追いつけへん」
「いいから。
お茶飲んで、煎餅でもかじりな。若いんだからさ」
久子が笑うと、眼鏡の奥の目尻が深く下がる。
「久子ぉ!」
奥の部屋から、雷鳴のような声が轟いた。
ガラリ、と襖が跳ね上がる。
市川房枝が立っていた。
白髪混じりの髪を後ろで固く束ね、鉄眼鏡の奥から放たれる眼光は、刃物のように鋭い。
「甘やかしたら、いかんがね!」
房枝が畳をドスドスと踏み鳴らし、時子たちの机の前へ歩み寄る。
「今ここで甘やかして蜜吸わせたら、後で現場に出て困るのはこの子自身だて!
世間の男どもはな、女の甘えを絶対に許さん。
一歩外へ出たら、誰も助けてくれんのだぞ!」
房枝の背筋は、直立不動の軍人よりも直角に伸びている。
「久子のその優しさはな、時にはただの毒になるんだが。
この子は覚悟してここへ来たんだろまい。
だったら、他の人間と同じように扱やぁ!」
久子は素早く黒眼鏡を指で押し上げ、口をきゅっと結んで背筋を伸ばした。
苦言を受け止めながらも、動じない重み。
房枝は時子の前まで歩み寄ると、膝を折り、爪の間の黒いインクと震える指先を冷たく見下ろした。
そして、折り畳まれた一枚のチラシをひょいとつまみ上げる。
「時子さん」
「……はい」
「紙の折り方が甘い。
端が二ミリずれとる」
カサリ、と房枝の手元で紙が乾いた音を立てた。
「そんな不揃いなチラシ、誰が真面目に読むか。
投げ捨てられておわりだて。
……全部折り直せ」
時子の視線が、房枝の指先にある二ミリの隙間に吸い寄せられた。
ズレ。
不揃い。
揃わへんもんは、届かない。
捨てられる。
機能しない。
死ぬ。
時子は息を吸い込み、背筋を真っ直ぐに伸ばすと、畳へ額が触れるまで深く頭を下げた。
「……はい」
畳の草の臭いと、自分の手にこびりついた油墨の匂いが混ざり合う。
時子は立ち上がると、再び鉄筆を握り直した。
傷ついた親指の腹から滲む血が、ヤスリの上の黒いインクに固く溶け込んでいく。
爪の隙間の黒い汚れは、もう拭っても落ちない。
時子は無言のまま、二ミリのズレもない正確さで、次の原紙へ鉄筆の刃先を深く突き立てた。