十一月の雨は、新宿の薄汚れた街角を冷たく濡らしていた。
雑居ビル二階。
揮発油と黒い油墨の重い匂いが充満する四畳半で、市川房枝はヤスリの上の蝋原紙に鉄筆を滑らせていた。
ガリ、ガリ、と湿った部屋に硬い音が響く。
指先は油墨で黒く汚れ、爪の際まで蝋が詰まっていた。
階下の舗道には、濡れた外套の庇を下げた特高の私服が二人、じっと佇んでいた。
傘もささず、二階の明かりを睨みつけている。
ギシ、ギシ、と木造階段を上がる足音。
歩幅も、音の間隔も、気味が悪いほど正確だった。
階下で私服たちの足音が乱れ、そのまま息を殺す気配が漂う。
板戸が静かに隙間を作り、冷たい雨の匂いとともに一人の男が入ってきた。
濡れた黒い中折れ帽に、くたびれた外套。
帽子を脱ぐと、雨に湿った短い白髪が現れる。
その奥で、光の欠けた二つの瞳が静かに光っていた。
男は無言で外套を脱ぐと、雨滴を丁寧に払い落とし、畳の上に膝をついた。
濡れたウールから重い雨の匂いが立つ。
背筋は一本の鉄柱のごとく微動だにしない。
そこから、寸分の狂いもなく深く、頭を畳につけた。
謝罪でも懇願でもない。
盤面を支配する者が差し出す、死角ゼロの礼節だった。
「……石原です。
娘の時子が、大変お世話になっております」
すっと畳の上を滑り出された木箱。
高級な桐箱の横に、鮮やかなマルーン色の帯。
阪急百貨店の「黒蜜トコロテン」だった。
鉄瓶がシューと湯気を吐き出す。
房枝の手が止まった。
ヤスリの上で、鉄筆の針先がかすかな摩擦音を立てて止まる。
レンズの縁が湯気で薄く曇った。
房枝は頭を下げたままの男の丸い頭頂部を見つめ、静かに鉄筆を置いた。
「……ほう」
座り直し、鉄眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
低い、太い尾張弁だった。
「……小林一三のトコロテンかね。
わざわざ手土産持って、三宅坂の少将様が何の用だね。
娘の不始末でも謝りに来たか」
「いいえ」
石原はゆっくりと体を起こした。
姿勢は微塵も崩れない。
呼吸すら聞こえない。
「時子は自分の意思でここへ通っております。
親の威光も、軍の力も使わずに」
房枝の目がかすかに細くなる。
「……あいつ自身が選んだことです」
「当たり前だて」
房枝の手のひらが、畳を固く叩いた。
乾いた音が狭い部屋に跳ね返る。
「その子供はな、あんたら男が作った『兵站』やら『統制』やらの道具になるのを嫌って、自分の足で立つためにここへ来たんだがね」
房枝はインクの染みた指先で、鉄筆の軸を強く握りしめた。
「それを何だ。
永田のジジイのところへ通わせて、上からの毒まで飲ませとるそうだね。
親なら止めろだて」
石原は眉一つ動かさず、置かれた箱のマルーン色の帯を見つめている。
「……毒で結構」
硬く乾いた庄内訛り。
「永田の『統制学』も、あなたのところの泥も、あいつには要る」
房枝が顔を上げた。
「両方知らねえ女に、これからの時代は渡れねえでしょう」
トタン屋根を叩く雨音が、急激に音量を増した。
「常磐と日立の工場から、女子の強制連行枠は消えた。
小林さんの銭と白鶴の空路、そしてあなたの女子網のおかげだ」
石原の瞳が、初めて房枝の顔を直視する。
光を一切反射しない目だった。
「……市川さんの勝ちだ」
「ふざけるなだて」
房枝は身を乗り出した。
鉄眼鏡の奥の目が怒りで引き締まる。
「女が売られんようになったのは上等だがね。
だがな、あんたたちがやったのは、女を『高給で飼い慣らされた上等なネジ』に変えただけだ」
房枝の親指が、黒蜜トコロテンの箱の角を力任せに押しつける。
「押し出し機から出てくるトコロテンみたいに、三ミクロンの公差を吐き出す綺麗な歯車にして、戦争の準備しとるだけだろまい」
「……歯車で何が悪い」
石原の目から、完全に温度が吹き飛んだ。
瞬きすら途切れる。
「死んでいく奴隷の歯車か。
己で公差を決める高精度な歯車か」
鉄瓶の蒸気が、二人の間の空間を真っ白に断ち切る。
「選ぶのは、女たちです」
雨音だけが、四畳半の天井を容赦なく叩き続けていた。
房枝は鼻から深く息を吐くと、黒蜜トコロテンの箱を自分の手元へ引き寄せた。
「……石原さん」
腹の底を這うような、低い地声。
「手土産はもらっておくがね。
だが勘違いするなよ」
房枝は石原の無感情な顔をまっすぐ射抜いた。
「時子は渡せんぞ。
あんたの都合のええ兵站の道具にも、永田の統制の奴隷にも絶対させん」
息を詰める一拍。
「……あんたら男共の狂った国家を、内側から丸呑みにして叩き潰す女に育ててやるでね」
石原は静かに立ち上がり、深々と一礼した。
「……結構」
それだけだった。
外套を羽織り、中折れ帽を深くかぶる。
板戸が開く。
冷たい雨の匂い。
階段を降りていく、正確すぎる靴音。
下にいた特高の私服たちが気圧されて身を引く不気味な気配だけを残し、男の影が雨の闇へ消えていった。
房枝は桐箱の蓋をすっと滑らせた。
黒く光る蜜。
押し出されたばかりの透明なトコロテン。
その角は、寸分の狂いもなく鋭かった。
房枝は鉄筆を握り直した。
指関節が真っ白になるほど力を込め、ヤスリへ叩きつける。
ガリ、ガリ、ガリ――。
蝋原紙を削り取る乾いた悲鳴が、冷たい四畳半を鋭く突き刺し続けた。