小林一三の手配した池田の特設病室。
回転性の眩暈に襲われたテイ子は、暗闇に目を潰されたように横たわっている。
石原莞爾は数珠を握りしめたまま、ただ妻の濡れた額へ無機質に大きな手のひらを重ねた。
「数理の如く処理する」
二秒。
手を離し、軍靴の音を一度だけ響かせて踵を返した。
見舞いの言葉はない。
ただ処理すべき作業として病室をあとにした。
深夜。
池田の白梅館へ戻った石原を待っていたのは、暗闇で煙草をくゆらせる山本五十六だった。
「覚悟することだな、石原君。
家庭という兵站をどう回すか、見ものだよ」
山本が去り、居間に二人だけが遺された。
石原は時子を抱き上げた。
十キロもない幼子の肉体が、異様なほど熱く重い。
午前二時。
時子が跳ね起き、獣のような絶叫を上げた。
石原は背負い、揺らし、不器用にその背を叩く。
だが狂乱は収まらない。
何万の兵を動かす兵站の数式も、動員計画のロジックも、目の前で泣き叫ぶ肉体一つを鎮める足しにはならなかった。
無力感が、舌の奥で苦く広がる。
その時、胸元がじんわりと熱くなった。
石原は、抱き上げた手が自分の導尿失敗で濡れた時の、あの嫌な温もりを思い出した。
時子は汗と熱にまみれたまま、明け方、石原の胸元で引き付けを起こすように眠りについた。
石原は動けなかった。
夏衣の麻生地に染みた熱が、やがて夜気の冷たさとともに、じりじりと奪われていく。
何百万人を動かす陸軍最高峰の参謀が、目の前のこの小さな熱ひとつ、制御できない。
石原は闇を見つめたまま、ただ朝が来るのを待った。
翌朝。
阪急電車の満員車内。
背中の時子が放つ熱は冷え切り、石原の周囲だけがぽっかりと空間が割れていた。
乗客たちが露骨に鼻を覆い、顔を背ける。
胸の冷えた染みは、軍衣の上で不格好な地図を描いている。
石原に周囲を威嚇する気力は残っていなかった。
第四師団の大手門をくぐる頃には、ただの亡霊のような足取りになっていた。
歩兵第四連隊、執務室。
背中におぶわれた時子を揺らし、石原が部屋に入った。
「石原中佐殿……!」
週番司令の大尉が跳び上がった。
「家内が入院した。
自分には養育の義務がある」
石原の生気のない目が、ただ前を向く。
その時、奥のデスクから、船場の薬種問屋の倅である吉野特務曹長がゆっくりと立ち上がった。
帳簿を脇に抱え、ぬけぬけと言い放つ。
「報告いたします、中佐殿。
小便の染みた軍服で本省提出の動員書類を触られたら、臭いが移って商売……
いや、作戦計画になりまへん」
大尉が目を見開く。
曹長は真顔のまま続けた。
「裏の湯殿で、実家の洋服屋の倅にその夏衣を洗い落とさせます。その間、わたしら下士官が交替でご令嬢の警戒監理にあたるのが、一番無駄が出ん『損得勘定』であります」
曹長は道頓堀の黒糖飴を取り出し、時子の前でしゃがみ込んだ。
「なぁ、お嬢ちゃん。
おっちゃんに抱っこされてみぃへんか」
「おったん、あぃがとぅ」
時子が小さな手を伸ばす。
「……交渉成立でございます!」
曹長が時子を抱き上げると、執務室から下士官たちの笑いが起きた。
軍の威厳などハナから信用しない第四師団の兵どもは、エリート参謀の無惨な姿に、一瞬で「身内」の匂いを嗅ぎ取っていた。
石原は膝の上の時子の頭を撫で、ふっと肩の力を抜いた。
かすれた声が漏れる。
「……曹長。
服換えるの手伝ってくれ」
「へいへい中佐殿、朝飯前だす!
湯殿へ行きましょう!」
曹長が笑って腕をまくった。
国家の予算も軍令も届かないこの泥臭い執務室から、大阪商人の「銭と損得」を巻き込んだ、裏の兵站システムが産声を上げようとしていた。