雨に叩かれる「阪急浜離宮大回廊」
——実態は竹芝の浅瀬を力任せに浚渫し、品川沖まで網のように張り巡らせた阪急の水上ターミナルには、引き潮のヘドロと腐った海藻の臭気が充満していた。
水面に浮かぶ白鶴二型の白亜の艇腹。
その巨大な影の下に、二人の少女が並んでいた。
マルーンの深みに繊細な格子を織り込んだウールコート、同柄のワンピース、頭には同じ生地のクロッシェ。
雨粒を含んでズッシリと重くなったウール特有の濡れた獣臭が、二人の肩口から立ち上る。
寸分の狂いもなく同じ型紙で裁たれた服を纏う十四歳の時子と十九歳の靚子は、雨の中に置かれた二体の無機質なアラバスター人形だった。
「なんたいそがん格好は。
浮かれとるのか」
大石和三郎が丸眼鏡の奥の細目を尖らせた。
指先は乾燥して白く粉を吹き、爪の隙間には黒鉛と計算インクの黒い汚れがこびりついている。
横に立つ小林一三は、安物巻煙草の酸っぱい煙を濡れた空気の中に吐き出し、タヌキのように口角を吊り上げた。
「映画『白鶴旅行』のダブルヒロインや。
歩く阪急の看板として大連を闊歩してきなさい。
竹芝の乗場に『浜離宮』の看板掲げるのとおんなじや。客の目を惹きつけん移動など、ただの燃料の無駄遣いや」
小林の細い目が時子を射貫く。
その笑顔の奥には、少女の愛らしさなど微塵もない。
あるのは正確な「歩留まり」の計算だけだった。
北樺太の原油から阪急技研の特殊プラントで強引に留出させ、米国の輸出規制をハックして精製された特級航空ガソリンが、気化室へ叩き込まれる。
過激派将校の栄誉転属と住友金属の超超ジュラルミン、そして阪急の莫大な札束が産み落とした早すぎる怪物——四発の三菱製「火星二一型」二千馬力発動機が爆音を上げた。
高張力耐熱鋼のクランク軸が冬の潮風をねじ伏せる重低音を吐き出す。
水跳ね板が噛む白波から吐き出される塩水と、吸気口から逆流する耐熱オイルの焦げた臭気が、ハッチのガラスを叩く。
白鶴二型は高度八百メートルの低い偏西風に向かい風(アゲインスト)で立ち向かい、黄色く濁った渤海湾を目指して上昇した。
低く垂れ込めた雲の下。
海面の波頭がすぐ下に白く泡立つほどの低空巡航。
非与圧の客室には、薄いアルミ外板を透かして海面の冷気が忍び込む。
そこへ火星エンジンの熱気臭と、軍人たちの生臭い脂汗の匂いが混ざり合っていた。
床板を通して腰骨を揺らす重低音の中、大石が気象図面に赤鉛筆を走らせていた。
その横顔を時子が覗き込む。
「わさじい、乙気球で撒くあのアルミ帯……
一万メートルの風に乗せたらどうなるん?」
大石の手が不意に止まった。
ガサリ、と計算用紙が鳴る。
「一万メートルの大気の川は、秒速六十メートルの暴風たい。
そこに波長ば合わせた寸断アルミ箔ば大量散布してみろ。
電波ば全反射する銀の雲が数千キロにわたって空ば塞ぐ。
山城の八木アンテナで撃てば、見えん風の肋骨が全部浮き出るが……それだけじゃなか」
大石はカサカサに乾いた唇を舐め、佐賀弁の語気を低く沈めた。
「突っ込んだ敵機は無線もレーダーも目潰しされて虚空で狂い死にたい。
美しいと思わんか、時子さん。
おまけに、エスペラントで気象データを暗号化して流す見返りに、おいのエスペラント学会には阪急から金がごっそり流れとる。
貧乏学者の溜まり場にビルが建つとたい」
「……わさじいも充分、金の亡者やんか」
時子が冷たく言い放つと、横の靚子がふっと息を漏らし、静かに温かいお茶を二人に差し出した。
湯気に混ざる薔薇石鹸の香りが、機内の古いオイル臭さを一瞬だけ塗りつぶす。
太陽が頭上に差し掛かる頃、白鶴二型は大連沖に着底固定された阪急軍艦ホテル『山城』の浮桟橋へ滑り込んだ。
漂うのは解体された主砲跡の錆びた鉄の臭いと、四千トン重油槽から漏れ出る濃密な石油臭。
黄海の濁った茶色い波が浮桟橋のゴムフェンダーを擦り、ギュウ、ギュウと悲鳴を上げている。
タラップの下、軍服の胸を開けた巨漢が仁王立ちしていた。
「おっちゃん!」
タラップを駆け下りた時子が、その太い胴体へ飛び込んだ。
山下奉文は豪快に破顔し、丸々とした腕で時子を受け止める。
「なんじゃあ、お嬢!
いくつになっても変わらんのう!」
時子の頭を乱暴になで回す山下の手のひらは、異常なほど分厚く、硬い銃創と刀のタコで覆われていた。
その太い指先が時子の首筋に触れた一瞬、山下の眼光が時子と、その背後に立つ靚子を検分した。
「……まっこと、あきれた。
なんじゃ、その服は」
「可愛いやろ、お揃いやねん。
小林のおっちゃんの作戦。
わたしはおねえちゃんと揃えで嬉しい。
あ、こちら、井上靚子おねえちゃん。
井上成美先生の娘さん」
靚子は背筋をピシリと伸ばし、隙のない美しさでお辞儀をした。
「井上成美が娘、靚子でございます。
山下閣下、お初にお目にかかります」
「こりゃあ、こりゃあ。
井上の娘さんか。
一三のタヌキめ、二人揃えて大連の広告塔にしおったがじゃ!」
山下が回す黒塗りの軍用車の先頭に立ち、大連大広場の放射状に伸びる石畳の上へ、二人の少女が足を踏み出した。
アカシアの枯れ葉が舞う乾いた北風の中、ロシア風の重厚な石造建築が立ち並ぶ街並みに、鮮烈なマルーンの格子柄が二つ並ぶ。
カツン、カツン——。
寸分狂わぬ歩幅。
時子と靚子の革靴の底が、凍てついた石畳を均一なリズムで叩く。
街を行く満鉄の社員、毛皮を纏ったロシアの避難民、荷車を引く中国人労働者たちの視線が、津波のように二人へ殺到した。
「見て、あの服……
阪急の『白鶴』じゃない?映画の」
「小林一三のところの令嬢か?」
ひそひそと交わされる声と露骨な品定めの熱気の中、重いウールコートの深々とした袖の陰で、ふたりの手がすっと忍び寄った。
靚子の細く冷たい指が、時子の強張った小指へ絡みつく。
手袋越しではない。
手首の隙間から滑り込んだ素肌の掌が、じとりと汗ばんだ熱を帯びて、時子の指の間に深く割り込んだ。
ぎち、と骨が鳴るほど強く、靚子が時子の掌を握りつぶす。
人前では完璧な笑みを浮かべ、目線すら動かさない。
だが袖の中の握力は、肉を歪め、爪を相手の掌に叩き込むほどの凄まじい肉迫だった。
「……おねえちゃん、痛い」
時子が唇を動かさずに低く吐き捨てると、靚子は前を向いたまま、かすかに鼻腔を鳴らした。
薔薇石鹸の香りに混ざり、耳元から靚子の熱い息が吹きかかる。
「痛くて結構ですわ。
こうして握り合っていなければ、この街の泥と馬糞の匂いに呑み込まれて死にますの。
……私を離したら、時子ちゃんも骨まで叩き折られますわよ」
呼吸が重なる。
吸って、吐く。
熱い掌から伝わる速い脈拍。
二人はお互いの手を固く締め上げ、まるで暗い海で一つの浮き木に縋りつくように、指と指を深く噛み合わせあっていた。
見物客の群衆からは、単に「仲睦まじい高貴な姉妹」にしか見えない。
だがその衣の陰では、二人の少女が皮膚の熱と微かな汗の臭いを貪り合い、お互いを生け贄に捧げ合うように手繰り寄せ合っていた。
カツン、と二人の靴音が寸分のズレもなく完全に重なった。
群衆から吐息が漏れる。
二体の精巧な自動人形が、狂いなく揃った歩調で、大連の街角を西日本の「規格」で塗りつぶしていく。
その背後を、巨躯を揺らして歩く山下が、苦笑いを噛み殺しながらついてくる。
「……まっこと、恐ろしい娘たちじゃ。
あのタヌキの仕込み通りに、街中の目ば全部吸い寄せちゅう」
満鉄本社を背にし、圧倒的なマルーンの存在感を誇示しながら、二人は阪急百貨店大連店の全面ガラスの回転ドアへと吸い込まれていく。
その直前まで、袖の中の手は解かれないままだった。
阪急百貨店大連。
最上階グリル。
じゅうじゅうと不快な音を立てるステーキの白い脂。
ジュースのグラスに付いた水滴が垂れ、テーブルの白布に大きな汚点を広げていく。
時子はナイフを握ったまま、動かなかった。
焼けた赤身肉の匂いを吸い込むと、胃の底がキュッと絞られるように痛む。
冷めかけた牛脂が皿の上で白く固まり始め、ナイフの刃先が皿を削るギギギという音が食卓に響いた。
「……おっちゃん」
「なにかい、お嬢。
肉が冷めるぞね」
山下が太い腕でグラスをあおる。
氷がカランと乾いた音を立てた。
「……西は、綺麗すぎる。
おっちゃんの兵站も、小林のおっちゃんの金も、全部が綺麗に揃いすぎてて……気持ち悪いねん」
ガツン、と山下がナイフを皿に叩きつけた。
「三宅坂のメガネ猿の算段じゃ」
山下の声から豪快さが消えた。
「永田が東の人間を『すり潰す材料』としてしか数えちゃあせんき、末端まで血が回らんのじゃ。
お前が気をもむことじゃあないがぜ」
山下は巨躯を丸め、分厚い掌を時子のクロッシェの上に乗せ、重く押し撫でた。
「……誰の七光りにも頼らんと、自分で歩きだした道じゃ。
ワシが後ろにおるき、踏ん張れ。
……お嬢、知らん間に大きゅうなったのう」
斜陽が街並みを血の色に染める頃。
山城の最上部甲板に設置された八木アンテナから、ジーッという高周波の雑音が連続して吐き出されていた。
デッキから大量の乙ゾンデが放たれる。
寒風の中、靚子が流暢な英語で観測データをマイクに乗せ、時子が即座にエスペラント語へ暗号化して電鍵を叩く。
ツ、ツツ、ト、ツ——。
途中で、気圧数値の暗号コードが一文字ズレかけた。
時子の指先が凍り、打刻が弾けた。
(ズレたら、死ぬ——)
隣でマイクを握る靚子の視線が、時子の側頭部を刺した。
時子は息を詰め、零点何秒の遅れでコードを修正し、電鍵を叩き直した。
大石と山下は、少女二人の指先が打刻する無機質な音を挟み、言葉を失っていた。
打刻が終わり、冷えた沈黙が甲板を支配した。
山城のタラップ下、暮れかける黄海の潮風が山下の分厚い外套の襟を激しく打ちはためかせる。
「……おっちゃん!」
時子が突如として踏み込み、山下の太い腹へ頭から思い切り飛び込んだ。
ドッ、と肉がぶつかり合う重い音が響く。
時子は山下の分厚いウール軍服の胸元に顔をうずめ、両腕でその巨大な胴体を締め上げた。
鼻腔を突くのは、安煙草の酸っぱい煙の臭い、男臭い脂汗、そして大陸の乾燥した泥の匂い。
生きている人間の、圧倒的な熱量と質量。
時子の手指が山下の背中の布地を激しく掴み、爪が肉に届くほど固く丸まった。
「おっちゃん……
わたし、三宅坂へ行くで。
メガネ猿(永田)のところへ……!」
山下は一瞬、目を丸くしたが、すぐに豪快な顔を歪めて破顔した。
丸太のように太い両腕が回され、時子の華奢な身体を、骨がギチギチと鳴るほどの力で丸ごと抱き締め返した。
「おうよ!行け、お嬢!」
山下の胸板から響く重低音が、時子の耳底を揺らす。
「三宅坂のメガネ猿になぞ、絶対に呑まれなぞ。
……ワシはここにおる。
満州から三宅坂のど真ん中へ、いつでも睨みをきかせておくきに!」
山下の太い手が時子の頭を乱暴になで回し、そのまま背中をポンと強く叩いて押し出した。
その衝撃で弾かれたように時子は振り返り、一度も後ろを見ずに艇頭ハッチの階段を駆け上がった。
ガチャン、と重いハッチが閉まる。
隙間から滑り込んだのは、解体された主砲跡の鉄の錆び臭さと、夕日に沈む山下の巨大な影、そして時子の服にこびりついた山下の汗の匂いだけだった。
黄昏の黄海を滑走した白鶴二型は大連を離水した。
東シナ海から紀伊半島沖を迂回し、背中に偏西風を受けながら、夜の太平洋の上空を切り裂いていく。
ガガガガンッ!
海面近くのシアー(風の不連続面)に突っ込んだ瞬間、激しい乱気流が巨躯を襲い、第三エンジンの火星が一瞬激しくノッキングを起こした。
機体が数十メートル沈下し、海面の漆黒が窓に迫る。
暗い機内。
絶え間ないエンジンの重低音が、床板を通して背骨へ振動を伝え続けている。
時子は暗がりの中で、膝の上のウールコートの袖口を見つめていた。
寸分違わず同じ型紙で裁たれた、靚子のマルーンチェック。
西の資本も、陸軍の兵站も、市川房枝の二ミリの定規も、そして自分たちの着ている服すらも——すべてが誰かの「規格」に狂いなく揃えられている。
揃わなければ、この黒い海へ弾き飛ばされて死ぬ。
時子の指先が固く丸まり、爪が掌の皮膚を突き破りそうになる。
「……時子ちゃん」
涼やかな声が、エンジンのノイズを透かして届いた。
井上靚子が、暗がりの中でこちらを見ている。
靚子は何も尋ねない。
ただ、すっと細い指を伸ばし、時子の強張った拳の中へ、自らの掌をねじ込んだ。
指と指が噛み合う。
逃げ場を塞ぐような圧力。
爪が皮膚を刺すほど強く握る。
「……私達だけは、ズレておりませんわ」
靚子の澄んだ声が、耳元で吐息とともに揺れた。
時子は息を飲み、吸い寄せられるように靚子の肩へ頭を預けた。
同じ濡れたウールの生地が擦れ合い、カサリと重い音を立てる。
指先にこびりついた黒い油墨の臭いと、靚子の襟元から漂う薔薇石鹸の香りが、密室の暗闇の中で混ざり合った。
胸の上下。
吸って、吐く。
高度八百メートルの闇の中、二人の心拍と息遣いが、機械の歯車のように重なっていった。
濡れた漆黒の闇の中、白鶴二型は浦賀水道を抜け、竹芝の「浜離宮大回廊」の水面へ滑り込んだ。
ハッチが開くと、夜の東京の、生臭い潮と冷たい泥の匂いが吹き込んできた。
時子はもたれかかっていた体を起こし、クロッシェの目深に指をかけた。
手の中に残る、皮膚に食い込んだ指の痛みと、微かな血の匂い。
明日は三宅坂。
あの不気味な永田鉄山が待つ、泥と鉄の城塞へ——時子は表情を消した瞳で、雨の夜の中へ踏み出した。