三宅坂。
陸軍省。
軍務局長室。
重い革張りのソファーに、水滴の残る湿った写真が十数枚、ぶちまけられていた。
デトロイトのフォード鋳造工場。シアトルにあるボーイングの主翼組立ライン。
ベルトコンベアの上を、削り出されたばかりの全金属製構造材が、何百と寸分の狂いもなく流れていく。
まるで、巨大な輪転機から吐き出される新聞紙のように。
「……これが、米国の『量産』だ」
永田鉄山は、冷えた珈琲のカップをデスクに叩きつけた。
ガタリと重い磁器が鳴る。
落ちくぼんだ眼の周囲には、削り取られたような黒い隈がへばりついていた。
「洞庭湖の米ルートを仕留めたと思ったら、奴らは即座に工作機械と一〇〇オクタンガソリンの蛇口を締め上げてきた。
アメリカは本気だ。
あと数年で、この何千機の鉄の群れが太平洋を渡ってくる」
永田は立ち上がり、ソファーに座る十四の少女——石原時子の目の前に、血走った目を突きつけた。
「職人芸など、全部殺さねばならん。
工員の腕も、技師のエゴも, 女の人生もだ。
全員を同じ型に叩き込んで、一つの巨大な機械に組み上げる。
……時子、これが『国家総動員』だ。
人間を、寸法に揃えるのだ」
時子の呼吸が、薄く止まった。
窓の闇に浮かぶ己の瞳に、父・石原と同じ無機質な硝子光が宿る。
毒ではない。
自分の中の冷酷な輪郭が、永田の叫びとぴたりと重なった。
時子は無言のまま、写真の中の鈍く光るフレームを見つめていた。
爪の間には、市川事務所で染みついた黒い油墨が残っている。
永田はソファーの横を通り抜け、粗雑に外套を引っつかんだ。
「視察だ。
お前も来い。
東の現場がどれほど腐っているか、その目に焼き付けておけ」
武蔵野。
中島飛行機と川崎航空が野合させられ、日産コンツェルンが後ろ盾となった「帝国航空」第一工場。
鋳物の刺すような臭気と、切削油の油煙が部屋の空気を白く濁らせていた。
鳴尾や天保山で嗅ぎ慣れた北樺太精製油の透明な香気とはまるで違う、東の粗悪な魚油混じりの焦げた硫黄臭が、時子の鼻腔を強く突く。
「……こんなの、飛行機の設計図ではない!」
図面台に両手をつき、掠れた声を張り上げていたのは糸川英夫だった。
名古屋で西日本の圧倒的な馬力と精度に叩きのめされ、翼を折られた天才。
その削げ落ちた頬と眼窩が、血走っている。
「西の白鶴二型は、すでに三菱の『火星二一型』を積んで二千馬力の大台に乗せている!
なのに、なぜ東には三菱の発動機がひとつも回ってこないんですか!
この千四百馬力の旧式発動機と劣悪な鋳物肌のまま無理に回せば、全開時に曲軸が振れて気筒体が割れます!
川西の堀越さんなら、こんな無茶な設計は絶対に認めない!」
「堀越だと?」
足音もなく糸川の真横へ歩み寄ると、血の気の引いた指先で図面台の端を静かに押さえた。
「あいつは一機の作品をつくる絵描きだ。
……糸川、貴様も絵描きになるつもりか?」
低く、かすれた声が、けたたましい金槌の打撃音を透過して、糸川の鼓膜にへばりつく。
「西で三菱の二千馬力が何百台回ろうと知ったことか。
あそこは阪急の金と樺太の油で動く異国だ。
東のここには、一個の軸受も、一缶の精製油も回ってこん。
それが統制の現実だ」
永田は落ちくぼんだ眼で、糸川の蒼白な顔面を静かに見下ろした。
「西の贅沢な空など忘れろ。
アメリカの重爆が帝都を焦土にする前に、我々が用意できるのは、お前が描くこの不細工な千四百馬力の箱だけだ。
美しい一機の芸術品で全滅するか、不細工な一万機の箱で敵を押し潰すか。
……国家が必要としているのは、後者だ」
永田の指先が、図面台の紙面をすっと撫でる。
「美学で空が護れるなら、絵の具でも塗って敵機を落としてみろ。
図面を直せ、糸川。
貴様の尊厳をすべて殺して、寸法を揃えろ」
時子は一歩引いた位置から、工場内の闇を見つめていた。
けたたましい打撃音と油煙の向こう。
第一交代と第二交代の女工たちが入れ替わる作業ライン。
引き継ぎの看板の前で、女工たちが無駄なお喋りを交わし、交代に十五分ものロスタイムを垂れ流している。
削り出されたクランクケースの山。
職人気取りの工員が「これくらいなら良品だ」と、ノギスの目盛りをコンマ二ミリ粗く読み飛ばして箱へ放り込む。
糸川の図面台。
翼根の肉厚指示に付された、現場への甘えのような「打痕許容」の赤字。
時子の喉の奥で、不快な酸味がせり上がった。
ぬるい。
ガバガバや。
阪急の宝塚線で毎朝、寸分の狂いもなく電車と客を回転させていた小林一三のあの鋭利な幾何学に比べ、東の現場は泥沼のように弛緩していた。
永田は図面を激しく叩いた。
「流線型の美しい肉薄構造などいらぬ。
過給機の多段化も捨てろ。
気筒の精度も割り切れ。
高出力化の熱と振動は、厚い肉と粗い骨組みで力任せに押さえ込め。
公差を広げろ。
寸法を揃えろ。
誰がどの工場で組んでも同じ馬力が出る『鉄の箱』を設計しろ。
糸川、貴様の不細工な美学など、規格の中に叩き潰せ」
糸川は唇を噛み締め、血の味を噛み殺した。
掠れた製図ペンが、紙の上でキーキーと悲鳴を上げた。
夕刻。
三宅坂。
軍務局長室。
静まり返った室内で、時子は一人、永田のデスクに置かれた「物資割り当て草案」の別表を開いていた。
鉛筆の芯が、紙を削るかすかな摩擦音。
日産、日立、中島、川崎。
東の財閥どもが算定した、女工の作業データと鋼材の歩増し寸法。
昼間、武蔵野の工場で焼きついた映像が、時子の脳裏で完璧な数値に換算されていく。
交代時の十五分の無駄死に。
コンマ二ミリの誤魔化し。
時子の指先が動く。
二つの交代枠の動線誤差を直線で引き直し、鋼材の削り余白を赤線で削り取り、公称値ジャストの数字へ書き換えていく。
「……ほう」
背後で、板戸が開く音がした。
疲弊しきった顔の永田が、外套を脱ぎながら時子の手元を覗き込む。
時子が直した赤字の列。
それは、女工の動線を固定してロスタイムを殺し、歩止まりを極限まで引き上げる冷徹な標準化だった。
「……容赦がないな、時子」
永田は歪んだ笑みを浮かべ、時子の隣に腰を下ろした。
「お前は、俺のことが嫌いだろう。
俺の権力欲も、三宅坂の臭いも、虫唾が走るほど嫌っているはずだ」
時子は鉛筆を止めなかった。
紙を削る音が削岩機のように規則正しく響く。
「……だがな」
永田は時子の耳元で、低く掠れた声で囁いた。
「お前の頭は、俺の『国家統制学』を誰よりも求めている。
人間という不確定な要素を削り落とし、完璧な幾何学へ揃えていくこの手応え……。
お前は、石原莞爾の娘ではない。
俺の、一番弟子なのだ」
永田は引き出しを開け、使い込まれた黒革のケースを粗雑に引き出した。
中の竹製セルロイド張り計算尺——『HEMMI』の刻印が入った特注品を抜き取り、時子が赤字を入れかけた草案の上に叩きつけた。
ドシリ、と重い金属音がデスクを揺らす。
両端の固定金具から背面の補強骨格、カーソル枠に至るまで、厚手の真鍮がふんだんに奢られた特別製。鈍い黄金色の光沢が、湿ったランプの光を照り返していた。
「手書きの筆算など、鉛筆の芯の磨耗一つで数字がブレる。
疲労も感情も混じる手計算で大口を叩くな。
比率の積算も歩止まりの乗算も、すべてその目盛りに委ねろ。
その真鍮の重量(おもさ)で、手元の揺らぎを完全に殺せ。
……デカい口を叩くなら、お前の指先から人間を消せ」
時子の視線が、草案の上に鎮座する真鍮と白セルロイドの塊に落とされる。
竹の肉を貫く真鍮の厚みが、手に取らずとも狂いを許さぬ冷酷な質量を主張していた。
時子は指先を伸ばし、真鍮の枠を掴んだ。
ひやりとした金属の冷たさと、見た目以上のずしりと手首に響く重み。
指先に真鍮特有の鈍い金属臭が移る。
時子は親指でカーソルを滑らせた。
ズッ、と真鍮とセルロイドが密着して滑る、重厚で隙間のない摩擦音が静寂を打つ。
「先生」
時子は計算尺の真鍮枠を握り締めたまま切り捨てた。
「勘違いしたらあきません。
……わたし、先生の思想に惚れてるんと違う」
時子は立ち上がり、赤字で埋め尽くされた草案を永田の胸元へ押し付けた。
「昼間見せられた武蔵野の現場、あまりにもガバガバで、数字の帳尻が汚すぎます。
現場が甘えてる分、全部削り落としました」
永田の胸を、紙の束が強く叩く。
「常磐の爆破事故で日立に貸した分、きっちり回収します。
それから糸川さんの図面、翼根の肉厚と打痕の許容公差、あとコンマ二ミリ詰められます」
時子は左手に真鍮の重量を抱えたまま鞄を手にとり、扉へ手をかけた。
ふと足を止める。
握りしめた計算尺の表面、真鍮のカーソル枠が刻むコンマ一ミリ単位の極小目盛り。
そこに乗っていた時子の両眼の光軸が、スッと水平にスライドし、永田の顔面を捉えた。
「……あと、前から気になってましたが」
真鍮の計算尺を抱えた14歳の指先が、永田の口元を指さす。
「……髭、左右不揃いですよ。
コンマ五ミリ、右が高いです」
永田が息を呑むより早く、時子は言い捨てて振り返った。
「……揃わんかったら、アメリカに負けますよ」
バタンと重い扉が閉まる。
永田は押し付けられた草案の赤字を見つめ、やがて己の髭に指を触れた。
声もなく、肩を揺らして笑う。
額から落ちた一滴の汗が、赤インクの数字を濡らし、静かに滲んでいった。