午後四時。
阪急浜離宮大回廊ターミナル。
鉛色の雲が海を低く押し潰していた。
黒い水煙を激しく跳ね上げ、白鶴二型が港の海面に着水する。
中央アジアの砂嵐と地中海の潮を浴び続けた巨躯は、塗装が剥げ落ち、無数の銀色のひっかき傷に覆われていた。
四発の火星エンジンが重い低音を吐き出し、静かに波を滑る。
タラップが降ろされ、ハッチが開いた。
軍服の肘を擦り切れさせた石原莞爾が、足取り重く降りてくる。
地中海を越えてきたその頬は削げ落ち、眼光だけが異常な鋭利さを増していた。
岸壁で待っていたテイ子が、小さく息を呑む。
その隣に、直立不動の姿勢で立つワンピースの少女——時子。
時子は爪の間の落ちない黒インクを隠すように、握り拳を太腿の脇にピタリと揃えていた。
石原の軍靴が、濡れたアスファルトを重く鳴らして立ち止まる。
時子の目の前に、父が立った。
高オクタン燃料の刺すような臭いと、北樺太の重油、そして乾燥した遠い国の埃の匂い。
時子の指先から漂う安インクの焦げ臭さと、激しく衝突する。
石原は無言だった。
時子の黒く汚れた爪に一瞬だけ視線を落とすと、ゆっくりと大きな手を伸ばした。
ごつごつとした粗い掌が、時子の頭の上に乗る。
「……あ」
喉の奥で、掠れた声が潰れた。
次の瞬間、時子の膝から崩れるように力が抜け、視界が歪んだ。
ワンピースの袖で顔を覆う間もなく、静かに、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち、足元の黒いアスファルトを濡らしていく。
石原は無言のまま、崩れ落ちる時子の肩を抱き寄せた。
服越しに伝わる身体。
石原の指先に、固い手応えが跳ね返る。
一週間程前までの子どもの柔らかい脂身は消え、鎖骨と肩甲骨の角が、軍手越しに直接指へ突き刺さる。
己の足で立とうと踏ん張ってきた者にしか宿らない、削ぎ落とされた骨の手触り。
テイ子も手ぬぐいを口元に当て、顔を背けた。
石原は暗い海を見つめたまま、ただ一度だけ、時子の頭を強く撫で下ろした。
代沢。
石原邸。
夜の静寂が、小さな平屋を包んでいた。
古びた火鉢の前に座った石原が、テイ子の淹れた粗末な番茶を口に含んでいる。
畳の上に正座した時子は、膝の上で黒く染まった指先をきつく握り締めていた。
「……樺太で、永田先生に突っぱねられた」
時子が低く言った。
「わたしの語学なんて、何の役にも立てへんかった。
バタヴィアで英語喋って調子に乗って……
大人の盤面の上で、躍ってただけやった」
時子は畳の木目を凝視したまま、唇を噛んだ。
「……何も、できへんかった」
石原は茶碗を御膳に置いた。
「何もできん場所で」
「……え?」
「何を捨てるかだ。
……小賢しい知恵を捨てたなら、それで十分だべ」
石原は畳の手帳をトントンと指先で叩いた。
「次を考えるな。
……勝手に来る。
そん時、外すな」
「……市川先生のところに通ってる」
時子が静かに言った。
「誰の紹介も使わんと、自分で門を叩いた。
ガリ版刷って、チラシ折って……
泥とインクに塗れてる。
あそこには、とうちゃんの兵站も、小林のおっちゃんの線路も無い。
でも……
女が立つための規則がある」
石原は何も言わず、茶碗の湯気をじっと見つめていた。
茶碗を持つ指の関節が、白くなるほど強く握り込まれる。
「……好きにしろ」
石原は茶を干した。
翌日。
三宅坂。
陸軍省軍務局長室。
静寂の満ちる部屋で、永田鉄山が卓上の極秘文書からゆっくりと視線を上げた。
万年筆の先が、紙面の上でピタリと止まる。
「……ムッソリーニと地中海給油協定か。
独伊三国同盟を叫ぶ陸軍中央の面張りを、見事に引っ叩いてくれたな、石原」
「ドイツの狂人に連座して自滅する気はありません、閣下」
石原は軍帽を脇に抱え、直立したまま冷ややかに言い放った。
「欧州の戦火は数年で全域に広がる。
我が方が採るべきは、全面的な『帝国中立』であります」
「東の将校どもが納得すると思うか」
「納得させる必要はありません。
西日本の航空網、オハの原油、バタヴィアのガソリンを押さえているのは我が方です。
東がどれほど戦争を望もうと、油一滴、ネジ一本渡さぬ。
軍隊は一歩も動かせません」
石原は一歩前へ踏み出し、両手を永田の卓へ重くついた。
指先がマホガニーの黒い木目を刺す。
「武器ではなく『規格』で世界を縛る。
天保山規格の無接点部品、阪急の流通、白鶴の空路——これでアジアから地中海までを不可侵の物流網で制覇する。
……兵站の完成であります」
永田は数秒間、無言のまま石原を見つめていた。
眼鏡の奥の眼光が一瞬だけ細くなり、卓上の万年筆をカチリと置いた。
硬質金属の小さな音が、冷たい静寂を突く。
「……その『規格』の首輪を握るのは阪急ではない。
国家統制院だ。
履き違えるな」
「……はっ」
石原の唇が薄く歪み、隙のない動作で綺麗に敬礼した。
軍務局長室を出た石原の軍靴の音が、長い廊下にカツン、カツンと乾いて響く。
その足音の裏に、新宿の四畳半で響くガリ版の「ガリ、ガリ」という小さな鉄筆の音が、鋭く重なっていた。